第2話 1556年7月 尾張国 生駒屋敷 寂寥

 時は経り。織田信長は織田家名跡を継ぎ、長良川の戦いで討ち取られた斎藤道三から美濃国明け渡しの約定を得るも、謀反人斎藤義龍との小競り合いは後塵を拝する。

 それを打破すべく熱田市中回りも適時にしては、織田家領内での織田家登用係を巡回する日々。そして今日生駒屋敷敷地内での巡回はまたしても徒然なるままに。


 初夏の日差しを避けた生駒屋敷の母屋の廂に寛ぐ、信長帰蝶於市は登用の逐一の首尾を受けては上々に。

 螺鈿細工の髪留めに負けぬ今やその美貌の帰蝶、切なるままに

「信長様は、何でしょう、お気入りになさりませんか、あの大目、きっと良い男子が授かりますよ、」

 漆黒の髪に五色の栞を捻り入れた於市、嬉々と

「気にいるも何も一兄様はそこはとんとですよ、帰蝶さんを嫁入りした際はどこの美丈夫かと思ったものの、私と帰蝶さんが一緒に土田御前より、化粧の手ほどき受けましたら、お隣さんは日々あららの美人さんになっては、溜息しか出なかったものよ、いやあ、織田家の柳腰には無い美しさもあるものだね、そう帰蝶さんは別嬪さん、」

 帰蝶、両拳を固めては興奮気味に

「於市さん、嬉しいです、そうですよ、信長様の為に日々頑張り、いよいよ別嬪さんとも呼ばれる様になりました、感無量です、」

 於市、うんざり顔も

「無理無理、帰蝶さんは余り期待しないの、一兄様は陸でなしだもの、気の利いた事絶対言わないよ、」まんじりともせずも「そう、深い話の続きだよ、一兄様は側室を勧められる程で、丁度の支度であるのですよ、市中をばさらでもて過ぎても酒席止まりだもの、うっかりもしないなんて、何だろうね、本当に、」

 ばさらを土田御前より強制的に止めさせられ身綺麗さも程々も髪のうねりはどうしてもの信長、一笑に付しては

「於市もここぞと言うか、そもそもを言えば、成人間際に帰蝶にも遅い初潮が来ては、そう、あの時は帰蝶が喀血かと織田家が右往左往しただろ、その印はきっと何れは帰蝶にも子が出来る、」

 帰蝶、きりと

「いいえ、信長様、今の織田家だからこそ、御嫡男の誕生は叫ばれています、良いですか、我が父上道三は直臣に唆された義龍兄に謀反を受けました、理性的な世継ぎはこの戦国の世ならば必須ですよ、ここは素直に受けて、今日にでもこの生駒の吉乃さんをお持ち帰り下さい、ここは何事も罷りならぬ下知とさせて貰います、」

 於市、くすりと

「まあまあ、帰蝶さんとのお子は先々のお楽しみにして、ここは当面側室の子でも良くないかな、何れは私の子供を一兄様の養子に送るにしても、織田家領内の治世を考えたら当分先になるよ、」

 信長、神妙に

「於市にも煩わせるな、暫し婚儀は待ってくれ、強固な同盟結婚はどうしても必要だ、」思わず吹き出そうも「ふっつ、俺は帰蝶で良いよ、この巡回の続く織田家登用係の指南試合で一町も先の並々と水の入った大人龜を強弓で射抜き爆裂させるなんて痛快だからな、それで集まった面々の瞠目といったらだよ、すげえ笑う、そうだな、この織田家登用係が何時迄も続くと良いな、」

 帰蝶、うんざり顔も

「ふう、そこもですよ、於市さんが成人しては熱田市中回りに付いて来るようになって、土田御前からばさらを一切禁じられては、そこで職務に託けては道楽まがいに織田家登用係三昧ですからね、それもどうでしょうね、元大名さん迄登用係の受付に来るなんて、もうあれ過ぎますよ、」

 於市、はち切れんばかりに

「それ、高吉さん、もう最高だよね、どこをどうしたら、名士の御台所でも常に美味しい饗応出来るの、もう武士で囲むのが勿体無いよ、望むなら三食全部作って欲しいよ、」

 帰蝶、遠い視線のままに

「それも如何過ぎます、高吉さん余りの舌の上品さに惹かれ、早半兵衛が内縁の妻ですよ、そのお陰で私が竹中総親戚より、落ちぶれた元大名京極家に何としても嫁がせないでくれ、帰蝶様と織田家に出仕させたのが大間違いだったと、日々書状の山になっています、」

