Ⅲ

 気を良くした黒子さんに連れて行かれたのは、俺の家とは逆方向にある森、その傍に立っていた小さな民家だった。もうすっかり暗くなっていたから、そちらへと行くのはけっこうな勇気が必要だったけど、近くにいる人にあんまり情けない姿を見せられないと思って、背筋をぴんと伸ばしていた。

 中に入ると、窓に黒いカーテンがぴっちりと張られているのがわかった。黒子さんが扉を閉めると、明かりはほとんど入ってこなくて暗室みたいになっていた。心臓がばくばくしていたけど、そう悟られるのが嫌だったんで必死に平静を装おうとしていたんだ。

 今考えると、急に暗くなったから黒子さんにも俺の顔なんて見えてなかっただろうし、気にする必要なんてなかったかもしれない。なんでこんな曖昧な言い方になるかといえば、いまだにあの人ならどんなことをやってもおかしくないと思っているからだ。だから、ここら辺は見えていないだろうという、こっちの勝手な都合なんだけどな。

 こんなところまで連れてきちゃってごめんね。怖かったでしょ。

 そう言われてから、親や先生辺りに指摘された知らない人に付いていっちゃいけない、っていう決まり文句が頭に浮かんだ。なにも考えずにほいほい付いていってしまっていたんだってな。だけど、不思議と普段であれば出てくるお袋に怒られるかもしれないっていう不安は顔を出さなかった。思い返すと、こうやって付いていくことがものすごくしっくりきていたんだろうな。

 大丈夫です、って答えると、小さく息を吐き出す気配がした。目が慣れてなかったから、黒子さんの表情を窺えなくてなにを思っているのかな、って考えていると、彼女がゆっくりと近付いてきて、よかった、って言ってくれた。その朗らかな声を聞いて、相手の気分を害したわけじゃない、ってわかって、ほっと胸を撫で下ろした。小屋の中は音が少ないせいか、女性の吐息がやたらと目立って聞こえた。

さっそくだけど、君に頼みたいお仕事の話をしてもいいかな?

 そう言われて、俺は自分がこの小屋にやってきた目的がなんだったかを思い出した。こう考えてみると、それまでは、なんのためにやってきたのか、なんていうのはあまり気にしていなかったんだろうな。この不思議な非日常に心地良く流されていたんだ。そんなありさまだから、なにかをしに来たという実感もそれほどなく、小さく首を捻って、ああはい、なんて要領を得ないまま答えた。

 なんだか、やる気なさげだね。まぁ、まだ何をするかも言ってないんだから当然か。

 黒子さんの表情は相変わらず窺えなかったけど、俺に頼りなさを覚えていたのかもしれないな。本当のところは彼女がどう思っていたのかはわからないが、当時はそう思われているかもしれないと考えて気を引き締め直した。

 それで、なにをすればいいんですか。答えながら、仕事内容はわからないながらも、できるだけ黒子さんにいいところを見せたい、って思っていたんだ。最初の方に言ったように、当時の俺はプレゼントが来ない以外、それなりに卆なく物事をこなしていたから、ある程度はなんでもできるって信じこんでいた。世のため人のためなんていう綺麗な理由ではなかったけど、この綺麗な人に褒められたいって思っていた。

 綺麗綺麗くどいって。これくらい許せよ。

 それで黒子さんは少しの間、なにも喋らなかった。たぶん、なにか考えこんでいたんだろう。それが仕事を任せる子供に対する不安なのか、単純にこれからこちらにかけてしまうだろう苦労に対する気遣いなのか、もしくはまったく別の事柄なのか、今の俺にはやっぱりわからないけど、あまり長い時間ではなかったのに、なんだか重苦しさを覚えた。もしかしたら、仕事を頼まれた時に頷いたのは軽率だったかもしれない。そんな風に考えはじめた時、女性の息遣いが耳に入ってきた。

これから直也君にやってもらおうと思ってることは、けっこう大変なことなの。だから、無理だと感じたら、すぐに断ってもらっていい。

 そう前置きしたあと、空気がぎゅっと締まった気がした。真面目なお願いなのだな、とあらためて理解したのもあって、俺は小さく唾を呑みこんだ。黒子さんは一息吐いたあと、口を開いた。

