四節 それぞれの事情、もしくは情事(壱)

 薄い壁越しに漏れ聞こえてくる女の嬌声と男の荒いだ呼吸で、ゴロウの高いびきが止まった。ベッドから身を起こしたゴロウは、壁際で一息つくと、右拳を固めて木の壁へ叩き込んだ。

 ボロ宿全体を揺らすような打撃でバァンと音が鳴る。

 場所はタラリオン王都、十三番区ゴルゴダである。

 ペクトクラシュ河の沿いにある女衒街の路地裏を、乳製品を積んだリヤカーを引いて歩いていた老人が、頭の上から降ってきた爆発音に驚いて、

「一体何事かの?」

 老人は空を見上げた。

 夏の大空は送った視線を吸い込んでしまうような、どこまでも深い青が広がっているだけだ。

「ハテ、これが晴天の霹靂へきれきというものか?」

 老人は首を捻る――。


「――くっそ、朝からサカってるんじゃねえよ、うるせえぞ!」

 ゴロウが咆哮で追い討ちをかけると、壁越しの嬌声はピタリと止まった。それでもゴロウはまだグルグルと唸りつつ、貸し部屋の鎧戸を開けて、夏の黄色い陽差しを呑みこむようなあくびをした。窓から見えるのは各種商店が肩を寄せて並んだ狭苦しい街並みだ。酒場宿や賭博場、各種雑貨を売るものや買い取り、貸し金に公衆浴場などなどなど――しかし何といっても、この区画で一番幅を利かせているのは男娼と娼婦になる。二十四時間、酒が飲めて、博打ができて、風呂へ入れて、男も女もヤクも好きなだけ買える。そんな猥雑な密度と活気がある街並みの一角に、ゴロウの定宿――酒場宿やどりぎ亭がある。

 一日分の晴天を確信してゴロウは身支度を整えた。

 横縞模様のついた囚人服のような寝巻きをベッドの上へ脱ぎ捨て、頭にかぶっていたナイト・キャップも一緒に放る。着替えたゴロウは白いシャツに白いズボン姿になった。今日はネストへ出向くわけではない。軽武装服や鉄の錫杖は貸し部屋の片隅に置かれたままだ。髪を掻き毟りながら貸し部屋の扉へ手にかけたゴロウは、ドアノブを回す手を途中で止めた。ゴロウは貸し部屋にある自分の小さな机を眺めている。机の上や周辺には、ぶ厚い専門書や雑誌や書類が乱暴に積まれていた。その近くに数々の薬品や医療器具がぎっしりと並んだ棚がある。

「あァ、今月分の神学学会機関紙が出版されてる筈だよなァ、出かけついでに調達しておくか――」

 ゴロウが独り言と一緒に廊下へ出ると隣室からもひとが出てきた。

 ゴロウは隣室から出現した女を見て、

「あっ、何だよォ、横の部屋にいたのは、ローザだったのかァ――」

「あぁん、わたし、ゴロウちゃんに怒られちゃった!」

 隣部屋から出てきた女は笑顔を見せた。先ほどゴロウが拳と罵声で打ち消した嬌声の持ち主は、どうやら、この真っ赤なワンピースを着た女性――ローザのようである。ウェーブのかかった黒い長髪に、垂れた目尻の、男好きしそうな若い女だ。

 年齢は二十代前半くらいか――。

「ああよォ、すまなかったなァ。どうも商売の邪魔をしちまったか。朝から仕事だとは思わなかったからよォ――」

 背を丸めたゴロウが頬髯へ手をやった。

「いいの、いいの、下手なのに一晩中しつこい客だっ――あぁん、これ聞かなかったことにして、ゴロウちゃん!」

 狭い廊下だ。

 ゴロウへ身体を寄せて歩きながらローザがまた笑った。ひと懐こい笑顔を作る唇に、ワンピースと同じ色の真っ赤な口紅が塗りつけてある。慌てて客の部屋から出てきたのか、その口紅の塗り方が乱暴で、肉感的な唇をより厚い印象にしていた。