 信長、訥に

「そうかな、高吉は結構な包丁さばきだから、新しい時代の武士じゃないかな、ほら常々の外交って、饗応の口の合わなさに辟易するだろう、農作も大切だけど、それを活かす料理人は貴重だって、って、俺も竹中筋にやんわりの書状送ったけど、未だなのかよ、」

 帰蝶、口を尖らせては

「ええ、全然です、信長様も、もうとっとと斎藤家滅ぼして、美濃国に居残った家臣団を制して下さいよ、俺の下知は絶対だって、」

 於市、引くつきながらも

「まあ、帰蝶さんも実家との物騒さもそこそこに、何よりも家臣集めは大切、二兄様の暴走する家臣団排除もしつつ、そう、尾張国全般回らないといけないよね、巡り合えるかな逸材さん達に、」

 帰蝶、ゆっくり頷き

「確かに巡り会わせですけど、逸材はきっちりいます、そこはあの実直な猿を三両で買い上げ、農奴から解放したのですから、ええと、そこどうなんでしょうね、農奴解放の受け入れ先が足軽武士で良いのですかね、」

 於市、ただ豪快に

「猿、凄い受ける、足軽の訓練だって、同胞と一緒に野山をひたすら疾走してるんだもの、領民皆がね、口々に織田家は何かが変わったって、そうじゃないのにね、」

 信長、訥に

「猿は良い商いだった、忘れ物した俺達の早駆けの悍馬に素足で追いつく程の滅法早い脚力はそうそういまい、何よりの特殊能力は女子への嗅覚だ、猿の御忠信、帰蝶様から生まれ持つ百合の香り以外に終始血と愛液の匂いがしますがご病気ではないでしょうかで、俺は乗り込んだよな、奥の院に、そこで何してた、昼間から鬼の形相で張り型に耽っては、そんなので女陰の間口が大きくなるかよ、ええ、何度思い出しても腹が立つ、」

 帰蝶、口籠もりながらも

「それは、そうは言っても、男根ってあそこまで大きいものなんですか、私のより軽く5倍は有りますよ、そんなの膣内に入る訳も有りません、経血も経て私も子供を産める身です、その為の努力を耽るだなんて、ああ、もう、凄く恥ずかしい、」

 於市、嗜めながらも

「まあまあ、後家さんでも無いのに毎日張り型なんて、流血してるのにどうかしてるよ、兄様が張型を調達した御用聞きの次満を成敗して大正解、と言うべきか、土田御前が腹立ち紛れに忍びの元締め六角家に侵攻なんて、ここは血が繋がってるものなんだね、」

 信長、憤懣遣る方無くも

「全く、一つ跨いで六角家侵攻なんてどうかしてるよ、だが、それも行く行くはだ、次満は伊賀の忍び、袈裟斬りも仕留め損ねたからには、恨みが募って、懲りもせずまた送り込んで来るだろうよ、」

 帰蝶、訥に

「でも、次満は実直に手配してくれましたよ、信長様の叱責で済まなかったものですか、」

 信長、神妙に

「いや、そこは何れだった、言わずもがなの不逞の輩に夜討ちされた政秀から次満は伊賀の素性だとは聞いていた、六角家の浅知恵も良い加減にしろよ、敵国に伊賀衆を潜り込ませて、内から織田家の面白おかしな噂を流し続けるんだろ、そこが無性に腹が立つ、何れは帰蝶のアンドロギュヌスを触れ回ったら、帰蝶に必ず嫌な思いをさせる、家督を継いだとは言え織田家がどうなろうと俺は知らん、だが帰蝶だけは生涯をかけても守りたい、だから帰蝶、自らの体を痛めつけるな、思う所はたくさん有り過ぎるだろうが、ここは時間を掛けよう、」

 於市、ただ和ませようと

「そうそう、女子の体は、あんな大きい子供を産めるんだから、これからきっと良い事必ずあるよ、そうだね、一兄様と帰蝶さんの子なら、男子は美丈夫だろうし、女子なら別嬪さんだろうね、ふふ、でも手が掛かりそうそうで、その時は私も頑張っちゃおうかな、」

 帰蝶、ただ涙ぐみながらも

「もう、信長様も、於市様も、ひょっとしたらお子が出来ないかもしれないのですよ、三行半で、私を今の内に斎藤家に返して下さい、是非そうして下さい、」

 信長、凛と

「帰蝶、それは無いな、道三を惨殺した現在の斎藤家を打ち果たし、俺が道三の遺言通りに美濃国を切り取る、万事無駄だよ、」吐息交じりに「それと、茶の湯で出入りしている千宗易に相談している、堺への出奔も無しだ、堺も先々は俺が手に入れるから、思案さえ無駄だ、大体だが誰が離縁など致す、まあここは光秀が仕切りに説くキリスト教の夫婦愛だな、帰蝶、良い加減俺と向き合ってくれよ、」