 期限は十二月二十四日。それまでにこの町に住んでいる子供たちに、欲しいものを聞いて、それを私に教えて欲しいの。

 その奇妙な願いを聞いたとき、言葉を失ったね。子供達の欲しいもの、そして十二月二十四日という日取り。これらが差す内容は、俺がさっきまでできる限り考えたくないって思っていたことを連想させたからな。

 大丈夫? もしかして、調子が悪かったりしたの。

 けっこうな時間、黙りこんでいたのかもしれない。黒子さんがすぐ近くで屈む気配がした。声の調子から、たぶん心配してくれてるんだろうな、って思って、平気です、って短く答えたあと、顔を上げたんだ。目が慣れはじめたのか、丸い顎の輪郭と白い肌が目に映るのとともに、彼女の細かな息遣いがより近くで感じられた。心配させてしまうかもしれないと思いつつ、少しの間、頭の中に浮かび上がった言葉の断片を拾い集めたあと口を開いた。

 黒子さんは、それを僕から聞いて、なにをするつもりなんですか?

 こう聞きながらも、俺は半ば確信していたよ。黒子さんは、少しだけ間を開けてから小さく可笑しげに息を漏らした。暗闇の中だっていうのに、なんでか唇の赤さがしっかりと見えた気がしたよ。

 クリスマスイブの真夜中に、子供達にプレゼントを届けなきゃいけないからさ。

彼女は一応、直接口にこそしなかったけど、ほとんど正体を晒したようなものだった。

 冗談、ねぇ。この段階で言葉だけ取れば、そういう結論にいたるのかもな。常識的に考えれば、出来の悪いジョークとして片付けた方が説明がつくしな。だが、そうじゃない。まず、彼女は暗闇の中で笑みを浮かべてこそいたが、そこに不真面目な要素はなかった。そしてなによりも、ここから先の彼女との付き合いが黒子さんの正体をしっかりと表わしている。だから、長くはなるが、もう少しだけ話を聞いてくれるとありがたいな。

 それはつまり、サンタクロースみたいに、煙突から家に入ったり、トナカイにソリを引かせたりするつもりですか?

 もう目の前にいる人物が何者なのか受け入れているくせに、そうやって遠回しな言い方をしたのは、まだ信じたくなかったせいなのか、もしくはまだ信じ切れていなかったから確かめたかったのか。今となっては忘却の彼方にある出来事だが、軽く拳を握りこんだまま、闇の中を窺っていたんだ。

 ううん、ちょっと違うかな。

 黒子さんがそう言ったから、一瞬だけ俺はほっとしたようながっかりしたような微妙な気持にさせられた。けれど、それも束の間のことでしかなかった。

 まず、この辺の家には煙突がある家なんてほとんどないからそこからは侵入できないし、トナカイとソリが通れるほど道が広くないし、仮に通れたところで、多くの人を起こしてしまう可能性がある以上は、無理するわけにはいかないしね。だから、当日はちょっと大変な気がするけど、歩こうかなって思ってる。

 あんまり期待に応えられなくてごめんね。そう付け加える声は、恥ずかしげであるとともに、自らの行動に少しだって疑問を持っていないのがありありと窺えた。俺の頭の中では彼女が何者なのかはほとんど本決まりしていたんだが、まだ、彼女自身がはっきりと認めてなかったから、そこに一縷の希望を持ってもいた。

 これ以上、聞かない方が幸せでいられるかもしれないって、少しだけ考えたよ。別段、黒子さんが何者であろうと、任された仕事をするくらいだったら問題にはならない。そりゃ、傍から見ても不思議な人ではあるし、親や教師に注意された知らない大人でもあるから、気を付ける必要はあるかもしれない。けれどこの時点で問題となるのは、俺が彼女の頼みを聞くか聞かないか、その一点だけだった。

 話を戻そうか。それなりに大変なことをやってもらうんだから、報酬もそれなりに弾むよ。普段だったら、子供達に渡すプレゼントの質や量には限りがあるんだけど、今回は特別に、かなりの我儘でも聞いてあげるよ。なにせ、

 黒子さんは、本物のサンタクロースなんですか?