「いやァ、悪かった。ローザはちゃんと客から銭を取れたのか?」

 ゴロウは苦笑いだ。

「前払いだったよ」

 瞳を細くしたローザが胸元から小銭入れを指先でつまんで取り出して、チャラチャラ振った。その爪にも真っ赤なマニキュアが塗られている。

「そうか。でも、まァ、ここは侘びを入れることにするぜ。ローザ、お宿で朝メシを食ってけ。小母さんのシチュウはなかなかいける。ちょっと塩辛いけどなァ」

 女性に対してはゴロウもそこまでケチな男というわけではないようだ。

「ゴロウちゃん、奢ってくれるの!」

 ローザは魅力的な大人の肉体の持ち主なのだが、それでも巨漢のゴロウと並ぶと子供のように見えた。たいていの女性がそうである。

「まァ、不本意だが仕方ねえ。で、ローザ、ミシャ姉さんの具合はどうだ。薬は足りてるか?」

 ゴロウが階段を降りながら訊いた。

 古ぼけた木製の階段が軋んでいる。

「ん、お薬は足りてる。でも、姉さん、今朝はベッドから起きられなかったかな――」

 踵が高いサンダルのローザは階段が降り辛そうだ。

「そっかァ――今日は往診日じゃあねえが、午後に一応、診に行くかァ。ミシャは心臓だからな、用心に越したことはねえ。ジャダのところで前に頼んでおいた新薬が手に入ればいいんだがなァ――」

 ゴロウが階段を降り切ったところでその前に回り込んだローザが、

「ね、ね、ゴロウちゃん!」

 若い娼婦の顔がゴロウの髭面へ寄った。

 背の高いゴロウの視点からだと、ローザの豊満な胸の谷間が良く見える。

「――あんでえ?」

 俺が王都から出て行った頃は、こいつも、まだまだ子供だったんだがなァ。

 よくもまァ無駄に育っちまったもんだァ――。

 ゴロウはローザの胸を眺めつつそんなことを考えていた。

「ね、今、ゴロウちゃん、女はいる?」

 ローザの瞳が熱っぽく揺らぐ。

「ああ、暇な娼婦ねえさんを紹介してくれるって話か。ローザ、そんな気を使うなよ。ミシャの病気を診るのは俺の仕事だ。この俺ァ、腐っても布教師なんだ。銭だって毎回きちんと取ってるだろ。だから、余計な感謝をされる謂れはねえぜ」

 ピシャリと宣言したゴロウが、その視線を床へ落として、

「――はァ、まァ、しかし、女かァ――昨日の夜、付き合いで買ったばかりだから、しばらくはいいや。誰かさんじゃねえがな。このまま散財していると本格的に干上がっちまうぜ。ローザ、おめェは知ってたか? ネスト・ポーターの仕事が少なくなったんだ。ネストの怪我人もえらく減ってなァ。俺ァ、商売にならなくて参ってる。どうすんだよォ、これはよォ、困ったよなァ――ああよォ、ローザ、どうしたァ?」

「知らない!」

 ローザの背中が吠えて返した。

 ローザはサンダルの高い踵を床へ打ちつけながら宿の出入口へ向かっている。

「おーい、ローザ、朝メシ、いらんのかァ?」

 ゴロウは間の抜けたような顔つきだ。

 ローザは背中越しに顔半分だけを見せて、

「そんなのいらない、ゴロウちゃんのバカ!」

「あんだァ、あいつ、わけわかんねえなァ――」

 ゴロウは山賊と海賊を足して二で倍乗したような厳つい容姿なのだが、それでも、まったく女性から相手にされないわけではないようだ。ただ、この赤い髭面の巨漢は女の肉体を良く知っていても女心が良くわからないようだった。

 もっとも、これは世の男性に共通していえることかも知れず――。


 §


 場所はペクトクラシュ河南大橋の西端の真下である。

 ツクシの浅黒い肌には白い褌がよく似合う。ツクシは頭の先から爪の先まで水の玉を流していた。そんな姿のツクシが口角を歪めてフフンと邪悪に余裕を見せている。

 褐色の半裸姿のグェンが、

「くそっ、ツクシ、もう一回、勝負だ!」

 グェンは歯を食いしばって真剣な顔つきだ。

 アリバがグェンを冷めた目つきで眺めながら、

「兄貴さあ、まだやんの――」

 ちりちりと癖毛で爆発しているような赤い頭髪が、水に濡れてぺったんこになったアリバも、グェンと同じく黒パンツ姿の半裸だった。

「やる!」

 グェンがまた吼えた。

「――そろそろ諦めろよ、グェン。俺に勝つのは百年早いぜ」

 もったいをつけて、ツクシがいった。

「なんだよ、百年って、そんなに生きてられるかよ、ちくしょう、次は絶対に勝ってやるからな!」

 グェンは親無し宿無しで生きる子供たちを束ねる餓鬼集団レギオン首領ドンであるから、その鼻っ柱の強さは折り紙つきだ。大人に諦めろといわれたところで、グェンは素直に物事を諦めない。ツクシもそれは承知だった。それでもツクシは満足気に口角を歪めながら、ふんふん鼻息荒いグェンを煽っている。どうしようもない大人である。

