十六節 山男たち此処に眠る
常闇の小路でツクシは佇んでいる。
その足元に死体が二つあった。首を無くしたものと上半身を斜めに割られた死体だ。ツクシの右手からは血塗られた刀が下がっている。
ツクシは自分が作った死者の微笑みを眺めていた。
ツクシは身じろぎ一つしなかったが殺人を後悔しているわけではない。何かを忘れている。それを思い出そうとしていた。
そういえばゴロウはどこに――。
ツクシはこの場に足りない要素のひとつを思い出した。記憶を辿るとゴロウは自分の背後にいる筈だ。ツクシは背中に視線を感じた。しかし、それはゴロウのものではない。複数人数の視線だ。ツクシの背中を六つの目玉が凝視している。あの母親と双子の女の子だ。確認しなくてもツクシにわかる。
「ああ、これは、いつもの悪夢だな――」
うつむいたツクシの口角が皮肉に歪む。
「だが、今回は続きがあるぜ――」
ツクシは小路の奥を睨んだ。
振り返らない。
ツクシの目にボロマントをなびかせて逃げる猿顔男が映った。距離は歩幅で十二歩半。その距離でもツクシは猿顔男を必ず斬り殺せると確信する。
「いや、違うな――」
ツクシは考え直した。
右手にある刀――魔刀ひときり包丁が断言していた。猿顔男は『
「そうだ、ユキだ、ユキはどこだ?」
そう思った瞬間、ツクシの視界の隅にユキの白い裸が飛び込んできた。
いや、違うぜ。
今は猿顔男を殺るべきだ。
それが、俺の
ツクシが視界からユキを追い払おうとした瞬間、周辺の闇が身体にまとわりついてきた。重量と密度がある闇だ。耐え切れずに膝をついたツクシの額に脂汗が浮いている。背後でゴロウの咆哮が聞こえた。咆哮が悪夢のハイライト・シーンの呼び水だった。
常闇の小路で起こった出来事がツクシの前で再現される。
青いスポットライトのなかで不規則な運動を繰り返すユキの白い四肢。
男たちの青臭い笑い声。
ユキのすすり泣く声。
虹の光を散らして刃を携えた魔獣が出現する。
ユキを犯しながら笑っていた男の首が地面へ落ちた。
噴水のように血飛沫が飛ぶ。
白い刃の軌跡は翻って、ユキの頭を掴んでいた男の身体を斜めに両断した。
ほんの半歩ほどだった。
魔合の外にいて一命をとりとめた猿顔男は踵を返し闇の奥へ逃げ去って――。
「――ぼやぼやするな、
魔獣へ叫んだ直後、ツクシは絶句した。逃げる猿顔男とツクシとの間に六つの目玉がある。あの母親と双子の女の子が現れてツクシを凝視していた。地面に横倒しになった男の首もツクシを凝視していた。胴体を割られて地面で潰れた男もツクシを凝視していた。
胸に三つ穴を開けた男も――。
「やめろ、俺をそんな目で見るんじゃねェ!」
ツクシは目を瞑った。目を背けても無駄だった。悪夢には匂いまでついていた。
かび臭い赤土の匂い。
若い男たちの体臭とその体液と鮮血の臭い。
吐しゃ物の臭い。
それに、仄かに甘いユキの匂い。
ここでツクシはたった一つだけ、救いがあることに気づく。
実際、ツクシの鼻に届いている匂いはたった一つだけ――。
――悪夢にうなされながら目を開けると、ツクシの胸の上に猫耳つきの頭が乗っていた。ツクシの呼吸を最も効率良く圧迫するユキの頭の絶妙なポジショニングである。
「毎度毎度だな、この猫めが――」
ツクシは半身を起こして正常な呼吸を確保した。枕がズレたユキは「んっ」と声を上げたが目を覚ます気配はない。ツクシはユキを持ち上げるとベットの上へ着地させ、関節が痛む身体を引きずりつつ、貸し部屋の鎧戸を開けた。
快晴である。
身支度を整えたツクシが貸し部屋を出ていった。
ユキの枕元に銀貨三枚が置いてある。
貸し部屋の外に出るとツクシは怪訝な顔になった。
平時なら朝から騒がしいゴルゴダ酒場宿が静かだ。何となく落ち着かないような気持ちで階段を降りていると、下からは洗濯籠を持ったミュカレがふわふわ上がってくる。
「あら、ツクシ、今日はお寝坊さんかしら?」
ミュカレが唇を艶かしい笑みの形に作り上げた。
結婚適齢期を過ぎている(らしい)エルフ♀のお色気は朝っぱらから全開だ。
「おう、ミュカレ、遅くなった。洗濯物は間に合うか?」
ミュカレのエロチックな挙動にも慣れてきたツクシはさほど動揺しない。
少しはする。
