5月29日 姉好きのプライド

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5月29日


〇美弥子と穂村が初めて顔を合わせた。穂村が話しかけるたびに赤くした顔をうつむけてモジモジとしていた。


〇美弥子の数学の手ごたえと自己評価がイマイチだったらしく、明日ゆうの試験科目に数学があるからついでに復習しよう、と、ゆうに呼ばれたらしかった。このふたりが仲良くなって、どこか保護者目線で嬉しいように思う。

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 午後二時過ぎ。私は自室で、穂村と共に試験勉強をしていた。

 今日と明日にかけてある中間考査のためだ。一日目の今日の試験が終わり、穂村が珍しく私のうちにやってきたのだった。

 「ひとりだとどうも集中できん」ということらしい。


 私は私で机に向かっていると、不意に背中に声がかかった。


「なあ、なんか騒がしくないか?変な音もしたし」


 後ろを振り返ると、ローテーブルの下で胡坐をかいた穂村が、人差し指を下に向けていた。

 確かに、なにか瓶の転がるような音は私も聞いた。そして、ふたつの女の子の声も聞こえた。

 おそらく、ゆうと美弥子の声だろう。


「お茶でも取りにいこうかな」


 そう呟いて立ち上がる。すると穂村も腰を上げて、「じゃあ私はお手洗いをお借りする」と言ってニヤリと口角をもちあげた。


「正直に気になるって言いなさいよ」


 すれ違いざまに鼻でわらってやると、穂村の手が背中をポンと叩いてきた。


「あんたこそな。顔に心配だって書いてあるぞ」

「うるさいな」


 ぐちぐちと言い合いながら階段をおりる。

 踊り場を回ってすぐ正面に目に入る玄関に、やはりゆうと美弥子の姿があった。

 すぐに私に気が付いて、ゆうの隣であたふたとする美弥子。

 ちょうど私に背中を向けるゆうはというと、腰をかがめて手に持った何かを顔の前に近づけていた。どうやらそれの匂いを嗅いでいる様子だった。

 

「ゆうちゃん……とうとうお友達の前でも欲望のままにしてしまうようになってしまったか」


 階段の中ほどで足を止める私の後ろから、穂村が笑いをこらえているような震え気味の声を出した。

 穂村の声に反応して、ゆうの体が跳ね起きる。

 恐る恐る、実にゆっくりとした動作でゆうがこちらを振り返った。

 そして、パチリと私と目が合う。その瞬間、ゆうは目を瞠って、何かやましいことでもあるように後ずさった。


「おっ、おねっ、お姉ちゃ……いえこれは違うんです!」


 慌てふためいて、ゆうは手に持っていた革靴を背後に隠した。美弥子が無言のまま、真っ赤にした顔を両手で覆う。

 

「お姉ちゃんの靴の匂いを嗅ぎたかったとか、そんなやましい理由では決してなくてですね!」


 何も言っていないのに勝手に弁解を始めるゆう。

 そんな反応をされるほうがよっぽど怪しく見えるというものだ。


 後ろから、穂村が必死に笑いをこらえて苦しそうな息遣いが聞こえてくる。

 私はため息をついて、止めていた足を動かして階段をおりた。


「美弥子、いらっしゃい。お昼ご飯もう食べた?」


 依然、玄関に立ち尽くすふたりに近寄りつつ美弥子に声をかけると、美弥子は顔を覆っていた両手を下にずらして、私の目を見返した。

 顔は赤くしたままで、首を縦に振った。


「お邪魔します。うん、食べてきたよ」

「そう。美弥子の学校は試験日今日までだったよね、お疲れさま。ゆっくりしていってね」

「うん、ありがとう」


 さて、この混沌とした場をどうしようか。

 玄関が少し水でぬれていて、ゆうの足元に、一輪のバラがささった水の入っていない細めの瓶がある。そして、ゆうが手にしている私の革靴。

 まあこの状況から、何があったのかは明らかなわけだが……。


「わ、私はそんなヘンタイさんなどではありませんよ……断じて……」


 ゆうが明後日の方向に視線を泳がせる。

 私の斜め後ろに立つ穂村が、何やらほっこりした満足げな表情で頷いた。


「ゆうちゃんがそういうことをやるときは、もっと堂々としてるからな」

「そうねえ、堂々とするのはそれはそれでどうなのよって話なんだけど」


 私と穂村のやり取りに、ゆうは力なくうなだれた。


「あ、あれ、靴の匂いを嗅いでいたことは普通に受け入れられてます?」

「いや、むしろ今さら狼狽えられても困るんだけど」


 苦笑して返すと、ゆうは大げさに驚いた表情をした。


「あれれ、私ってもしかしてお姉ちゃんの中ではヘンタイさん認定されてますか?」

「まあ間違ってはないわ」


 そこで穂村が、耐えきれなかったとばかりの笑い声をあげた。美弥子が顔を紅潮させたままコクコクと小刻みに頷く。

 

