第8話。愛と連絡

 バイトから家に帰ってきた時、私は玄関の前で立ち止まった。念の為に周りを確認してから扉を開けることにした。


 自意識過剰で済むならそれでいい。だけど、実際にお店では被害があって、外で何も起きないなんて甘い考えだと思っていた。


「なんで、このタイミングで……」


 盗撮の件。鈴佳すずかだけじゃなくて、私も警戒しないといけない。今は家に姉もいるのだから、面倒事には巻き込まれたくなかった。


 確認が終わると玄関の扉を開ける。すぐに家の中に入り扉に鍵をかけた。チェーンロックも使おうかと手を伸ばした時、背後の扉が開く音が聞こえた。


「アイ。おかえりなさい」


 扉の向こうから姉が姿を現した。姉はゆっくりと近づいてくるから、私に何か用でもあるのだろうか。


「ただいま、お姉ちゃん」


 私は気づかれないように手を引っ込めた。


「アイ。ご飯にする?お風呂にする?それとも……」


「お姉ちゃん」


 姉が私に抱きついてきた。それを私が素直に受け入れたのは、まだ消えない不安を潰してしまいたいからだった。


「アイ。何かあった?」


「別に。いつも通り」


 姉に話しても解決するような話じゃない。今の私が欲しいのは、この熱と匂い。一番嫌いな人間の持つものが、私をもっとも安心させる。


「アイ。痛い」


「我慢して」


「うん。我慢する」


 力任せに姉の体を抱きしめたのは、困った時に姉に甘える自分自身に対して怒りを感じていたからだ。つまり、今やってるのは姉に対する八つ当たりだ。


「もういい」


 しばらくして、落ち着いた私は姉を離した。


「残念」


 姉が名残惜しそうな顔をする。苦しそうな声を漏らしていたのに、嫌がるどころか、残念がるとは思わなかったけど。


 とりあえず、制服を着替える為に部屋に行くことにした。廊下を進む途中で姉が私を追い越してリビングの方に走って行った。


 何をそんなに慌てているのか。


 そんなことを考えた時、背後から足音が聞こえた。


「アイ」


 久しぶりに父親から声をかけられた。


 だけど、今はあまり父親と話したくない。


「何か用?」


 父親が手を出して、私の顔に触れようとした。


「触らないで」


 私の言葉を無視して、父親は顔に触ってきた。


 大きくて、ゴツゴツした父親の手は熱っぽくて鬱陶しい。なのに、触れられていると、私は嫌なほど安心してしまう。


 私は父親の腕を掴んだ。引き離すことは簡単なのに、私にまだ不安が残っているのか、それ以上拒むことが出来なかった。


「娘にベタベタする父親は嫌われるよ」


「ああ」


「私、何か変だった?」


「辛そうな顔をしている」


 やっぱり、父親には見抜かれていた。


 父親は私が誰よりも同じ時間を共有してきた人間。言葉は少なくても、何を考え、何を思っているのか、理解出来てしまうようだ。


「……何も話すつもりはない」


「そうか」


「気にならないの?」


 我ながら嫌な質問をしたと思う。


「とても、心配だ」


「ごめん……」


 父親が娘のことを気にしないわけがない。私が今でも不貞腐れていないのは、父親が私を大切な娘として扱い続けてくれるから。


 それが嫌なほど伝わって。私が今でも父親を嫌いになれない理由だった。


「もし、娘の悩みを解決出来るとしたら。それは父親ではなく、同じ娘にしか出来ないのかもしれない」


「お父さん。もしかして、お姉ちゃんを連れて来た理由って……」


 父親は諦めるように私から離れて行った。


「二人とも、大切な娘だ」


 私の考えすぎかもしれないけど。父親が姉を家に迎えたのは、姉妹として助け合ってほしいからだと思った。


「……余計なお世話だよ」


 ムカついたわけじゃない。ただ、父親の優しさを私は受け止めきれない。今の私には他人の感情が鬱陶しく感じてしまうから。




「お姉ちゃんってさ、いつまでいるの?」


 ベッドに入る少し前、私と姉はベッドに座りながら話をしていた。ほぼ日課のようなものだけど、慣れてくると余計な会話まで始めてしまう。


「うーん。ママは何も言わない」


 私の方から一度も母親には連絡していない。姉に聞けば母親の連絡先を知ることは出来るけど、わざわざ話したいとは思わなかった。


 私に気を使っているのか、姉も母親とはあまりやり取りをしていない。母親の状況を知るなら、私から直接連絡を取る必要があった。