 帰蝶、懐より首から下げた自ら刻んだ樫の木のロザリオを差し出し一身に握っては

「なんて事でしょうか、マリア様に嘘は付けませんね、はい、私は改めて誓います、信長様と一緒にこの先も歩み続けます、信長様、これでよろしいのですよね、」

 信長、微笑みながらも

「で、あろうな、」


 楚々と庭先へと軽快に出でる、やや小柄で身なりは整えるも出で立ちは商人そのものの木下藤吉郎事猿がただ神妙にも

「信長様、帰蝶様、於市様、本日の織田家登用係は終了させて貰いました、手持ちの準備金が尽きましたので、次回同じく生駒開催のお伺いを立てたいと思います、」

 信長、はたと

「猿よ、思ったより早いな、土田御前から拝領した準備金が渋いなんて、これは何かの含みか、」

 猿、ただ額ずき

「滅相もございません、土田御前様から仕官の仕分けは一層励むようにと倍に加増されております、ただ今日は、選りに選って大集合にございます、」

 於市、ただくすりと

「それなら、愉快じゃない方から報告を受けようかな、」

 猿、はきと

「御意、不届き者が三名潜り込んでおり、万千代・犬千代・慶次らが残らず串刺しの手打ちにしました、尚、懐には懸念の通りあの伊賀逆鉾の符牒が有り、ここは織田家家中の更なる身辺周り精査をご注進致します。」

 信長、一笑に付しては

「然もありなん、伊賀の忍びはあれより粛清した、ここでまた厳命出そうものなら、織田家は臆病者かと嘲られよう、猿よ、この一端の調略を見抜けようも無いのなのら、組頭止まりで終わるぞ、一層励め、」

 猿、ただ額を地面に擦り付け

「はっつ、猿始め、くれぐれも深慮を持って職務に励む所存で有ります、」

 帰蝶、照れ混じりにも

「そう、伊賀のあれはあれで照れますから、猿、次を聞きましょう、」

 猿、途端に砕けるも首を傾げながらも

「はっつ、帰蝶様、今回の仕官ですが、頭数がやや多くございます、それと言うのも、以前熱田での奉納でも見知った滝川彦左衛門の薪能一座みやび座三十二名丸ごと召し抱える事になりました、何でも伊勢と長島の一向宗の遥かに財布の紐がかなり硬くなったとの事で金欠に陥った様です、みやび座は巧みな技量を持っております、このまま上方に流れては請われるままに居ついてしまい、尾張での有力な演舞方が減り商いに大きな損失を発生させかねません、ここは何卒ご了承下さいませ、」

 帰蝶、目の輝くままに

「おお、彦左衛門ですね、私もつい招かれるままに手ほどきを受けては舞台に立っては、皆さん拍手喝采でしたよね、それとても良いと思います、織田家にも雅は必要です、」

 於市、苦笑混じりに

「まあ、それね、彦左衛門から、私ら女子衆がかなり厳しい手ほどき受けての喝采なんだよね、それは確かにめでたい事なんだけど、折々の習い事に組み入れられたら節々痛くなっちゃうよ、」

 帰蝶、さも満足げに

「於市様も、ここは民の為に骨を折るべきですよ、何より皆一緒で楽しいですよね、」

 於市、堪らず頬が強張っては

「もうね、帰蝶さんもばさらに順応し過ぎちゃって、自然と先頭切っては市中回りだもの、そりゃあ顔役がね、奉納の舞台にも上がると盛況にもなるよね、はあ、お祭りの出演はここで本決まりか、」

 信長、はたと

「猿、一向宗の財布の紐は如何程に固いものか、」

 猿、御意のままに

「はっつ、彦左衛門曰く、隣国の三河領内に散発する一向一揆の様相かと評しております、武器と兵量の調達で、かなりの金子を巻き上げられているのは確かかと、ここは尾張伊勢の国境の警備を固めるべきかと思います、」

 信長、吐息混じりに

「それも良い、尾張領民相手には流石の俺でも手が出せぬ、方々の信仰を疎かにしては禍根を残す、万が一にも一向一揆が起こったところで何とかなるだろう、三河の竹千代が良くも堪えてるのだから一過性のものだ、見て見ぬふりしてろ、」

