十三節 女王の行進曲(壱)

「――汽笛みたいな音っすね?」

 ヤマダが眼鏡のつるをつまんでクイクイとしながら、音が聞こえてくるほうを見つめている。

「キテキ? ヤマ、あんだァ、それは?」

 ゴロウが力のないダミ声で訊いた。

 これを、どう説明したものか――。

 ヤマダは無気力になったゴロウの髭面を数秒見つめたあと、

「えーと、蒸気機関車についている警笛っすよ。圧縮された蒸気で鳴らす構造の、でっかい笛のことっす」

 ゴロウはヤマダをじっと見つめて、

「ジョーキキカン? 笛? ヤマ、あんだァ、それは?」

 カントレイア世界では蒸気機関を使う動力が一般的でないので、ゴロウが理解できないのも無理はない。

「そういわれると、お湯が沸いたやかんでピーピー鳴るアレも、カントレイア世界では見たことがないっすねえ――」

 ヤマダは下を向いてしまった。

 うなだれたヤマダを太い眉尻を下げたゴロウが怪訝な顔で見つめている。

「何か光ってるな――」

 ゴードン兵長が大通路奥から突進してくるものへ視線を送った。

 この場所へ突進してくるものの正面に強い光が一つある。

「あれは異形種ヴァリアントじゃあないっスよねえ。あんなの見たことがないし。それに、ものすごい煙を吹いてるっスよ?」

 ロッシ一等兵が眉を強く寄せた。

 突進してくるそれは遠目からでも白と黒の煙を盛大に噴き上げているのがわかる。

「おう、あれは――」

 ツクシが呻いた。

「――魔導の胎動か?」

 エミールがツクシの言葉を勝手に継いだ。

 何だよ手前てめえ

 俺がいいたかったのは、それじゃねェ。

 やっぱりこいつブッ殺してやるかよ――。

 ツクシの右手が腰の魔刀へすっと伸びた。

 殺気を察知したエミールが聖十字剣の柄を両手で握って身構える。

「あっ、路面を見てください。レールっすよ、鉄道レール。いつの間に?」

 ヤマダが異変に気づいて声を上げた。

 大通路の路面に鉄道レールが出現している。

 どこをどう見ても鉄道のレールである。

「レール? トロッコが走るあれのことか?」

 ゴードン兵長が呻いた。路面に敷かれたそのレールは虹色の炎で揺らいでいる。よく見ると、東から西に向かって虹色の炎が走って、そのあとに鉄道レールが発生しているようだ。

「ゴードン兵長、本当に向こうから、でっかいトロッコがこっちへ来てるっス。いーや、マジでけえ、何だあれ!」

 ロッシ一等兵の声も顔も強張った。

「も、ものすげえ魔導の胎動がこっちに向かって――おめェら、すぐ逃げろ、よくわからねえが通路脇にとにかく逃げろ、ここにいると確実に死ぬぞ!」

 顔色を変えたゴロウが周囲を急かした。

 また汽笛が鳴り響いた。

 東から蒸気機関車がやってくる。

 ツクシたちは壁際へ走った。

 エミールは反対の壁際へ走った。

 ツクシは冗談だろいい加減にしろと思ったが、それは冗談ではなかった。線路上にあったねずみやひとの死体を跳ね飛ばし、鋼鉄の動輪で細切れ肉を作りながら、大通路の戦場跡に巨大な蒸気機関車が到着した。鋼鉄の化け物の巨大な心臓――ボイラー機関部分の側面に蒸気パイプのはらわたがグネグネうねってへばりつき、動輪と動輪を繋ぐ連結棒が節足動物の足のように蠢いている。

 蒸気機関車は動きを止めると、屋根の上の煙突から、機関部の下についた排気管から、蒸気を吐き出して呼吸を整えた。その吐息で視界が霞む。ツクシたちは石壁に背をくっつけて黒い怪物を見上げている。見上げるほど高い位置に運転席がある。

「この蒸気機関車は『ビッグボーイ』と似てるっすね」

 ヤマダが嬉しそうだ。

「ヤマさん、何だよそれ」

 ツクシが訊いた。

 大通路の壁際へ退避した他の三人――ゴロウ、ゴードン兵長、ロッシ一等兵は蒸気機関車を見つめて冷や汗をかいている。

 この三人は会話ができる状態ではなさそうだ。

「ツクシさん、ビッグボーイはユニオン・パシフィック鉄道四〇〇〇形蒸気機関車の愛称っすよ。大荷物を引いて無理矢理ロッキー山脈越えをする目的で一九四〇年頃開発された、アメリカの蒸気機関車っすね」

