5月17日 段ボール記念日
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5月17日
〇ゆうによって、五月十七日が段ボール記念日となった。
〇ゆうの私に対する人懐っこい小動物感のせいで、今日は私もどこかおかしな方向へいってしまった気がする。まあ、仕方ないか。
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夕飯の準備をして店の方に足を運ぶと、丁度、ゆうが店じまいをしているところだった。
正面の道路に面したガラス窓にカーテンをひく彼女の小さな背中に、「ありがとう、お疲れさま」と声をかける。
ゆうが振り返って満面に笑みを浮かべた。
すぐに、トコトコとそばに駆け寄ってきた。
「今日のご飯は何ですか?」
つま先立ちをして訊く彼女に、少し考えるそぶりを見せてから微笑みかける。
「オニオンスープ」、と一言答えると、ゆうは目を見開いて、次の瞬間には顔を目一杯にしかめていた。
……そんなに嫌そうな表情をしなくても。
「嘘だよ、ビーフシチュー」
ゆうのしかめっ面を両手で包み、頬を揉みほぐすようにぐにぐにと動かす。
手の動きに合わせて、甘えたがりの子猫のような声が漏れ出てくる。
それをしばらく楽しんでから手を離してやると、ゆうは頬を膨らませて不満を露わにした。
「お姉ちゃんいじわるです、冗談でも玉ねぎなんて言っちゃいけませんよ。学校で習いませんでしたか?」
「習いません、農家のみなさんに謝りなさい」
そう言って、ゆうの頭頂部に軽く手刀を食らわせる。「あう」と弱々しい声を出して、ゆうが自らの頭を押さえた。
「農家さんごめんなさい」
「よろしい。ついでに、これからはちゃんと玉ねぎ食べますって言いなさい」
「ヤです」
にっこりと笑って即答した。なんて良い笑顔なんだ。
ふと、ゆうの肩越しに、商品棚の横に放置された大きめの段ボール箱が目に入った。どうやら中は空っぽらしい。
それを指さして、「ゆう、あれ何?」と訊いた。
ゆうが後ろを向いて、ああ、と何か知っているという声を出した。
「さっきおじいさまが外から運んでこられて、新聞紙に包まれた大きい何かを取り出してましたよ」
「大きい何かって何よ」
「さあ……裏の方に持って行かれたみたいですけど、お仕事道具か何かでしょうか」
ふうん、と気のない相槌を打って、なんとなく段ボール箱とゆうを見比べる。
そんな私の様子を見て、ゆうが不思議そうに小首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「いやあ……ゆう、ちょっとアレに入ってみてよ」
段ボール箱を指さして言うと、ゆうはポカンとしてから、「えっ、どうしてですか」と実に戸惑った調子で返した。
私は指をさしたまま、黙って微笑んで頷いた。
ゆうが段ボール箱と私の顔を繰り返し交互に見る。
すると、急にハッとして瞳を濡らし、ずいと詰め寄ってきた。
「私はお姉ちゃんにとっていらない子だと暗におっしゃっているんですか?捨てられますか?見放されますか?実家に返送ですか?着払いですか?」
一気にまくし立てたかと思うと、いきなり胸に飛び込んできて抱きつかれた。すんすんと鼻を鳴らし、胸に顔をうずめてぐりぐりと額を擦り付けてくる。
「ええい鬱陶しい、そんなこと言ってないでしょうが」
肩をつかんで無理やりに引きはがす。ゆうは私を上目遣いに見て、名残惜しそうに唇を尖らせた。
かと思うと、すぐにうっとりと夢見心地な顔をして頬を上気させた。
さては正面から抱きつきたかっただけだな。
口元をだらしなく緩ませ、「えへへ、お姉ちゃん柔らかくていい匂いです……」と言葉を漏らす彼女を見て、そう確信した。
「早く入ってよ」
呆れつつ、ゆうの頬を人差し指でつついて催促する。
その瞬間、ゆうのうっとりモードがはじけて、我に返った。
「お姉ちゃんが、『ゆう大好きだよ』って言ってくれたら入ります!」
右手を高々と挙げながら要求し、二、三度踵を少し浮かせるようにしてジャンプをした。そのたびに、ゆうの黒髪が揺れ、リボンと共に踊っているようだった。
「あーはいはい、ゆう大好きだよ」
努めて無感情に発した言葉に、ゆうは瞳を輝かせた。
「入ります入ります!」と言って、餌を前にして落ち着かない子犬のように、段ボール箱へ駆けていった。
「つっかけは脱いでね。何かに使うかもしれないし」
はあいと返事をして、つっかけを脱いだゆうが少しの躊躇いもなく段ボール箱に両足を突っ込んだ。
「これでいいですか?」
ゆうが立ったまま、両手を鳥のようにパタパタとさせる。
「うーん、しゃがんで」
「はあい、こうですか?」
小さな体は完全に段ボール箱に収まった。
首から上をひょっこりと出して、ゆうが首をかしげた。
「そのままふちに手をかけて」
はあいと素直に返事をして私の言うことに従った彼女だったが、そこで何事かに気づいたように目をぱちくりとさせて口を半開きにした。
「お姉ちゃん、もしかしてこの格好、私やっぱり捨てられてませんか?」
「別にそうとは限らないでしょう、ただ段ボールの中に入ってるだけなんだから。いやあ、それにしても、ゆうは段ボールが似合うなあ」
ゆうがピクリと反応して、照れ臭そうに顔を俯ける。
「えへへ、そんなに褒めないでください、照れちゃいます」
「似合うから、写真撮っていい?」
「いいですけど……なんかお姉ちゃん、すごく愉しんでますね」
「うん、ゆうが可愛いから」
そう言って無雑作にスマホのカメラを構えると、顔を赤くして目から上だけを覗かせたゆうが、瞳をうるませて画面の中からこちらを見ていた。
おお……うん、可愛い。
心の中で大きく頷き、写真を撮った。
「もういいですか?」と、段ボール箱の中からゆうが訊いてくる。
私はゆうのすぐ目の前にしゃがみ込み、頭を優しく撫でた。
「いいよ、ありがとう」
すると、ゆうが顔をほころばせて、嬉しそうに口を開いた。
「お姉ちゃんが似合うって言ったから、今日は段ボール記念日です」
「うん、落ち着いて考えなさい……いや、私が言うのもなんだけどさ、それでいいのかい、ゆうさんや」
ゆうが無邪気な笑みをこぼして、すっくと立ちあがった。
段ボール箱から出てつっかけを履くと、「いいんですー」と声を弾ませて、奥へ向かって走っていった。
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