ぼやき:整容について

今日はいちおう休息日です。が、シャワー浴びてえらいのでなんか書く。


うつがひどくなってくるといわゆる「整容」と呼ばれる行為が軒並みできなくなる。シャワーを浴びるどころか顔を洗うとか、下手をすると歯を磨いたり髪を梳かすのも無理になる。

シャワーや洗顔は寒いからかなと思わなくもない(ついでにわたしのうつは全体的に冬季のほうがひどい)けど、髪も梳かせないのはちょっとその理屈では説明できない。

早速話がずれるが「寒い」ということそのものがすごく苦手だ。どうやって生きて行けばいいんだと絶望を感じる。自分ひとりのために暖房を使うこともひどく抵抗がある(なお「抵抗」で済むようになったのはずいぶんな改善で、昔は自分のためになにかエネルギーを使うことは罪だと思っていたし、ひどいときは布団も被っちゃだめだと思ってたことがある。もはやよくわかんない)。

ずれた話を戻す。整容、つまり身だしなみについて。

身だしなみを整えられなくなると、ひとには会えなくなる。もちろん仕事にだって行けなくなる。

でも自分の身だしなみがもっとも見えないのはたぶん自分だ。

どの程度できなくなると、ひとに会えない姿なのか。正確にわかるわけがない(自分ではわからない、という意味もでもあるし、そんな基準自体そもそもあいまいだろう、という意味でもある)。

自分のにおいは自分だからわからないし、自分だけが気になることもある。正反対のことが同時にあり得てわけがわからない。なんの参考にもならない。

毎日お風呂に入った姿でひとに会うことはもう正直、とっくに諦めた。どうやったってできないから。隔日はOKということで妥協していたけど、最近は隔日も無理になってきている。


ところで世の中には入所施設というものがある。高齢者や、障害者や、その他いろいろ。わたしはその他いろいろに含まれる、とある入所施設で働いているが、入浴は週2回である(夏場はシャワーのみの日が1回増えて週3回になる)。

施設の「外」の世界には毎日お風呂に入るという価値観があり、施設の職員だってそうしている(少なくともそういうポーズをしている)というのに、施設に入所しているひとは3日にいっぺんも入らない。

わたしはこの断絶というか落差がぜんぜん理解できないでいる。当たり前という顔ができない(どちらかというと「外」の価値観に対して)。

たぶんわりと、にんげんの平均として、ほんとは入浴って週2回でも大丈夫なのだろう。わたしの勤め先でいかにも不潔、みたいになっている利用者は、入浴回数とは別のところでお肌のトラブルとか生活の課題を抱えているひとばかりだからだ。

ちなみにわたしは皮膚がなにかと荒れるタイプなので、どのみち週2回ではダメである。


清潔さというものへの信仰というか、整容ができないにんげんへの排他的とも思える価値観、衛生という科学的態度とは異なるように思う。公衆衛生や感染対策や、清潔さや美しさを追求する姿勢だって否定する気はないが、世の中にはいろんなひとがいる。つまりは、あいまいな常識や基準が理解できなかったり、理解できても合わせられなかったりするひとがいる。

そういうものとして社会は受け入れている、と思えるようになりたい。いまは、自分は汚らしいんじゃないかとか、堕落していて罪深いんじゃないかとか、日々恐れている。

ついでに言うと他人のにおいがとても苦手なので、他人の清潔じゃなさ(のみならず、体質とかも)許せていないのは自分のほうであったりもする。


最後に付け足す。

入所施設で働いているので、利用者の髭剃りを手伝うことがある。

ひげってなぜ不潔に見えるのか日々よくわからなくて自問している。でも髭剃りを手伝わなくてはならないひとはたいてい口腔衛生も悪い。

もろもろ不潔だなあと思う気持ちと、手伝っておひげがきれいになるとなぜかちょっとほっとする気持ちを、わたしはいつも持て余している。

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