「がんばって、グェン! 負けるな、ツクシ!」

「がんばれー、二人とも!」

 猫耳とカチューシャを頭に乗せたメイド服姿のユキと、ハンチング・ハットを頭に乗せたシャルが橋の上から声援を送った。

 今はゴルゴダ酒場宿で働く少年少女たちの休憩時間だ。ペクトクラシュ河で水浴びをしていた子供たちの輪に暇を持て余していたツクシが参加した。そのうち、ツクシとグェンが水泳競争を始めたというのが、これまでの経緯になる。興じている水泳競技は、ペクトクラシュ河に浮かぶ黄色い浮きまで泳いでいって、それに手を触れるという単純なもので、今まで三回これをやって、ツクシの全勝という結果に終わった。当然、競争相手のグェンは全敗ということになる。グェンは身体が出来上がっていない年齢であるし、ツクシは削り上げたような筋肉を持つ大人だ。それに加えて、ツクシは日本にいた時分、スポーツ・ジムのプールでよく泳いでいた。

 ツクシがグェンに水泳で勝つのは当然の結果といえる。

「さっさと位置につけよ、ツクシ!」

 グェンが川縁に立った。

「グェン、その泳ぎじゃ何度やっても勝てないぜ。お前のクロールはバタ足に無駄がある」

 そういいながらも、グェンの横へツクシが立った。

「うるせえよ、ツクシ。モグラ、合図をくれ!」

 橋上へグェンが怒鳴った。ペクトクラシュ南大橋の手すりの上にあるユキとシャルの顔の横にモグラの丸い顔もある。モグラは泳げないらしい。ツクシはモグラの見やりながら、今度モグラに泳ぎでも教えてやるかな、などと考えていた。

「――じゃあ、いくよう。位置について、よーい!」

 モグラが準備を促した。

「ククッ。次は何馬身差をつけてやろうかな?」

 ツクシが挑発した。

 頭に血が上ったグェンがツクシへ顔を向けた瞬間である。

「ドン!」

 モグラが合図を送った。

 途端、ツクシが河に飛び込んだ。

 弧を描く綺麗なフォームの飛び込みである。

「――ああっ、くっそ。大人の癖に卑怯だぞ、ツクシ!」

 グェンが遅れて河へ飛び込んだ。大人だから卑怯なのである。この点、グェンはまだまだ少年だった。競技が始まって子供たちの歓声が高く上がった。

 真夏の強い陽差しが、ほぼ真上から、彼らへ降り注いでいる。


 §


 ゴロウが歩いてゴルゴダ区役所前の円形広場へ辿り着いたところで、エリファウス聖教教会の鐘楼が正午を告げた。ゴロウの耳に鐘の音が流れ込み、その鼻の穴には肉やら魚を焼く匂いが流れ込む。空きっ腹を自覚したゴロウの視線の先で、区役所に勤める行政員だとか区役所を訪れた市民だとか、区役所の隣にある冒険者管理協会館から出てきた冒険者だとかが同じ屋台に群がっていた。この広場での一番人気は、粘り気のあるパンで野菜とソースを絡めた羊肉を挟んだものを売る屋台のようだ。ケジャーバヴという食べ物らしい。

 南方の食い物らしいが、結構、流行ってるなァ。

 小銀貨四枚以下だったら、今度試してみるか。

 少銀貨五枚だと、さすがに高すぎるな。

 最近の物価高を考えても、それは暴利ってもんだ――。

 ゴロウはケチなことを考えながら歩きだした。

 区役所前の広場を抜けると、エリファウス聖教会館裏手――エリファウス診療所前の大通りへ出る。エリファウス診療所の治療費は高額だ。庶民がその費用を捻出するのは難しい。必然的に、この通りを行き来するものは裕福なものが多くなる。診療所前でゴロウがすれ違うひとは、たいてい上等な服を着ていて、ひとによっては従者なども引きつれていた。もっとも、彼ら彼女らは病気や怪我を抱えて診療所へ通っているわけだから、上等な装いをしていても、痩せすぎていたり、太りすぎていたり、自分の足で歩くことが困難だったりと不健康そうではあった。

 エリファウス診療所を無表情で通り過ぎたゴロウは路地裏へ入って、そこにあった酒場宿の前で足を止めた。特徴といった特徴がないような――あえて特徴を出さないように努めているような古ぼけた酒場宿だ。無個性で古びたその酒場宿の軒先に下がる看板には、酒の杯と一ツ星をあしらったデザインと一緒に、明けの明星アフロディーテという店名が記されている。

 その文字は風雨で掠れて読み辛い。

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