6月14日 呼び方指南
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6月14日
〇ゆうに名前で呼ばれて、ひどく狼狽してしまった。今まで経験したことのないほどの動揺だった。しばらくの間、ゆうのいやになまめかしい表情といつもの甘えた調子に震えを加えた声が、頭にこびりついて離れなかった。
今この瞬間、私のこれを覗き見たゆうが横からまとわりついて、「もう一回しよっかなあ」とからかってくる。
今の雰囲気で呼ばれてもどうということはないだろうが、果たしてどうなのだろう……。
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昼休み。
いつものごとく、三人で中庭の木陰のベンチに座り、昼食後のゆったりとした時間を過ごしていた。
不意に、「なあ、ゆうちゃん」と、気だるげな声を穂村が発した。
私と穂村の間に座るゆうが、抑揚なく「なんですか」と聞き返した。
「私のこと、お姉ちゃんって呼んでくれ」
「イヤです。絶対にイヤです。私のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけです。絶対にイヤです。断固拒否です、イヤです」
じりじりと私の方に身体を寄せて、ゆうは考える間もなく即答した。
穂村が悲しそうに肩を落とす。
「そんなにイヤイヤ言わなくても……さすがの私も傷つくぞ」
穂村のやつ、一体どうして唐突にそんなことを言ったのだろう。ゆうのこの反応くらい、容易に想像できただろうに。
「どうしたんですかいきなり」
ゆうが怪訝な視線を向ける。
穂村は天を仰いで、気だるげにため息をついた。
「いやあ、優菜がゆうちゃんにデレデレなのは、お姉ちゃんという呼ばれ方もその要因のひとつなのではと考えてね。一体どんな気分になるのだろうと疑問に思って……きいてみた」
そんな憂いを帯びて言う台詞じゃないだろうに……。
というか、ゆうの期待の眼差しが迫ってきて居た堪れない。
瞳を煌めかせて、なぜか小声で、「デレデレですか? してますか?」と訊いてくる。
思わず顔を背け、
「デレデレなんてしてないし」
と、努めて素っ気なく言う。
すると、穂村がこちらに横目をくれて乾いた笑いをこぼした。
「なんだよツンデレか? いまどき流行んねえぞこのすっとこどっこい」
「あなたいつにもまして口調が乱暴ね」
「ツンデレお姉ちゃん、アリです! 大アリです!」
ゆうが私の腕に肩をぴったりとくっつけて、鼻息を荒くする。
顔が近すぎて、頬に鼻息がかかってくすぐったい。
「アリっていうか、ゆうちゃんはどんな優菜でも無条件で受け入れるだけでしょ」
「“受け入れる”だなんて語弊のある言い方をしないでください。正しくは、どんなお姉ちゃんも素敵すぎて愛してしまう、です」
人差し指を立てて穂村の発言を訂正したゆうが、私に満面の笑みを向けてくる。
何を伝えたいのか知らないが、とにかく圧がすごい。
暑苦しいったらない。
「あくまでお姉ちゃんの魅力が私を虜にしているんです。まるで私の器量がそうしている、というような言い方をされては心外です、とんでもないです。すべてはお姉ちゃんの魅力のなせるわざなのです」
穂村が、「おー、すごいすごい」と無感情に言いながら拍手をした。
「ところで話を戻すけど、ゆうちゃんは優菜のこと、他の呼び方しないの?」
穂村の言葉に、ゆうがピタリと静止した。
口を半開きにしたままで、どこか虚空を見つめているようだった。
そんなゆうの両隣りから私と穂村がじっと反応を待っていると、しばらくしてからハッと表情を動かした。
「おねっ……お姉ちゃん!」
「なに」
ゆうの顔を見下ろすと、「あれっ……」と言って戸惑いを露わにした。