 ヤマダが鉄道の知識を披露した。

「へえ、詳しいな。ヤマさんはっちゃん(※鉄道マニアのこと。昔はこう呼んだ)だったのか。だがこいつは客車を引いてるみたいだが――」

 ツクシがいった通り、大通路戦場跡駅に停車した蒸気機関車は客車をズラズラ引きつれている。黒い塗装に金縁のラインが入ったクラシカルで豪華な客車だった。

「あっ、ツクシさん、自分はそんなに詳しくないっすよ。大学生のとき視覚情報研究会(※アニメ・漫画研究会)に詳しい奴がいたんす。そいつって一日中、蒸気機関車の名前とスペックを呟いてたんすよね。それこそ念仏みたいに。それで、嫌でも覚えたというか、覚えさせられたっていうかっすよね――あっ、そうっすね、客車っすよ。機関部分は完全に貨物用っすけど。ゴツイっすね、このデザインは明らかに日本製じゃない。あの客車は食堂車かな、豪華だなあ。あっ、なかに誰かいますよ、乗客がいる!」

 ヤマダが客車の車窓に動くひと影を指差した。

「そうか、ヤマさんは大卒だったな。俺も進学したかったんだがな、家の事情でな。しかし、誰が乗っているんだ?」

 ツクシは怪訝な顔である。

「あっ、ツクシさんは親御さんを早くに。すんません、自分が無神経だったっす――」

 うなだれたヤマダがすぐ顔を上げて、

「ネストに地下鉄があったんすかね。エイシェント・オークがあの客車に乗っていたりして――」

「ああ、いや、ヤマさんが気にすることはねェさ。実際、俺は勉強のほうのデキが良くなかったんだ。得意だったのは体育くらいでな。だから、大学に行きたいって思ってたのは何となくだぜ。まあ、あの頃は若さの勢いで、恰好をつけたかっただけだったんだろうな――」

 視線を落としたツクシがすぐ視線を上げて、

「おう、これだけ大きい機関車ならエイシェント・オークが乗車できても不思議じゃない。あの連なった客車に異形種あいつらが満載されてるってのは、考え得る限りで最悪の事態だよな。いや、そもそも、ヤマさん、蒸気機関車で地下を走れるのか。蒸気機関車の機関助手(※石炭をくべる役割の乗務員)は、トンネルに入るだけでも酸欠で死にそうになるって話を聞いた記憶があるが――?」

 ツクシはぶつぶついいながら客車の出入口へ目を向けた。少なくとも、謎の客車についた扉は身の丈四メートルに達するエイシェント・オークが出入りできるようなサイズには見えないが――。

「うーん、でもここはトンネルでなくて、ネストっすからねえ」

 ヤマダが首を捻った。

「そうだな、ヤマさん、ここはネストだったな。それならアリなのかも知れん。おい、客車から何か降りてきたぞ――」

 ツクシが頷いたところで客車から出てきたねずみが路面に降り立った。

 ヒト型ネズミである。

「――ワ、ワーラットなのかよォ!」

 腹の底からゴロウは絶叫した。

「ワーラットが煙を吐いて走る巨大なトロッコに乗ってきたのか――」

 ゴードン兵長は警戒心を露にした。

「そ、そんな、馬鹿な、ワーラットにこんなすごいものを作る技術力が!」

 ロッシ一等兵は絶望の叫び声である。

「燕尾服にシルクハットか、クソッ、舐めやがって!」

 ツクシは客車から降りてきたワーラットを睨みつけた。そのワーラットは、黒の燕尾服に黒のシルクハットをかぶって片眼鏡をつけて白い体毛だった。不可解な現実を立て続けに見せられてツクシは苛立っており、もう目に映るものすべてが気に食わない。

「続々と降りてくるっすよ、黒マントと、あぁ、何すかね、あの女性ひと――」

 ヤマダの顔が苦笑いのまま固まった。

 シルクハットのねずみに続いて客車から出てきたのは、白い女性用鍔広帽子キャベリンをかぶって、純白の肩紐ワンピースを着た女性だった。その足元は紐編み上げサンダルだった。踵が細く高いのでタラップを降りる足取りが頼りない。女性の年齢は身体つきや動作を見ると二十代中盤のようだが、いや、果たして、それがよくわからない――ともあれ、肌をだいたんに露出させた肩紐ワンピースの女性は、男も女も無差別に吸い寄せる色香を放出している。

