4月3日 温かい初めての朝
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4月3日
〇朝起きるとゆうが隣に寝ていた。ひとりで寝ようという気はさらさらなかったらしい。
〇ゆうが店の手伝いをしてくれた。まるで客のように、扇子やら寄木細工やら、何やら物珍しそうに観察していた。
〇商連会長はおじいさんの勧めのままに扇子を買ってくれたらしい。詐欺まがいのことをしていなければいいのだが。
〇こちらの方から一緒に寝ようかと誘うと、ゆうは弾ける笑顔で抱きついてきた。いちいち忍び込まれるのも面倒だから、仕方のないことだ。
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朝、ぼんやりとした意識の中で目が覚めた。
身体に不思議なぬくもりを感じて、その心地良さにまたうとうととしてしまった。
すぐそばで誰かの静かな寝息がきこえる。
外はきっと肌寒いのだろうが、布団の中はすごく暖かい。
鼻から息をふうっとついたとき、ふと頭にいくつもの疑問符が立ち上がった。そしてすぐに、疑問符の群れの中から感嘆符が飛び上がった。
目を開けて横を向く。目と鼻の先に、この世の悪など微塵も知らぬように無垢で純真な、彼女の安らかな寝顔があった。
「ゆう……いつの間にもぐりこんだの」
声に出して囁いても、当然彼女が目を覚ます気配などない。
幼さが多分に残るも端正な彼女の横顔を見ながら、昨晩のことを思い出す。予想通り私の部屋で一緒に寝たいとまとわりついてきた彼女だった。しかし私が自分の部屋でひとりで寝なさいとなだめたところ、案外にもあっさりと引き下がったので拍子抜けしたのだ。
そして結局がこれである。
彼女がもぞもぞと身じろぎをした。かと思うと、私の方に体を向けた。前髪がさらりと落ちて、右目にかかった。
指先でそっと髪を退かしたとき、彼女の瞼がぴくりと反応して、ゆっくりと目が開いた。彼女の透き通ったつぶらな瞳が露わになった。
「あら、ごめんね、起こしちゃったね」
そのまま中指で額を撫でる。
彼女はまさにむにゃむにゃという擬声語がぴったり合うように口を動かして、私に身を寄せてきた。
「お姉ちゃんだ……おはようございます」
私はひとこと、「おはよう」と返してから体を起こした。彼女も私に引き寄せられるようにして起き上がった。
彼女がとろんとした目をして私を見つめてくる。そんな彼女を横目に、私は演技っぽく腕組みをして、
「部屋に鍵でもつけるか……」
と呟いた。
「ええっ、それは駄目です、絶対駄目です!」
私の呟きに彼女が即座に反応して、左腕に巻き付いて必死に訴えてきた。
「高校生にもなるのにひとりで寝られないのはちょっとねえ……」
わざとらしく湿っぽい視線を彼女にくれてやる。すると彼女は、わざとらしくむくれた表情をしてみせた。
「ひとりで寝ることくらいできます。お姉ちゃんと一緒に寝たかっただけです」
「それよそれ。そう言ってこれからも毎晩のように布団にもぐりこむつもりなんでしょう。それをされたくないの」
「では最初から一緒に寝てくれればいいのでは」
彼女はさも当たり前だと言わんばかりの顔をして、真っ直ぐに私の目を見据えてきた。
この甘えん坊はまったく……先が思いやられる。
髪を手櫛で整えながら、ベッドから足を下ろす。両腕を上げて軽く伸びをすると、彼女も真似をするように伸びをした。
思わず頬が緩みそうになるのを既のところでこらえた。
「さて、朝ご飯の準備しなきゃね」
立ち上がって階下に向かうと、彼女も慌てた様子で後についてきた。
「鍵はつけないですよね?」
「お米とパンどっちがいい?」
「お米……鍵はつけませんよね?」
「適当に目玉焼きでも焼こうかな」
「鍵はつけませんよね?」
横から私の顔を覗き込んでは何度もそう訊いてくる彼女がなんとなく可笑しくて、「冗談だよ」というひとことは敢えて言わないことにした。
そんな、彼女と一緒に迎えた初めての朝だった。
台所で食器を洗っていると、何やらめかしこんだおじいさんが目の端に映り込んだ。
「おじいさん、今からお出かけ?」
「ああ、前に言ってたろう、商連会長が良い扇子売ってくれってんだが腰悪くしちまったみたいでなあ。ならこっちから出向いてさっさと売りつけちまえってな」
おじいさんはそう言ってガハハと笑い、木箱が入った大きな紙袋を手に提げてさっさと出て行ってしまった。
「午前のうちからご苦労なことで」
見えなくなった背中にぼそりと呟いた。
隣で私の洗った食器を拭く彼女が横から見上げてくる。キラキラとした目をして、
「お姉ちゃんはどこかにお出かけなさらないんですか?」
と尋ねてきた。
その顔中に、いや体中に、私もついていきます、という言葉が張り付いて見える。なんとわかりやすいことか。
「今日もお店開けるから出られないよ」という台詞が口から出かかって、私は口をつぐんだ。代わりに別の台詞を用意した。
「この後デートにいくから」
私のひとことに彼女は全身を硬直させ、目を瞠って絶句した。
期待通りの反応をありがとうございます。
心の中でお礼を述べた時、彼女が手に持っていた茶碗が、ぽろりとその手の内から逃れた。
「ちょっ、危ない!」
あわやというところで、私は落下した茶碗を濡れたままの両手で掴んだ。
彼女がハッとして、依然言葉を失ったままおろおろとし始める。
「ごめんごめん、嘘だから」
そう言うと、彼女はポカンとして再び動きを止めた。えっ、と声を漏らし、少しの間をおいてずいと詰め寄ってきた。
「お姉ちゃん!言っていい冗談と悪い冗談があるんですよ!」
その迫真さに思わずひるんでしまった。
「だから、ごめんね」と再度謝ると、彼女はふくれっ面を崩して、今度は心配気に眉を下げた。
「お姉ちゃんって、そういう……相手、とか、いるんですか?」
「いないよ、あんまり興味ないしね」
私は即答して、彼女の手からふきんをもらい、茶碗の水滴を拭き取った。
彼女が安堵の表情を見せる。一連の子どもっぽい表情を見て、どうして私は出会って間もないこの子にこんなにも懐かれて好かれているのだろうと疑問に感じた。
しかし、それを口に出して訊いてみようという気にはならなかった。
「あんまりですか……そうですか……」
それは、彼女が独り言を言って不敵な笑みを漏らしていたせいなのかもしれない。
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