「で、どうして私の靴を嗅いでたのよ」

「えっと、花瓶がお姉ちゃんの靴の上に落ちちゃいまして」


 ゆうがもじもじと気恥ずかしそうにして話し出した。

 

「お水がお姉ちゃんの靴にかかっちゃいまして……」


 申し訳なさそうに人差し指で頬を掻き、一呼吸置いた。


「これにかこつけて、お姉ちゃんの靴の香りを嗅いでもヘンではないかなー、むしろ当然かなー、なんて」


 ゆうは、えへへと上目遣いに私を見て、照れ臭そうに笑いをこぼした。

 そんな可愛らしく言ったって、言ってることは全然可愛くないぞ。

 呆れて、思わずため息が漏れる。


「かこつけてってあなたねえ、さっきやましいことはないって言い訳してたでしょうが」

「はっ、そうでした!違うんです、お水がかかってしまって、お姉ちゃんの神聖なお履物に余計な匂いが混じってしまっていないかの確認をですね!」


 いや、その言い方も色々と引っかかるのだが。

 両手をバタつかせて言うゆうに、湿っぽい視線をくれてやる。


「下心は?」

「ありました!」


 元気よく即答するゆうに、「正直でよろしい」と言ってから、はたと考える。

 先ほど穂村も言っていたが、いつもならばこういう言動も恥ずかしげもなくやっているのに、どうして今回に限ってこんなにも言い訳がましいのだろう。


「お姉ちゃんごめんなさい、靴を濡らしてしまって」


 ゆうがそう言って、いたずらが見つかって縮こまる犬のように、シュンとして眉を下げた。


「いいよ別に。今日は天気もいいし、日なたに置いておけばすぐ乾くでしょう。それより花瓶が割れでもしてケガをしなくてよかったわ」

「うう……お姉ちゃんが優しいです。それなのに私って人はなんてことを」


 ゆうが左右の手に片方ずつ靴を持って、鼻をすんすんと鳴らしながら手に持った靴で顔を隠した。

 美弥子と穂村を交互にみて、「なんなの?」と訊く。

 美弥子は激しく首を横に振り、穂村は半笑いで「さあ」と言う。

 すると、靴の間から顔を覗かせて、ゆうが口を開いた。


「お姉ちゃんの目がないところでああいうことをするのはマナー違反だと思うんです! 私、いつでもどこでもお姉ちゃんのことが大好きです。でもだからこそ私は決めているんです、“そういうこと”はお姉ちゃんの目の前で胸を張ってするべし、と! 陰でやってしまっては大好きなお姉ちゃんに後ろめたさが残ってしまいますから。だけど、さっきの私には『お姉ちゃんの目がなくてもこれくらいしたって……』などと!そんな浅はかな油断した気持ちがありました。お姉ちゃんの靴の魅惑にあてられて、私は私自身と、そしてお姉ちゃんを裏切ったんです」


 ところどころに力を込めながら話し終え、ゆうは目を伏せた。


「その考え方が後ろめたさの原因だったわけね」

「はい、ごめんなさい。我慢ができませんでした」


 頭を下げて謝ったかと思うと、ゆうは右手を頬にあてて、うへへ、と不審に笑った。

 しかしなんだか妙に納得してしまった。確かにゆうは、私に隠れてコソコソと、ゆうの言葉を借りれば“そういうこと”をすることはないように思う。その分、見境なく私にぶつかってくるわけだが……ちょっと鬱陶しいと思う反面、そこがゆうの愛すべきところなのかもしれない。


 穂村が笑い交じりに、「すごいな」と漏らす。

 本当に、この子はすごい、色々な意味で。


 美弥子は真剣な顔でゆうを見つめ、しきりに頷いていた。

 おもむろに、美弥子がかばんをまさぐり始めた。取り出したのは手のひらサイズの手帳だった。それを開いて、熱心に何かを書き込んだ。

 少しして美弥子の手が止まり、ゆうの肩を指先でつついた。


「ゆうちゃん今の、もう一回言って」


 するとゆうは、美弥子の要望通りに今度は美弥子に向かって、同じセリフを繰り返した。二回目ともなると、なんとなく間抜けに聞こえてきた。

 しかし何だろう、前に訊いて答えてはくれなかったが、文芸部で書いている何かのネタにでもするのだろうか。


 玄関に並ぶふたりを何気なく眺めていると、ゆうがこちらを向いて、顔をほころばせた。

 思わず、私も笑顔を返した。


「お姉ちゃんの靴、とても素敵な香りでした」


 一瞬のうちに、笑顔を返してしまったことを後悔した。

 ゆうの頭頂部に手刀を食らわせてやる。ゆうは「あう」と声を漏らして、嬉しそうに目を細めた。

 

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