 タラップを降り切ったところで、白い肩紐ワンピースの女は頬にかかる長い黒髪を手で払った。漆黒の長髪が宙を踊って女の顔が露になる。光を遮っていた帽子の鍔の影からその顔は逃れた形になったのだが、それでも、長く束なった黒いまつげが夜空のような瞳へ陰影を作っている。この白と黒を基調にしたひとならざる女性の造形美には、ひとつだけ見るものをはっとさせる派手な色彩があった。

 朱華色はねずいろに濡れたその唇――。

 客車からは黒マントの男たち――吸血鬼の下僕ヴァンパイア・サーバントも続々と降りてきた。斧槍だの銃だので武装した下僕の集団は肩紐ワンピースの彼女を警護しているようだ。

 肩紐ワンピースの女はカレラの亡骸へ歩み寄った。その彼女を追ってシルクハットのワーラットと吸血鬼の下僕も移動した。大名行列のようなものである。

 肩紐ワンピースの女は腰を落として、カレラの死に顔へ右の手をかぶせた。

「心配になって来てみたが、やはり遅かったか。素直に逃げればよいものを、ばかなだ――」

 肩紐ワンピースの女が手を外すと、カレラのまぶたが閉じている。

「カレラ様、おお、兄弟たち、何てことだ、何てことだ、チュ、チュウ!」

 シルクハットのワーラットが腰から吊るしていた革袋を手にとって、その中に入ったナッツを口へ放り込んだ。首をカクカクを振りながら、シルクハットのワーラットはナッツを忙しく噛み砕いている。

「女王様、まだ生きているものがいるようです!」

 大通路を見回ってきた下僕の一人が肩紐ワンピースの女へ走り寄って報告した。

「息がある者から『輪廻蛇環ウロボロス号』へ運び入れよ」

 肩紐ワンピースの女が命令すると、

「はっ!」

 周囲の下僕が一斉に返事をして散開した。

「あ、おぬしは待て。息はないがカレラを先に乗せてやれ。私の血族だ。亡骸を捨て置くのは忍びない」

 肩紐ワンピースの女が下僕の一人呼び止めた。

「はい――」

 振り返った吸血鬼の下僕ヴァンパイア・サーバント――眉の整った美男子が返事をしたのだが、背後にいた筈の肩紐ワンピースの女が宙へ高く舞い上がっている。

「しまった、フロゥラ様!」

 美男子の下僕が叫んだ。

 客車の上でエミールが導式の鎖を引きながら笑っている。

 白い肩紐ワンピースの女――フロゥラは導式の鎖に釣り上げられた。鎖が黄金の導式を散らして消失した直後、聖十字剣から噴出した炎の刃がフロゥラの身体を両断する。焼き切られたフロゥラの上半身は列車の屋根へ落ちた。フロゥラの下半身は屋根で跳ねて路面まで落下した。

「ああ、フロゥラ様!」

「くそっ、あれは武装布教師!」

「しまった、まだ生き残りが!」

「そ、そんな、フロゥラ様、フロゥラ様、チュチュウーッ!」

 吸血鬼の下僕とシルクハットのワーラットが騒いだ。

 総勢で八十名以上いるので結構な騒ぎである。

「――おぬしら、うろたえるな。特にポレット、年寄りが興奮すると身体に毒だぞ」

 フロゥラはカレラの亡骸の影から飛び出した。

 この女は路面に落ちた影からひょいと出現したのだ。

 まるでトイレの扉を開けるような気軽さだった。

「――チュ、チュウ、女王様!」

 シルクハットのワーラット――ポレットが飛び上がって喜んだ。

「おっ、おお!」

女王レジーナ!」

「フロゥラ様!」

「よくぞ、ご無事で!」

「お怪我は、お怪我はございませんか、チュウ!」

 下僕とねずみ一匹が我先にとフロゥラへ群がった。

「見ればわかるだろう。やかましいな――」

 フロゥラは眉を寄せて迷惑そうにしている。

「小賢しい。魔影を使った擬態か――」

 エミールが数秒前までフロゥラの上半身だったノエラ副隊長の上半身を見やった。フロゥラを映し覆っていた影が溶け落ちて、その下にあったノエラ副隊長の石仮面のような顔が露になっている。

