第6話 1566年3月 尾張国 生駒屋敷 照覧
吉乃が労咳で清洲城を離れてから早3年。実家である生駒家に戻っては、例年の信長女子衆が生駒屋敷での早桜の大樹の下に集い、ただ和気藹々のままに。
その様子を、居室の病床からただ微笑ましく眺める吉乃と、そこを囲む二人の姿が、不治の病を感じさせぬままに談義が微笑ましく続く。
上半身を起こした吉乃、生来の色白も今日だけは紅がやや戻り、堪らずも微笑に
「帰蝶さんも、可笑しいですのね、たまに我が身に戻って素になったお顔が不細工ですよ、」
信長、ただ苦笑しては
「帰蝶もな、いざ殿のお子がと、はしゃぎ回って女子衆を揃いに揃えた結果が、この有様だよな、帰蝶も総合での美しさでは末席になって、やれ、はっともするさ、」
医療着を重ねた犬千代の女房於松、さもうんざりに
「信長様は、本当にお人が悪いですよね、気付いてて帰蝶様を止めもしないのですか、垣間見せる不細工な女房衆を見つけては、直ちに実家戻しですから、あっと言う間に、それはそれは別嬪さんだらけの信長女子衆になるのですよ、」
信長、ただ苦笑しかなく
「帰蝶の男女を超えた審美眼には、ただ関心しかあるまい、」はたと我に帰り「何よりか、於松には迷惑掛けるな、産褥が良いからだけのことわりで、犬千代の所から手伝って貰ってさ、見るからに健康なのは装っていないよな、」
於松、ただ鮸膠も無く
「私をそんじょそこらの健康女子と一緒にしないで下さい、喀血もしませんし、ご飯も毎日美味しく支度しておりますよ、」
信長、ただ両手をぱしと
「於松、確かに見事である、医師の見立てでは一年も持たないと言われていた吉乃が今日まで持ちこたえたのは、やはり滋養の効果は覿面であるな、」
於松、ただ凛と
「そこは日本人宣教師フロストさんのご指導も有ります、兎に角清潔に保つ事で初期症状の労咳の進行は止まるとの事です、尾張が楽市楽座で開かれなければ国内国外の民も集わずにございますれば、信長様の御人徳あればこそです、」
信長、神妙にも
「であるか、」図らずも吉乃との視線を逸らしながらも庭先の宴席に視線を移し「しかし帰蝶も感情が豊かだな、彦左衛門の薪能一座みやび座の手伝いに担ぎ出されては、良き女子二人もおりましたと、破顔眩い宇徳とのっぽも見る程に整った応化を有無言わさず連れて来てさ、そこだよ宇徳も応化もこの俺だったら断るだろう、まあそこも含めての二人まとめて器量良しか、いや何より帰蝶の視線釘付けは妻紀か、土岐家に抜群の美女有りと聞くや、キリスト教信仰で肩身の狭かった妻紀をそのまま美濃国から連れて来るかね、連れて来ていざ俺の側室だと言いつけられたのに動揺しないのは、流石に十兵衛の妹故としても根性どれだけだよ、それでもか帰蝶、ここまで女子衆揃えても、上洛のお土産ですって、京の祐筆家の大和撫子美坂を持ち帰ってくるか、いや美坂はそこじゃ無いな、女子は足元だって持参の草履の収集が多いの何の、そんなに嫁入り支度しても、尾張の梅雨の時期は草履など用を足さないと言ったら、城下の職人に女子高下駄作ってとお願いしたらあれだ、かなり実用的で、ばさら中の美坂を見た町娘達がこぞって真似しちゃって、それは繁盛か、まあ熱田もかなり潤ったものだよな、」
於松、さも不満足に一瞥も
「ここでの、例の押しですよね、そうですよ、」
信長、万感の思いのままに
「ああ、そう、そうだよな、熱田の嫁入り道中といえば、吉乃だよ、道中先頭でのもっぱらの案内祝い唄役、良いね、実に良いね、唄が染み入るって、これだよな、俺がもし上洛したらさ、洛中で町衆が歓喜で泣いちゃうよ、そうだよな、その思い凄い浮かんじゃうよ、消えないって、そうだろう、」堪らずも顔がくしゃくしゃに涙がここぞと滴り落ちる
吉乃、ただ微笑むままにいつかの流麗な美声のままに万葉集の一句「我が命の全けむかぎり忘れめや、いや日に異には念ひ益すとも」を唄い上げると、目を閉じてはただ深く感に入る。居室と庭先の一同もその唄の思いそのままを受け取り、暫くは号泣の程に。
於松、口元を少ししか動かさずただ小声のままに
「信長様、正室論争の片をつけましょう、もうお分かりで良いですよね、勿論ここだけにしておきます、」
信長、倣う様に口元僅かに
「いや、誓紙を書いた以上、扱いは皆正室だ、」
於松、ただ憤り
「そんな紙切れの始末など、マリア様に言わぬば良い事です、」
吉乃、ただ朗らかに
