扇屋小町の茶飯譚

やまめ亥留鹿

4月2日 やってきた間借り人は

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4月2日


〇例の間借り人、ゆうがやってきた。出会った瞬間からかなりべったり甘えてこられて参っている。


〇どうやら最初の大人っぽさはゆうの外面だったらしい。おじいさんに対しては、かなり落ち着いた雰囲気のまま接していた。私にだけああいう風なのだろうか。家族や友人に対しては一体。


〇お風呂にもついてくる始末。さすがに了簡ならず、締め出してやった。


〇これを書いている最中にも後ろでちょこ


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 春の柔らかな空気を感じながら、私は店番をしつつゆったりとした時間を過ごしていた。

『夕べを知るもの、明けには無し、されどもあしたを知るもの有り。』

 手元に開いた本のページに書かれた文を追い、その言葉が感覚的に胸にストンと落ち込んできた。


 不意に、店の入り口が開いたときに鳴るカランコロンと小気味の良い鈴の音がして、私の意識を引っ張った。

 そういえば、とはたと思い出す。前々からおじいさんに言われていた、例の間借り人が今日来ることになっていたのだった。

 焦げ茶色の、彼女の背丈には少々不釣り合いな大きなトランクを引き転がして、その間借り人は現れた。白の味気のない字体で『ほろけの扇』と書かれたガラスばりの引き戸を開けて、澄んだ瞳で私の目を真っ直ぐに見据えて。

 両肩に落とした艶やかな黒髪を揺らして、彼女は軽く頷くように会釈をした。


「御免ください。わたくし落美里ほろけみさとと申します」


 透き通った綺麗な声。鈴を転がすような美しい声。初秋の水のように清らかで、そこに頬を赤く染めた落葉でも浮かんでいれば尚良しのこと。

 なんてことを、彼女の声と、少し背伸びをしているようなたおやかな所作を、ぼんやりと遠くから眺めている気分の中で考えた。


 私は机の引き出しを開けて、おじいさんから聞いていた一冊のファイルを取り出した。それを開いて、目当ての紙を見つけた。


「ええと、名前は……ゆう、さんね」


 紙に目を落として、確認するように呟いた。

 まだまだ幼さの残る彼女の顔をちらと見遣り、「私はここの店主の孫で、ここに住んでる落美里優菜ゆうな。よろしくね」と簡素に挨拶をした。

 彼女は目をぱちくりとさせて、そしてもじもじと両手を揉み合わせた。

 耳まで紅潮させて、伏し目がちに目をしばたたいては上目遣いに私の顔に視線を移す。それを何度か繰り返し、


「はい、よろしくお願いします」


 軽く引っ張ったら途端に千切れてしまいそうな細い声で言った。彼女の発したその声に、心なしかそこにあるべき幼さが帰ってきたようだ。

 ついさっきまであんなにも落ち着いていたのに、急に落ち着きなくそわそわとし始めた彼女に、なんとなく守護欲をそそられて愛おしく思えた。初対面のはずだが、これも血のつながりがなせる業なのだろうか。

 入口付近に立ったまま、どうしていいかわからなさそうに戸惑いを露わにする彼女を、ちょっと面白いなあ、なんて思いつつ黙って見つめた。

 頬杖をついて、緩みそうになる口元をきつく結ぶ。じっと見つめ続けていると、彼女の真っ黒で大きな瞳が私に向かって何かを訴えるように潤み出した。

 薄桃色の唇がわずかに動き、その隙間から小声が漏れ出す。

 

「あの……私、どうしたらいいのでしょう……」


 次の瞬間、バタリという彼女のトランクと床が接触する乾いた音が耳に響いた。そう意識するのも束の間、私に向かって駆けてきている彼女の姿が網膜に映されていた。

 私の座っているところにあっという間にたどり着いた彼女は、膝を滑らせるようにして体勢を低くし、私の腰に腕を回してきつく抱きしめてきたのだった。

 

「お姉ちゃんだ、お姉ちゃんだ……嬉しい、夢みたい」


 腹部に頬を擦りながら、彼女は消え入りそうな儚い声でそう呟いた。

 突然の行動に戸惑いがないわけではないが、私はとりあえず平静を装い、彼女の頭に左手を乗せて、無言のまま優しく撫でてやった。

 



 落美里ほろけみさとゆう。

 今年十六歳になる、高校一年生。この春から、私の通っている高校に入学することになっている。

 彼女とは一応血縁者で、私にとって、はとこにあたる。私の父方のおじいさんの弟さんの息子さんの娘、ということらしい。だから、落美里という姓も同じなのだ。

 彼女の住んでいた場所はここから遠く、今まで一度も顔を合わせたことはなかった。


 そんな彼女がどうして突然ここに、それも彼女ひとりで引っ越してきたのかというと……それは私も知り及んでいない。おじいさんに聞いても、「ははは、人生いろいろ、人の考えもいろいろ」と笑って流されるだけだった。