「――おぬしは誰だ?」

 フロゥラが客車の下からエミールを見上げた。

「吸血鬼、お前から名乗れ」

 エミールが他人を威圧する笑みでフロゥラを見下ろした。

「それを知る必要はない。ここから去れ、エリファウスの出来の悪い息子よ」

 フロゥラも笑って返した。

「――出来の悪い?」

 エミールはたいていの男性ならば――否、女性ですら無条件に降参してしまうフロゥラの微笑みを見ても表情を変えなかった。

 それどころか、その声は苛立っている。

「そうだ、出来の悪い息子だ。おぬしの顔にそう書いてある――」

 フロゥラは嘲笑った。

「――これでもか?」

 エミールの太古の導式鎧に、電撃のような導式のきらめきが駆け巡って、武装ロング・コートがはためく。

「うあああ!」

「うがっ!」

「あ、熱いィ!」

「こっ、これは!」

「退魔の導式陣、退魔の導式陣! いつの間に、チュウ!」

 下僕とポレットが喚いた。エミールを中心に大通路全体へ導式陣・退魔の領域が展開され、その効果範囲にいる吸血鬼の下僕から煙が上がっている。体内にある魔導の胎動が機能不全となって熱を噴いているのだ。ポレットはねずみであって吸血鬼ではないので平気そうだ。

「フ、フロゥラ様をお守りしろ!」

 下僕の一人が銃を手にとった。

「フロゥラ様、ここから一旦退避を――あれ?」

 別の下僕がフロゥラの不在に気づいた。

「ああ、上だ、もう女王様は客車の上にいるぞ!」

 また別の下僕が叫んだ。

 フローラは客車の屋根でエミールと対峙している。

 フローラが放出する歪みの効果と、エミールが放出する補正の効果が相殺して、退魔の導式陣は消え去っていた。

「――おお、我らも戦うぞ!」

 下僕たちが気炎を上げた。

「チュ、チュウチュ――?」

 ポレットは小刻みに震えている。

 ポレットは武器を持っていない。

「助けはいらぬ。下僕おぬしらは下がっていろ」

 フロゥラがエミールを眺めながらいった。

 エミールは冷ややかに視線を返している。

「しかし、フロゥラ様!」

 下僕たちが声を揃えた。

 フロゥラはその妖しい美貌を下僕へ振り向けて、

「――おぬしら、邪魔」

「うう――」

「我らの力が至らぬばかりに――」

「いや、やはり我々も!」

「この命に代えてでも!」

「地獄の果てまでもお付き合いさせて頂きます!」

「チュウチュ――?」

 下僕たちは武器を構え直して食い下がった。どうやら、このフロゥラはたいへんな人望がある様子だ。黒マントの群れに交じったポレットだけは下を向いて小刻みに震えながら、袋のナッツを少しづつ口に入れてポリポリやっている。

「――や・か・ま・し・い!」

 フロゥラがキレた。

 妖しい美貌の眉間に亀裂が生じて、白雪のようなこめかみに青筋の稲妻が走っている。それで歯噛みしたフロゥラは吸血鬼の牙を見せていた。女王様は激怒しておられる様子である。下僕たちは表情を凍らせて客車の上で噴火したフロゥラを凝視している。

 誰も発言するものがいなくなったのを確認してから、怒りの表情を消したフロゥラは改めてエミールへ顔を向けた。エミールを中心に黄金の導式が渦巻いている。堕天の骨骸で身を固め、天使が取り落とした聖剣を片手に佇むその姿は魔神の様相だった。一方のフロゥラは強大な魔導の胎動を駆使してひずみ効果オーラを放出し黄金の浸食を食い止める。

 お互いの間にある大気が悲鳴を上げて身を捩っていた。

「――『影跳躍シャドウ・ムーヴ』か。お前は随分と長生きをしているようだな?」

 エミールが呟いた。エミールがいったのはフロゥラが客車の上に移動した方法のことである。エミールが放出した退魔の領域が大通路を席巻した瞬間、フローラはノエラ副隊長の死体の影から飛び出てきた。