「信長様のそのお話は、先々の何れかの優秀なお世継ぎを考えれば極めて理性的な判断です、皆仲良くが私の最後の望みです、」
信長、ただ悩ましく
「参ったな、来年の早桜の集いがまるで無い様だな、でも俺達はまた集う、吉乃の事は忘れない、何時迄もな、」ゆっくりただ微笑み
吉乃、ただ温かい涙が頬を絶え間なく流れ
「吉乃は、ただ、嬉しゅうございます、」
その刹那、襖を引いては滑り込む様に入ってくる女性、吉乃の妹の伊吹を息を切らしながらも
「お姉さん、まずいわ、例の方々が来てるらしいわ、生駒の警備が5人も見たから、ここら一帯の仕切りどうかしないと、どうしよう、」
吉乃、きりと伊吹を見つめる程に
「伊吹、落ち着きなさい、例の方々は春の香りが程良いと降りて来られます、この生駒は支流が幾重にも重なり、それこそ甘泉相当になります、近隣の豪農に程良い説明と、生駒の警備を三重に行き渡らせ、例年通りにしなさい、」
伊吹、素早く立ち上がっては
「分かったわ、采配に行ってきます、」飛び出しても襖を丁寧に閉める
信長、片眉をひくつきながらも
「吉乃、いつか聞き出そうと思っていたが、この清洲一帯に野武士が出るのは如何だな、織田家相当舐められてるな、」
吉乃、神妙にも
「信長様、野武士ではございません、あれをご覧に下さい、」手を差した先には庭先の外の大凡一町先の田園に佇む大鳥の番の姿
庭先の早桜の集いの女子衆も、同じ時期に大鳥の番にただ瞠目のまま。
その大鳥の番は、雌が4尺雄が5尺。共に比率が白紅黄と色合いが伸び、季節違いの外来の渡り鳥かと皆が合点して行くも、それは否。
信長、不意に立ち上がっては隣室に向かいながらも
「鳥害か、まあ新芽が出る前に来るとは、野武士相当じゃないか、」
吉乃、捲し立てる様に
「信長様、がたいは大きくも鳥害では有りません、あの方々の威風感じませんか、あれは鳳凰の番です、ああ、何か唐突ですよね、これを言うと長くなりますけど、明の史書で見られる鳳凰とは異なります、あちらは鳳来寺に常駐しています利修仙人よりの鳳凰にございます、三河の鳳来寺の伽藍に険しくも登られた事が有りますよね、あのお姿が、正にの目の前の鳳凰にございます、信長様、何をお考えなのですが、」
信長、隣室から弓と箙を用いながら
「どっちだって良いよ、あの大きさなら鳥害だ、射る、」
吉乃、目を見張りながらも
「ですから、鳥害では有りません、鳳凰は主に甘い水を嗜み、胡桃の実をたまにかち割って食するだけです、あっと、そうじゃ無い、胡桃の実を食べるのは、生駒家が結果鳳凰の為に植林している胡桃なのです、あの甘さなら納得ですよね、」
信長、耳を傾けずに
「尚更だ、俺が胡桃のお代わり求めても寸止めなのは、鳳凰に振り分けられているのが癪だ、良いから射る、」
於松、透かさず前に出ては信長を押し止め
「信長様、よくお聞き下さい、大仏敵のみならず、瑞獣まで仕留めるなどと、この世から即刻滅殺されてしまいますよ、塩になって良いのですか、」
信長、神妙にも
「於松の博識も然りであるが、鳳凰の幾許かの生き血があれば、滋養となり、吉乃の労咳も根治するであろう、瑞獣の位にいるならば、同じ地に営むものとして便宜を図って貰う、」
於松、ただ崩れ落ち
「信長様は、無茶過ぎますけど、一片の言い分は有ります、と言うべきか花押に麒麟用いてる事で、もはや鳳凰は承知なのですか、」
信長、妙手で箙から弓を一気に引き、片膝を付いては
「皆、気にするな、件の鳳凰は三回射掛けている、今こそ間違いはない、」ぴんと張った弦が居室に鋭く鳴り響く
信長から放たれた矢はやや弧を描こうも、庭先で宙を二回転した残影が信長の渾身の一矢を掴み取る。その姿こそ滝川彦左衛門の薪能一座みやび座から召し抱えられた女子衆、立端の軒並みる応衣がかなり厳しい視線で居室の信長を見つめる。
居室不意の吹き溜まりが出来たと思えば、残影から同じく滝川彦左衛門の薪能一座みやび座から召し抱えられた女子衆女子衆である宇徳が浮かび上がり、日頃の溢れる笑顔が一転、厳しい視線を信長に浴びせる。
宇徳、信長の弓矢をむんずと引き剥がして、思いのままに
「信長様、お室のお話はしっかり、私と応衣の遠耳でしっかり聞かせて貰いました、全く、本当に気の利いた事を言ったり行ったり出来ないものですか、ここで鳳凰を怒らせたら炎天が三日三晩続き不入の地になりますよ、死は元より、大切な思い出の地を逸するなどと、いや吉乃さんの事を考慮しても、いいえ、やっぱり有りえません、」
