4月5日 扇屋小町と呼ばれても

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4月5日


扇屋小町おうぎやこまちのことを、ゆうは初めて知ったらしい。扇屋小町だなんて、誰が最初に言い出したのか。


〇ゆうに向かって可愛いと言うと、額から蒸気を吹き出しそうな勢いで顔を赤くする。ちょっと面白い。

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「ゆう、入り口の掛け札ひっくり返しておいて」


 はあい、と無邪気な返事をして、彼女が元気に駆けていく。

 勘定場に座ってノートパソコンを開いた時、「いらっしゃいませ」という彼女の声が耳に届いた。

 顔を上げると、片手にビニール袋を持った初老の男性が店内に入ってきたところだった。

 すぐそばの商店街にある魚屋の店主だ。


「おじゃまするよ。じいさんはいるかね?」


 魚屋さんの後ろから、彼女がひょっこりと顔を覗かせて首を傾げた。彼女に向かって微笑むと、彼女もにっこりと笑顔になった。


「おはようございます。おじいさんは裏にいますが、お呼びしましょうか」


 魚屋さんは空いている左手を振って、


「いや忙しいんならいいよ、これ、じいさんが好きなさわら。塩焼きがうまいぞ」


 とビニール袋を差し出してきた。確かに袋の中に魚の切り身が重なり合って入っている。


「ありがとうございます、おじいさんも喜びます」


 お礼を言って袋を受け取る。

 すると、魚屋さんの後ろにいた彼女が、私のところへ回り込んできた。

 彼女が差し向けてきた両手のひらに、もらったばかりの魚を乗せた。


「奥に持っていきますね」

「うん、ありがとう」


 彼女の背中を見送って前に顔を向けると、魚屋さんが眉根を寄せて難しい顔をしていた。

 しかしすぐに、その顔が納得の表情に変わった。


「じいさんがここに住み始めるって言ってた親類の子ってのはあの子かあ。いやあてっきり新しいアルバイトでも雇ったのかと思ったよ」

「ゆうといいます。とても良い子ですよ」

「そうかそうか。年はどれくらいっていったっけ?中学生くらい?」

「いえいえ、この春から高校一年生ですよ」

「へえ、もう随分と馴染んで、小町ちゃんに妹ができたみたいだなあ」

「そうなんですよ。ずっとおじいさんとふたりきりだったのでどうなることかと思ってましたけど、なんだかんだ可愛いものですね」

「小町ちゃんの妹だから、さしずめ小小町ってところだな」


 そう言って、魚屋さんは自分で言ったことに可笑しそうにアハハと笑い声をあげた。

 

「あの、“小町ちゃん”とは何ですか?」


 奥から戻ってきたゆうが、私のすぐ隣に立って疑問を口にした。

 すると魚屋さんが、なぜか得意げに口を開いた。


「小町ちゃん……あ、いやいや、優菜ちゃんは見ての通りかなりの美人さんだろう?」

「はい!それはもう!」


 彼女が胸の前で握りこぶしを作って、半ば食い気味に同意を示した。それはもう魚屋さんも一瞬たじろぐほどの力強さで。

 しかしすぐに、魚屋さんは人差し指を立てて言葉を継いだ。


「だからこの『ほろけの扇』の看板娘として、うちの商店街じゃあ優菜ちゃんは扇屋小町おうぎやこまちって呼ばれてるんだよ。まあなんだ、商店街のアイドル?みたいなもんだなあ。むしろ商店街全体の看板娘かもなあ」


 魚屋さんは話し終えると、またアハハと笑った。

 彼女が前のめりになって、爛々と輝く瞳を向けてきた。


「そうだったんですね、お姉ちゃんさすがです」


 私はため息をひとつついて、ノートパソコンの画面をぼんやりと眺めた。


「うちの店は商連会には入ってませんがね」

「あれ、そうなんですね」


 私の言葉に、彼女が拍子抜けしたような声を出した。


 そう、『ほろけの扇』は商店街のすぐ近くに位置しているだけなのだ。しかし商店街連合組合の面々は皆、うちが商店街の一員だと考えているらしい。

 だけど長年誘われ続けているおじいさんは、なぜだか頑なに「入らん」の一点張りだ。

 それでも『ほろけの扇』に対してそう思い続けて、こうして関わりを持ち続けてくれていることに、商店街の人情というか、温かさを感じるところではある。

 

「まあとにかく、小町ちゃんってのはそういうわけだな」


 彼女は何度も首を縦に振って、私のことを考え深げに見下ろした。私はその視線に気づかないふりをした。

 

「それじゃそろそろ帰ろうかね、店開けたまんまなんだ。じいさんによろしく」

「はい、お魚ありがとうございました」


 魚屋さんが手を振って店を後にすると、彼女は自らを指さして、


「小小町ですか?」


 と言った。

 椅子に座ったまま彼女の顔を見上げる。視線が交差して、彼女はきょとんと小首をかしげた。

 

「別に、ゆうも小町でいいんじゃない」


 何気なくそう言うと、ゆうは顔の前で両手を振って、大げさに否定した。


「そんなそんな、恐れ多いです!」


 何が恐れ多いんだか、こんなにも可愛いのに。むしろ彼女の方が小町と呼ばれるにふさわしいのではとさえ思う。

 綺麗だとか、美人だとか、小町だとか。誰にそんなことを言われたってちっとも嬉しくないし、煩わしいだけだ。その役目を引き受けてくれる人がいるのならば、自ら進んで差し出したい。


 私は彼女の名前を読んで、手招きをした。

 彼女が中腰になって、顔を寄せてくる。

 右手を彼女の白くてふっくらととした頬にあてがって、左手で頭を撫でる。

 彼女がたちまちに顔を赤くする。「お姉ちゃん……どうしたんですか?」と戸惑いの色を見せた。

 頭を撫でつつ親指で目尻をそっとなぞると、彼女の顔がピクリと震えた。


「ゆうの方がずっと可愛いのにね」


 私には、彼女が持っているような天真さがないもの。

 彼女はせわしなく目を泳がせて、パンクでもするんじゃないかと思うほどにさらに顔を紅潮させた。

 目を逸らしたまま、じりじりと後ずさりをする。

 次の瞬間、身を翻した彼女は私の手から離れ、ものすごい勢いで去っていってしまった。

 私は階段を駆けのぼる足音を聞きながら、「やりすぎたか」とひとちて、初めて会ったときにもこんなことがあったなあと考えた。


 スリープモードで暗くなったノートパソコンの画面を見て、自分の頬が緩んでいることに気づいたのは、それからほんのすぐ後のことだった。

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