「アイは。私がいると迷惑?」


「迷惑じゃないと本気で思う?」


「……ごめん」


 私は姉と肩を触れ合わせる。


「でも、勝手にいなくなったら怒るから」


 また私の前から姉がいなくなったら、もう二度と今の関係には戻れない。最低限、私が姉を許しているのは、過ぎた時間がもうどうでもいいと少しは感じさせているからだ。


「アイ」


 姉が体を動かして、私の頬に手を触れさせる。


 父親の大きな手とは違って、姉の手は柔らかくて冷たい。だけど、その手は私と同じ。あまり好きじゃなかった。


「大好き」


「……やめてよ」


 私は姉から顔を逸らした。


「アイと。ずっと一緒にいたい」


「私は一緒にいたくなんてない」


 その言葉を口にしても、姉は微笑む。今の姉なら何でも受け入れるように感じて、私は間違った言葉を口にしてしまう気がした。


「ねぇ、なんで、お姉ちゃんは……」


 父親じゃなくて、母親を選んだの。そんな言葉を口にしなかったのは、直前で冷静になったから。


「アイ?」


 もし、姉の答えを聞いたら、余計に許せなくなってしまうかもしれない。だから、慎重に言葉を選ばなくてはならない。


 特に母親の話題を出すのは、自分で自分を追い詰めてしまうだけだ。


「お父さんのこと、どう思ってる?」


「好き」


「でも、ずっと会ってなかったよね?」


 姉が顔を横に振った。


「今まで。ずっと。月に一度だけ。電話してた」


「え、そんなの知らないけど……」


「アイに内緒だって。あ……今のは違う」


「いや、もう遅いってば」


 何年も姉と父親は別々に暮らしていたのに、やけに父親に懐いていると思ったら、そんな理由があったのか。


 父親は私に向けるくらい同じ愛情を姉にも向けていた。平等な愛情。なのに、少しだけ私は嫉妬してしまう。


「パパはずっと。私の心配をしてた」


「心配?」


「寂しくないかって。何度も聞かれた」


「ふーん」


 父親と離れていても母親が一緒だから、姉も平気だったと思うけど。


「寂しくはなかった。でも。私は一度だけパパに言ってしまった」


「何を言ったの?」


「アイに。抱きしめられたいって」


 小さい頃の記憶がよみがえる。私と姉は四六時中一緒でお互いの熱を何よりも知っていた。なのに家族がバラバラになった日から、私の熱は芯から冷めていくような感覚があった。


「ほら、今なら抱き放題だよ」


 私は両手を広げて、姉を迎える準備をした。


「なんか。いや」


 姉に否定されるなんて新鮮な気分だった。


「大丈夫、ちょっとだけだから」


「アイ。にじり寄ってこないで」


 嫌そうな顔をする姉を見て、私は自分の好奇心が抑えられなくなった。私は逃げる姉に向かって飛び込んだ。


「お姉ちゃんー!」


「いやー!」


 どうやら、姉は悪ふざけで抱きしめられるのは嫌なようだ。普段は姉の方からベタベタしているのに意外だった。


 冗談のつもりが姉の反応が楽しくて、少しだけ騒いでしまった。夜も遅く、父親に扉をノックされた時にはすぐにやめた。


「さてと、そろそろ寝ようか」


 姉は地面に倒れていた。いじけているのか、顔を合わせてくれず、先に私一人でベッドに寝転がった。


「お姉ちゃん。めんどくさいから、早くして」


 声をかけると、姉が立ち上がった。姉は部屋の電気を消して、私の隣に寝転んでくる。


「アイ。場所変わって」


「ん、いいけど」


 私と入れ替わって、姉が壁際になる。いつも姉が外側だから気づかなかったけど、本当はそっちの方がいいのだろうか。


 まだ姉は悪ふざけを根に持ってるいるのか、私に背を向けている。今から寝るからいいけど、明日まで引きずられると困ってしまう。


「おやすみ、お姉ちゃん」


「アイ。おやすみ」


 それから少しの間は黙って、私はケータイに手を伸ばした。本当はベッドに入る前に確認したかったけど、どうせ誰からも連絡は来ていない。


「……っ」


 そんな時、ケータイにメールが届いた。


 内容だけ確かめて、返事なら明日にでもすればよかった。だけど、そのメールを最後まで読んだ私はベッドから出ることにした。


「行かないと」


 もう夜も遅い時間。それでも私は大事な目的の為に外出することにした。

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