信長口を尖らせては、手持ち無沙汰に弓矢を促しては
「宇徳さ、耳が良いのは別にして、よく泣かないものだよ、天にも縋るって、今こう言う事じゃ無いの、」
宇徳、堪え切れず涙が伝い
「私達だって、何とか出来るならしたいですよ、そうでしょう、熱田の集いったら、もう楽しいですよね、やらなければやられる戦国の習いですけど、この尾張国の身の丈にあった生き方出来ますよね、それをせめてものなら、熱田でばさらして惚けましょうよ、」
信長、淡々と
「愉快な毎日は願ったりだ、ただこの世には、差別や搾取する連中がいやがる、天下布武の表向きは室町幕府におもねるかだが、俺と、俺の仲間で、この日の本に罷り通る圧政を排してみせる、そうしなければ、気兼ねしてばさらも痛快に出来ないさ、」ただ視線をきりと結び「それより今は吉乃だ、何せ鳳凰だよ、一矢なんて多少のちくで終わるだろ、貸せよ弓矢、」
宇徳、憮然としては
「嫌ですよ、私達は花見の続きがあるので、これで失礼します、」跳躍そのままに庭先へと
於松、得々と
「信長様、先々でもそれはなりません、瑞獣に不届きを働こうものなら、信長様は虚無に落とされ輪廻転生が外されます、生まれ変わっても吉乃さんに出会いたく無いのですか、世の道理は深い摂理に通じます、今日もですが以降も射的は断じて禁忌です、ここを是非ご理解下さい、」
信長、どんと畳に座り込み
「於松がそこまで言うなら、反論の余地は無かろう、ここはせめて眺めるだけでも、ご利益を貰うとするか、それで良いんだろう、吉乃、」
吉乃、微笑みのままに
「それで間違うございません、ここ迄気高い鳳凰の姿を眺めるだけでも、眼福の限りです、」
生駒屋敷前に連なる田園の用水路にて、甘泉に似たる旨味に充実したる大鳥の番事鳳凰の雌雄が満足気に鶴ぶえの重ねを鳴らすと。鳳凰の雌雄が対面したままに広げたる広翼は忽ち併せての円を描き、中心核から白紅黄の絢爛さは尊ぶが如し。そして昂揚して行く粒子が広翼から放たれると同時に、末羽が黄色から黄金の輝きに変わり、寸での行幸。その鳳凰の雌雄の円は雌4尺雄5尺から大きく瞬き、雌25尺雄28尺への本来への大きさにお目見えし、羽ばたきも優雅に太陽へと向かって上昇して行く。
羽ばたきで起こる凪に、ただ目を凝らす生駒一帯の民衆達。優雅な鳳凰の御姿に忽ち地面に伏せては祈りの限りに何時迄も加護を願う。
その願いが届いたのか、遥かに上昇して行く鳳凰の雌雄から、掌に収まる程の迸る黄金の羽根が隈なく生駒屋敷一帯に降り注ぎ、誰もが手に取った次第から縫い針へと変化し御加護とばかりに後生大事に胸に両手を当てては感無量の程に。
しかし、生駒屋敷の居室の吉乃の届いたのは、黄金の羽根ではなく、御姿を思わせる鳳凰の雌かと思われるやや小さな白紅黄の羽根、吉野やや困惑するも
「これはどう言う事でしょう、皆さんの羽根は縫い針に権化したというのに、私のは鳳凰のお姿の白紅黄の羽根ですよ、もう先が無いからこれで十分と言う事でしょうか、」
信長、勝ち誇っては
「ほら見ろ、こっちが言わなきゃそんな白状なんだよ、鳳凰はさ、だから射抜いて、一滴でも血を貰った方が良かったんだよ、」
於松、吉乃の白紅黄の羽根を眺める程に
「お待ち下さい、この白紅黄の羽根は、御姿そのままから、分祀とお考えになっては如何でしょう、故に一番の功徳が高いと思われます、呉々も丁重なお取り扱いが宜しいかと存じます、」
吉乃、白紅黄の羽根を恭しくも奉り
「私も、於松さんのお考えが正しく思います、これは生駒家のお宝とさせて頂きますけど、信長様宜しいですよね、信長様にとっては単なる滋養のある大鳥の大羽根では、西洋帽子の飾りにしてしまいますよね、」
信長、ただくしゃりと
「まあか、吉乃が大事にしたらそう言う事なんだろうな、つうか鳳凰よく聞けよ、吉乃の今までの取り計らいから、吉乃の現世のみならず輪廻転生しても、功徳は果たせよ、そうしたら丸焼きだけは免除してやる、」
その刹那、白紅黄の羽根の黄色の末部が黄金色にゆっくり点滅してはさも優し気に応と答えた通じ、居室の吉野信長於松がただ深く畏む。吉乃これまでのやり取りを振り返っては、病床に入ってから一番の笑顔を見せ、信長も於松もただ破顔のままに。
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