「うん。死人しびとの影のなかは動きやすいよ。長生きか――もう数えていないが、たぶん、二千年以上生きたかな。だが年齢は一切取っていない――」

 フロゥラが微笑んだ。

「――二千年以上。お前は導式創世紀の生まれだと? それはハッタリだな。大人しく死ねよ」

 エミールは苛立っている。

「うん。エリファウスの出来の悪い息子よ、どうしても、ここで私と決闘るつもりか?」

 フロゥラが腰を曲げて足元へ右手をやった。

「失礼な奴だ、益々、殺したくなった」

 腰を落としたエミールは聖十字剣の柄を強く握った。

 剣の切っ先を落として脇構えの体勢だ。

「ならば、死にゆくものよ、名乗るがいい。名乗れば私の記憶のなかで生きていける」

 フロゥラは自分の影を引き出しながら身を起こした。それはサーベルのような形状だが、刀身も柄も限りなく黒に近い紫だ。フロゥラは己の影を刃として右手から下げている。

 真の吸血鬼の決闘具――影の刃シャドウ・エッジである。

「貴様は名乗らんのか? もっとも、僕のほうは興味もないがな」

 エミールは魔導の紫炎で燃える影の刃を見ても表情を変えない。だが、警戒はしていた。今までエミールが見たことがないほどの強大な魔導の胎動が目の前にある。何人もの吸血鬼を塵芥ちりあくたに変えた稀代のウィッチ・ストーカーのエミールが実力を測りかねるほど強いものだ。フロゥラが放出し続けるひずみ効果オーラは、その背に蝙蝠の翼のような造形を作っていた。

 フロゥラはひずみで作った蝙蝠の翼をおもむろに広げて、

「我が名は、フロゥラ」

 太古の吸血鬼がいよいよ名乗った。

「ふぅん。魔の眷属がフローラを名乗るか。それはエリファウス二四使徒の聖人名だぞ。実に不届きな奴だ。やはり万死に値する――」

 導式の鎖を使うには近すぎる。

 不用意に切り込むと予測不能の反撃を受ける可能性がある。

 エミールは躊躇っていた。

 躊躇って苛立っている。

「うん、出来の悪い息子よ。その発音は『フロゥラ』が正確だ」

 フロゥラの教師が生徒に教えるような口振りである。

「発音なんてどうでもいい。ここでその減らず口を永遠に閉じてやる」

 唸ったエミールの全身が導式の光で輝いた。一定の範囲まで導式の効果オーラは広がったがそこで止まる。フロゥラが放出する歪みの力に押し返されている。

 僕が展開する退魔の効果オーラが及ぶ範囲は歩幅にして四歩、五歩ていどになった。

 だが、奴との距離が縮まったらどうだろう。

 神経質に退魔の効果範囲を押し戻しているところを見ると、効果の及ぶ範囲内ならば、おそらく僕の有利に見える。

 奴を導式の領域に捉えたところで、その優位性がどのていどまで期待できるものか――。

 エミールはまだ動けない――。

「――うん。発音はフロゥラだ。私の姓と名は香る光の処女フロゥラ・ラックス・ヴァージニア

 フロゥラの歪の翼は大通路の横幅一杯にまで広がった。

「『ラックス』?」

 吸血鬼の始祖の名を聞いて、エミールの鼓動が早まった。

「私の名を聞いても、まだここから立ち去る気にならんか。エリファウスの出来の悪い息子よ――」

 夜露に湿るフロゥラの声に諦めた調子が交じった。

「――くっくっ。貴様が吸血鬼の王か? 聖教会が何世紀も追ってきた、伝説の『昼に歩く者デイ・ウォーカー』なのか? これは面白い。ハッタリかどうか今から確かめてやる。本物なら、しめたものだ。貴様の灰を持って帰れば、僕は聖賢人サンタ・ワイズマンどころか、今は廃止された神託を受けしものの座る席――『教皇ハイエロファント』に指名されるかも知れん。これは面白い!」

 エミールが聖十字剣を構えなおして笑った。

「うん、やはり、おぬしはここで死ぬか。それも、また、運命の選択のひとつか――」

 フロゥラが影の刃の握りを青白い――月明りのような美貌の前へ持ってきた。

 香る光の処女こと、魔の眷族の始祖オリジン、存在を継続する伝説、決して明けない夜と灼熱の恋心を伴って来訪する流血の王者、フロゥラ・ラックス・ヴァージニアが決闘を承諾する。

 絶大無比、圧倒的な「魔」に揺らぐ決闘場の只中、

「ここで死ぬのは、フローラ、お前のほうだ。我が名は、エミール! エミール・エウタナシオ! よく覚えておけよ、これは今、ここから、歴史に刻まれる人間の名だ!」

 エミールは絶叫と一緒に客車の天井を蹴った。

 蹴った足元が音を立て凹み黄金の導式が舞う。

「うん、エウタナシオ――?」

 フロゥラが眉を寄せて呟いたその先で影の刃と炎の刃が激突した。

 冥界始発の列車の上で決闘が始まった。

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