 気を利かせてくれたと思しき女性の言葉を遮って、俺は結局、一番はっきりさせなければならないところを問い質した。どこが決め手になったのかははっきりとしないが、推測するに腹に黒子さんの正体に対する疑いを抱えたまま彼女の手伝いをしていく自信がなかったんだろうな。だから、そういう不透明なところをはっきりさせておきたかったってことじゃないかな。

 彼女はコートに包まれた両腕を組んでから唸った。

 なかなか難しい質問だね。本物って言ったら、それこそセント・ニコラウスの伝承まで遡るだろうし、フィンランドには正真正銘、公認サンタクロースがいるわけだし。その人たちと比べると私はただこの町の人たちにプレゼントを配るだけだから、少々物足りないかもしれないけど。

 そこで一旦言葉を切ったあと、黒子さんは知らない単語が出てきてやや混乱している俺の顔を覗きこんだ。鼻の先っぽに冷たい息がかかったのを今でも覚えているよ。

 この国の人たちが思い描く、クリスマスの夜にプレゼント置いていく人、っていう意味だったら、私は紛れもなくサンタクロースなんじゃないかな。

 言い方は曖昧だったけど、それはたしかに俺が長年いないって頑なに主張してきたサンタクロースそのものだった。そうか、とその現実を受け入れつつも、より、どう答えていいかわからなくなっていた。だって、そうだろう。それまで、サンタはいない、って言ってきたのに、本物があらわれたら、急に尻尾を振るなんていうのは虫が良過ぎると思わないか。だから、どう考えるか暗い小屋の中で必死に考えたあとに、とりあえずもう一つだけ聞いてみることにしたんだ。

 ねぇ、黒子さん。なんで、去年まで僕にプレゼントをくれなかったの?

 彼女はこの町の人たちにプレゼントを配るだけと言った。それが事実だとしたら、俺の住んでいる地域も担当しているだろうし、誰にプレゼントを配るのかを決めるのもまた彼女のはずだった。思い返してみれば少々短絡的な気がしないでもなかったが、あの時は自分が長年悩んでいた事柄の正体に行き当たって冷静な判断力を失っていたんだ。

 直也君は、クリスマスにプレゼントをもらったことがないの?

 けれど、返ってきたのはどこか張詰めた台詞だった。

 サンタクロース本人が配るべき相手のことを少しも知らなかった。その事実は、まだガキだった俺には受けとめかねた。なにかこちらに非があって配られていないというのなら、残念ではあるけど受け止めきれただろうさ。だが、そもそも存在すら認められていなかったというんだから、それは許し難いことだよ。

 暗闇に慣れた目は、彼女が自らの顔を片方の掌で覆うのを見た。

 たしかに、思い返してみれば君の名前は初めて聞いたし、柏木さんの家にはここ何年かプレゼントを配っていないな。ごめんなさい。私のせいだ。

 なんで、僕だけ、見逃されなきゃならないんですか。

 サンタクロースからプレゼントをもらっていない他の子供がいるという話はこの時、どこかへといってしまっていた。ただ、こうして目の前に本物が現れた時、自分にプレゼントが配られていなかったのがたまたまだって知ってしまったのが我慢ならなかったんだ。

 彼女は少し俯きながら、悲しげに、ごめんなさい、と繰り返した。その声音を聞いて、現金にも、許してあげてしまわないか、っていう気持ちが膨らんできていた。今整理してみれば、プレゼントをもらった多くの子供たちから仲間外れになっていたことが許せないのであって、黒子さんの心を搔き乱したいわけじゃなかったからな。だが、長年貯めこまれた感情が、そう簡単に収まるわけはない。俺はゆっくりと前に踏み出して、少しぼやけた彼女の顔の輪郭を睨みつけたんだ。

 いままで、僕が悪いと思って、まだ悪いところを探していたのに、それがたまたまって。どうして、そんなことになるんですか。

 文句を垂れたところで、今までツリーの下にプレゼントが配られていなかった、という事実が消えるわけでもないのに、食い下がったよ。はっきりとした答えが返ってくるわけではない、とは薄々感じてはいたと思うが、わかっていたからといって簡単に心を落ち着かせることができなかった。