 別に繊細な部分を好奇心だけをお供にして、踏み荒らすように不躾に詮索するつもりはない。だけど、これから同じ屋根の下で暮らすことになるのだから、知れることは知っておきたいじゃないか。

 その気持ちくらいは許してほしい。


「お姉ちゃん、優菜ゆうなお姉ちゃん、姉さん、お姉さま、おね……おねーさん、優菜ちゃん……?優菜ちゃん、優菜……ゆうねえ、ゆうお姉ちゃん、ゆう、ゆうううううう」

「ゆうはあなたでしょう」


 隣で延々と私の呼び方を模索する彼女に、努めて気のない風に語りかけた。

 すると彼女は胸の前で両こぶしを握り締め、上目遣いに潤んだ瞳を寄越してきた。


「では何とお呼びすれば?」

「……なんでもいいよ」


 少し考えてから適当にそう返すと、彼女は横から私に顔を近づけて、


「お姉ちゃん?」


 と、小首を傾げて、まだ幼い子どものように甘えた調子で言った。

 私は手元の本に目を落としながら、ゆっくりとわかりやすく頷いた。

 彼女がパッと顔を明るくするのがわかった。そして、なぜか私の右肩にちょこんと顎を乗っけて、「えへへ」と無邪気に嬉しそうに笑った。

 少しだけ顔を横に向けると、彼女の鼻先が私の頬に触れた。

 くすぐったい。……というか、

 

「近すぎ」


 彼女の側頭部をコツンと軽く小突く。

 彼女は口辺をだらしなくほころばせ、少しだけ身を後ろに引いた。

 しかしその後も、彼女の熱い視線は私の横顔に注がれ続け、身体中にべったりと彼女という存在がガムのように張り付いて離れないような、変な居心地の悪さがあった。

 

「お姉ちゃん、すごく綺麗です」


 彼女は私をじいっと見つめたまま、嘆息交じりにそう言った。

 私はそれについて特に何も考えることなく、本の文字列を追いかけながら、「そう、ありがとう」とほとんど無感情に返した。

 そんなことは普段から言われ慣れていて、正直なところ、特段嬉しくともなんともない。

 私はふと思いついて、顔をそっと上げ、彼女に視線を流した。


「あなたも可愛いね」


 お世辞でもなんでもなく、ただ思っていたことを口にした。容姿もそうだが、会って一時間も経たない私になぜか懐いていて愛嬌があるからだろうか。本当の妹ができたようで、少しくらい嬉しいと思わなくもない。

 すると、彼女はみるみるうちに首から上を赤く染め上げた。

 椅子から立ち上がり、おずおずと私から距離をとる。そして、一目散に店の奥の方へと駆けて行った。

 勢いよく階段を上る音が聞こえ、部屋のドアが閉まる音が聞こえ、ドタドタと走り回るような音が聞こえた。かと思うと、今度はしんと静まり返った。

 暴れすぎて倒れていやしないかと、私は本を閉じて二階に向かった。

 彼女の部屋の前に立ち、ドアを叩く。

 すぐに、彼女が恐る恐るといった具合にドアを開け、隙間から顔を覗かせた。


「大丈夫?」


 そう問うと、彼女はコクコクと何度も頷いて笑顔をみせた。


「えへへ、お姉ちゃんに可愛いって言われて、色んな感情がごちゃごちゃになってちょっと興奮しちゃいました」


 ちょっとどころではなかった気もするが、落ち着いたようだから心配はいらないだろう。


「じゃあ私はまた下に戻るけど、あなたはそのまま荷解きしちゃいなさい」

 

 部屋に置かれた複数の段ボールを見遣って言うと、彼女はドアノブから手を放して私の袖をきゅっと掴んできた。上目遣いに瞳を潤ませて、「えー」と心底悲しそうな表情を浮かべた。

 

「使うときに使うものを出せばいいでしょう?それよりもお姉ちゃんと一緒にいたいです」

「あなた……意外とずぼらなのね」


 呆れてそう言うと、彼女はまた、私の身体に腕を回して抱きついてきた。そして、私の胸に顔をうずめたまま、


「私のこと、名前で呼んでくれたら言うことききます……」


 と、小声で漏らした。

 私はこのとてつもない甘えん坊に小さくため息をついた。

 しかし不思議と、全然悪い気はしなかったし、これからの新しい家族に私も少しくらい愛情を返して与えてやってもいいかと思った。

 右手を頭に乗せて、左腕を背中に回す。腕に感じる彼女の小さな背中はどこか頼りなくて、そうか、これからは私が守ってやらねばならないのか、と思わないわけにはいかなかった。


「改めて、これからよろしくね、ゆう」


 彼女は抱きしめる力をより一層強めて、額を私の胸に押し付けたまま、「はい」と弾んだ声で答えた。


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