「いいのよ、アルの団がいないと、私の手は結構空くから」
ミュカレがスカイ・ブルーの瞳を細め人外の美貌を傾けた。
燐然と流れるミュカレの長髪に朝の光線が乱反射してすごく眩しい。
シャンプーのCMかよ――。
あまりの過剰さに表情を消したツクシが、
「――ん、アルさんたちはどこへ行ったんだ?」
色々あって気に留めなかったが、そういわれると、ゴルゴダ酒場宿に帰還してから、ツクシはアルバトロス曲馬団を見た記憶がない。
「あら聞いてなかったの。アルは仕事でエイナリオスへ行ったわ」
「――エイナリってどこだ?」
「あ、ツクシは王都へ来たばかりだから地名を知らないわよね。エイナリオスは王都の西にある大きな港町の名前よ。遠くはないから明日の夜には戻ってくると思うわ」
「ああ、そういわれると宿の表に骨馬レィディがいなかったな――」
「私は暇なのよね、アルの団がいないと」
ミュカレが瞳にツクシをはっきり捉えた。
警戒したツクシは押し黙った。
構わずにミュカレは、
「私の
からだ、からだ、と二度も強調している。
その間に、空いた部屋とも挿入している。
「おっ、おう。あいにく今日は葬式ができてな――」
ツクシは呻くように応じた。ツクシは女が欲しければ迷わず買うヨゴレだ。対価を消費しないお誘いならいつでも歓迎だった。それが美人なら大歓迎になる。もっとも、この男は美人でなくても歓迎こそしないが遠慮もしない。ツクシは酒と女に関して好き嫌いがほとんどない。しかし、金で買う女遊びを多くしてきたツクシの経験が、このエルフ♀は、すごく面倒だぞ、何かが目的で必死だぞ、そう警告をしている。あくまでツクシの直感だ。ミュカレの意図を断定する証拠ではない。
「――ふぅん。それは残念」
ミュカレはツクシを睨んでスネたような顔を作った。
このミュカレの視線と正面からぶつかると俺は負けそうだな――。
視線を外したツクシが、
「と、ところでミュカレ。あのレィディは誰の馬なんだ。俺はずっと気になっていたんだが――」
ミュカレは階段の踊り場でツクシを通行止めしている。踊り場の姿鏡に映るミュカレの後ろ姿は濃紺色のロング・スカートに、同じ色の業務用エプロン、上は白いブラウスと地味ではある。しかし、その肉体のラインは女性を大いに主張していた。特別、おしりの辺りの主張が激しい。ツクシは視線の逃し所もない。
視線を斜めに落としたミュカレが、
「うーん。ツクシ、それは知らないほうがいいかも。そうじゃないわね――レィディの飼い主とはできるだけ関係しないほうがいいかも、かしら――」
「――何だ、どうしたんだ、ミュカレ?」
今度はツクシがミュカレを見つめた。
「さあ、お洗濯、お洗濯!」
ミュカレがツクシの脇を通り過ぎた。
「――おう?」
ツクシは階段を上がるミュカレの背を見送った。
どうも、ツクシは何かを誤魔化されたようである。
カウンター席で朝食をとったツクシが、エールの入ったタンブラーを傾けながら、ぼんやり時間を潰していると、ゴロウがリカルドとニーナをつれてゴルゴダ酒場宿へやってきた。ゴロウはいつもの格好に白い丸帽子を頭へ乗せている。全体が真っ白だ。髭はいつものように真っ赤である。
「真っ白は葬式らしくないな」
ツクシはいったが、ゴロウがいうにはこれが布教師の正装になるらしい。リカルドは丈の長い燕尾服のような喪服で、ニーナは黒いドレス姿だった。漆黒のロング・ドレスに、ショールも手袋も全て黒である。
ニーナは黒い花嫁といった趣だ。
「へえ、ニーナはこれから死神と結婚するつもりか?」
ツクシが珍しく冗談を口にした。
「こっ、これね、お母様のお下がりなの、ちょっと派手なんだけど――」
ニーナは視線を上向けてそわそわしている。
ツクシ一行はゴルゴダ墓場へ向かった。
入場門の両脇に斧槍を持った衛兵二人が立っている。片方の兵士が初夏の青空に向かってあくびをした。屍鬼動乱以降、墓から屍鬼が湧き出たことは一度もないらしい。暇そうだ。ヤマダとトニーは門の前で待っていた。ヤマダもトニーも喪服を着ている。普段着はツクシだけだ。頭にワーク・キャップを乗せて腰から魔刀ひときり包丁まで吊っている。
おいおい、俺の他は全員が正装か。
聞いた話と違うだろ。