 帰蝶、悩ましげにも

「信長様、それも如何でしょうね、今川の目を忍んで農夫の姿で清洲城に訪れた竹千代様をただ饗応に浸らせて帰らすなんて、それなりの人足は出すべきではなかったのですか、」

 信長、ただがなり立て

「良いって、竹千代も鬱憤晴らしたいだけだって、饗応で満足して帰ったなら問題なし、それ以前に一緒について来た服部正種某は伊賀筋だろ、よくも俺の前に出る根性があるものだよ、どれだけ伊賀は面の皮が厚いんだよ、まあ竹千代には含ませた、伊賀は揺れが起きる前に手を切れとな、」

 帰蝶、凛と

「もう信長様の伊賀嫌いは適度にですよ、伊賀の方全員が悪者では無いですよ、それはやや配慮に足りない側面もあるのですけど、そこは忍びの職務でも有りますし、ここは割り切りましょうよ、」

 信長、頑と

「知るか、伊賀憎しは飽き足りん、ここは土田御前そのままに意はしっかり汲む、何れはの話はここ迄、」猿をまじまじ見ては「でだ、猿、件の二つにしては切り上げが早いな、如何した、」

 猿、図らずも見る見る血の気が引き

「はっつ、私の手には流石に余りある事柄が起こりました、仕官では無く、その、あの、そうです、帰蝶様の指南試合の強弓を聞きつけての衆僧等が、帰蝶様を是非とも貸し出してくれとの有無を言わさぬの威圧にございます、その中でも一際の余りに恐怖の眼光を持った頑強長身のお方が一歩も引かぬ有様でして、もう堪りませぬ、あの眼光だけで隈なく死にましてしまいます、信長様、何卒のご配慮を、」

 信長、さもうんざりに

「おいおい、比叡山の僧兵でもそんな奴いるのかよ、まあ、奉納絡みなら断る理由無いし、条件次第だな、」

 猿、堪らず地面を額で激しく殴打し

「恐れながら、それは奉納ではなく、将軍家での御前試合になるかと思います、彦左衛門の遠征記憶より、その眼光鋭きは、かの越後の虎との事です、誠に申し訳ございません、国境の警備には腹を詰めさせる様に致します、かく言う私も、」震えながら短刀に手に掛けては

 帰蝶、素早く庭先に飛び出しては猿の襟を捻り上げては、毎度の強烈過ぎる程のでこぴんを食らわし、猿はまたも野猿のそのもの雄叫びを上げては白眼のままに

「信長様、越後の虎、即ち長尾景虎、ここで仕留めますか、それとも饗応ですか、」

 於市、さもうんざりに

「あっちゃあ、やっぱり巡礼に出てるのか、景虎は熱田でも見たとか聞くし、一兄様、ここ丁重にお引き取りだよ、きっと帰蝶さん気に入って織田家に帰って来れないよ、そうだよね、」

 信長、然もありなんに

「景虎も、何回上洛する気なんだよ、各家で上洛が流行ったら、尾張一溜まりもないだろう、全くあいつは、」

 帰蝶、悠然と

「分かりました、当主直接の会談では憚りが有りますので、私が直に面談し丁重にお断り申しておきます、」

 信長、神妙にも

「いや、上洛の供に帰蝶のお誘いを断る所以は無い、軒並み領内の織田家登用係の御前試合を見たのであれば、どうしても京にも噂は上がろう、それに景虎の事だから、信義も厚く将軍家に切望されたに違いない、ここで無下にしたら、無作法証拠抹消の為に生駒屋敷残らず膾切りにされるぞ、それは流石にな、吉乃迄巻き込めないだろう、帰蝶的にはそっちじゃないのか、」

 帰蝶、不意に我に帰っては手にした猿を無下に放り

「全く景虎さんも読みに読みまくりますね、どこまで冴えてるのですか、逆にお供したくなって来ましたよ、信長様それで良いですね、私は吉乃さんと高吉さんと早半兵衛と饗応の準備に入りますので、良しなにお願いします、」

 信長、溜息も深く

「で、あるか、」一際声を張る様に「猿、いつ迄惚ける、景虎を生駒屋敷に丁重に招き入れてやれ、良いか小便ちびっても招くんだよ、」

 猿、ただ引き攣ったままに飛び出し

「ぎょ、御意、御意にございます、」


 信長帰蝶於市、ただ笑いを禁じ得ず

 強い日照りの中、鷺の群れが美声を奏でながらも先の水田へと羽ばたき降り立とうかの、午後の昼下がりは、ただ十分な程の幸福の時間が流れる。


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