 黒子さんは俯いたまま歯を軽く噛みしめたように見えた。だけど、すぐに思い直したみたいに、こちらをまっすぐに見つめ返した。

 どうして、と聞かれたら、こうなってしまったからとしか答えようがないかな。言い訳させてもらえば、サンタクロースは良い子の元に必ず行けるってわけじゃないの。気持ちとしては世界中の子供達にプレゼントを配ってあげたいとは常々思っているんだけどね。くどいかもしれないけれど、いままで君の元へプレゼントを届けられなくてごめんなさい。

 彼女は痛ましげな口ぶりでそう言いつつも、声の調子自体は落ち着いていた。別に好き好んで俺だけを仲間外れにしたわけではない。女性の振る舞いから罪悪感の欠片みたいなものは読み取っていたし、なによりもこのサンタクロースは全面的に謝っている。そういう気持ちが伝わってきたんだけど、はい、わかりました、と済ませられるほど落ち着いてはいられなかった。

 しばらくお互いになにも言わなかった。俺は俺でぶすくれていたし、黒子さんは黒子さんで言葉が見つからないのか息を潜めていた。たぶん、二人ともどう反応していいのか、まだ、決めかねていたんだ。やがて、彼女がようやく口を開いた。

お仕事の件だけど、さっきも言ったみたいに断ってくれてもかまわないから。

 そこまで言ったところで、黒子さんは視線を彷徨わせていた。相変わらず室内は暗く、表情はぼやけたままだったけど、顔を歪めて酷く悩んでいるように見えたんだ。

 だけど、勝手かもしれないけど、私は直也君に手伝ってほしいって思ってるの。

言葉には嘘がないように思えた。僕はぼんやりとしたまま、なんでですか、と静かに聞き返した。

 私は太陽が出ているうちは外に出難い体質だから、日のあるうちに手伝ってくれる人が欲しいの。

 当時はこう言った症状に対する知識なんて少しもなかったが、黒子さんが真剣な様子だったのもあって、そういうこともあるんだな、と抵抗なく受け入れられた。おかげで、いち早く、他人とは違う形や特徴を持つ人々がいるのを感覚的に理解できたんだ。

 最初から偏見を持つべきではない、ねぇ。いや、理想はそうかもしれないが、簡単には行かないだろうよ。当時の俺は外国人ですらまともに見たことがなかったんだから。町の外からやってきた人間と多少の交流があったといっても、そこまで開けた町じゃない。肌や目の色が違う人間にどう対応すればいいのかなんて教育もまだしっかりとは受けていなかったし、仮に受けていたとしてもどう対応していいか迷っていたと思うな。

 とにかく彼女は自らの体質についてあっさりと説明したあと、けれどそれだけだったら別の人に任せても問題ないしね、と前置きした上でこう付け加えた。

 半分は今まで見過ごしてしまった埋め合わせかもしれない。だから、サンタクロースのいいところを知ってほしいっていう気持ち。もう半分は、君にサンタクロースみたいですね、って言われた時に、この子だって思ったから。こればっかりはぴんと来た、としかいいようがないかな。

 真摯な口ぶりとは裏腹に、黒子さんの口にした事柄はどこかふわついていた。本当のことを言っているのだとは思ったが、聞いている身としては信頼が置けない答えだった。なぜ自分が必要にされているのかはやっぱりはっきりとしなかったのもあって、不信感みたいなものを拭いきれていなかったんだ。

 少し、考えさせてもらっていいですか?

 結局、俺はそう答えた。釈然としないことばかりで、正直どう答えていいかわからなかったんだ。この人の力になるのが、自分の気持ちに適うものであるのか。それがあやふやな内は上手く答えられない気がした。

 うん、待ってる。

 彼女は暗闇の中で口の端を緩めてそう答えたあと、コーデュロイのポケットからなにかを取り出してこっちに投げた。反射的に受け取ると、小さな硬貨が一枚掌の中にぽつんとあった。これは、と聞いてみると、彼女は楽しげな様子で、今日はセント・ニコラウス、つまりはサンタクロースの元になった人の記念日だから、なんかプレゼントを上げるのもいいかなってね、なんて言ってみせた。俺は掌の中の硬貨を睨みつけながら、しばらく暗闇の中で立ち尽くしていた。帰らなきゃって気付いたのが、腹の虫が鳴った時なんだから、随分とゆったりとしていたんだなって我ながら思うよ。

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