「今私、色々呼び方を考えていたはずなんですけど、無意識にお姉ちゃんって呼んでました」
「なにそれ」
思わず笑ってしまった。
ゆうが照れくさそうに頬を掻いた。
「えへへ、お姉ちゃんはお姉ちゃんですね」
「そうねえ」
すると、私たちのやり取りを黙って聞いていた穂村が腕を組み、喉を鳴らすように唸り声を出した。
「……試しに下の名前で呼んでみたらどうだ」
「えー……一回だけですからね」
しぶしぶといった具合に、穂村の提案に従ってゆうが私を見上げて、ゆっくりと口を開いた。
「ゆ、優菜ちゃ……さん……? 優菜おね、お姉ちゃん……ゆ、ゆう……な、さま」
そのぎこちなさに、穂村がお腹を抱えて笑い出した。
私はというと、ゆうに初めて会った日のことを思い出していた。
あの日もこうやって呼び方を色々と模索していたことがあったっけ、と。
「はい、もっとハキハキと、ゆ・う・な」
「ゆ、ゆーな……」
「そうそう、はいもう一度、ゆうな」
「ゆ、ゆうな」
「いい感じいい感じ。さんはい、優菜」
「優菜……優菜」
一回だけとは何だったのか、ゆうは穂村のペースに巻き込まれているようだ。
そんな風に何度も名前を連呼されると、全身がむず痒くなるような気恥ずかしさに襲われる。
普段名前で呼んでこないゆうだとなおさらだ。
「よしノッてきたな、その調子で優菜に向かって言うのだ」
ゆうが頬を上気させながら、上目遣いに私を見据える。
思わず目を逸らしたくなったが、ゆうの潤んだ熱っぽい瞳がそれを許さなかった。
「……優菜」
ゆうの薄桃色の唇が震えた瞬間、頭部に強烈な熱気が流れ込んできたかのような感覚に襲われた。
そのまま思考がまともに働かなくなった。
穂村とゆうが、揃って目を丸くする。
「おお……こりゃ私の仮説はまったくの間違いだったみたいだ、まさか優菜にこんな弱点があったとは。お前ってやつはとことんゆうちゃんに弱いのな」
「お姉ちゃん、お顔が真っ赤です」
何か言いたいが、こんな反応をしてしまって、それが恥ずかしくて声が出ない。
穂村が澄まし顔で、ゆうの肩にポンと手を置いた。
「ゆうちゃん、これは攻撃力が高くて危険だからあまり使わないように」
ゆうが私を見つめたまま、コクコクと何度も頷く。
「はい……というより、なんだか私も恥ずかしいので、もうやりません」
そう言って、私をじっと見つめ続ける。
「絶句してしまうほど照れたお姉ちゃん、初めて見ました」
「アリ? ナシ?」
後ろから穂村に問われて、ゆうは依然として私を見たまま、力強く握りこぶしをつくった。
「愚問です。アリです、大アリです!」
ふたりのやり取りに呆れながらも、私の頭の中は、先ほどのゆうの表情と声に埋め尽くされているのだった。
ゆうの声を思い出して頭の中で反響する度に、鼓動が鬱陶しく暴れていた。
「では、次は穂村さんの下の名前を呼びましょう。えっと……姫、さん」
ゆうが穂村の方を向いて、どうということはないという風に言う。
当の穂村は顔をひきつらせて、いまいち微妙な表情を浮かべた。
「いや、私のことはどうでもいいから」
「あっ良いこと思いつきました、特別に穂村さんにも様づけしてあげます。ね、お姫様」
ゆうが「お姫様」と発言すると同時に、穂村が両手で頭をかかえて悶え始めた。
「おいやめろ、それだけはやめろ」
穂村の反応に、ゆうが私を振り向いて小首をかしげた。
「何かトラウマを掘り起こしてしまったようです。お姉ちゃんは何か知ってますか?」
「知ってるけど、可哀想だからやめてあげなさい」
こうして、私と穂村が仲良くゆうに心を乱されて、昼休みは過ぎていった。
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