せめて腰のものは宿に置いてくるべきだったかよ――。
ツクシの視線が路面へぺたんと落ちた。
「これで全員揃ったな。じゃ、行くかァ――」
ゴロウが声をかけた。
ツクシたちは
先日と同じ顔である。
いつ見ても眠そうな受付嬢が手元の書面へ目を走らせたあと、
「担当のものが参りますから、建物の裏で待っていてください」
建物の裏手へ向かう途中だ。
ツクシはトニーの手にある花束を目に留めて、
「気が利くな、トニー」
トニーの手にあるのは在野の力強さを感じさせる白い花の束だった。
「ん? ああ、花束のことか。嫁さんが――アナーシャがさ。ネストで一度、チムールの弓とヤーコフの馬鹿力に助けられたことがあるんだ。だから、嫁さん、チムールとヤーコフが死んだって聞いて泣いてさ。今朝、街の外へ行って野の花を摘んできてくれたんだよ。まあ、ないよりマシだよな――」
トニーが手の花束を見つめた。
「ああ、十分だと思うぜ」
ツクシが頷いた。
死体安置所の裏口を抜けると視界が開ける。
なだらかな丘の斜面に並ぶ墓石が陽を受けて輝いていた。
墓場の丘から吹き降ろしてくる初夏の風が葬儀の参列者を歓迎する。
ラファエルとアズライールがやってきて、ツクシたちを墓まで案内した。ムールとヤーコフの墓穴は丘の斜面の北側にあった。石工のドワーフ職人が三人、墓穴の脇で待機している。チムールとヤーコフの葬儀の参列者は、ツクシ、ゴロウ、ヤマダ、リカルド、ニーナ、トニーと、深りの墓堀人に、ドワーフの石工が三人、これで十人になった。四角く掘られた大地の中へ大小二つの棺が収まっている。棺桶には覗き窓――死者の
「人数は少ないが、寂しい葬式じゃねェよな――」
ツクシが呟いた。
チムールとヤーコフは死者の微笑みでツクシに応じた。
「――じゃ、ゴロウさん、お祈りを頼むよ」
棺桶の覗き穴を閉じたラファエルだかアズライールだかがいった。この兄弟は同じ体格に同じ服装なので外見で区別がまったくつかない。
ゴロウが懐から聖霊書を取り出して、
「ああよォ、ラファエル。ああ、アズライールのほうか? まァ、どっちでもいいか。じゃ、おめェら始めるぞ。墓穴の前に並べ、心臓の上に右の手を、顎を引いてまぶたを閉じよ。友よ、兄弟よ、チムール・ヴィノクラトフとヤーコフ・ヴィノクラトフの魂へ共に祈らん――」
チムール・ヴィノクラトフ。
ヤーコフ・ヴィノクラトフ。
祈りは短い時間で終わった。チムールとヤーコフの棺はラファエルとアズライールの手で地中に没すると、ドワーフ石工職人が墓標を設置した。
「ゴロウさん、みなさんも、今日は、予定が詰まっていてね。申し訳ないが、俺たちはここで失礼するよ。死者の魂に安らぎがありますように」
「魂に安らぎがありますように」
ラファエルとアズライールが一番最初に立ち去った。ドワーフ石工職人三人も軽く頭を下げたあとに続く。
チムールとヤーコフの墓前に、トニーが花束を手向けた。
丘の上から風が吹いて白い花を揺らしている。
「いい墓が建ったな。墓には何て彫ってあるんだ?」
ツクシが訊いた。
「これリカルドの親父さんが決めたのか?」
ゴロウが墓へ刻まれた文字を見つめた。
「これしかないわよね――」
ニーナが囁くようにいった。
「ウム。これしかなかろうと思った」
リカルドが目を伏せた。
「できれば、チムールとヤーコフが住んでいた村の名前も墓石に入れてやりたかった。あいつら、詳しい事情は
トニーが片膝をついたまま墓へ語りかけた。
「二人とも、い、良いひとたちだったのに。なんで、ぐ、ぐっふぇあ!」
うつむいて小刻みに震えていたヤマダの涙腺が決壊した。うぉん、うぉん、と声を上げる、男泣きの手本のようなヤマダの泣きっぷりである。
「ああよォ、ヤマ、おめェ、涙腺が少しゆるいんじゃねえか?」
ゴロウは苦笑いだ。
「おい、ゴロウ、墓には何て彫ってあるんだ?」
ツクシが唸った。この場でタラリオン王国の公用語であるエスト・オプティカ語が読めないのはツクシだけである。
「ああ、ツクシは字が読めないんだったなァ。チューソツだもんなァ、おめェよォ。学がねえと大変だよなァ、そうだろうよォ、ツクシよォ?」
ゴロウがツクシをニヤニヤ見やった。
ツクシの眼光がゴロウの網膜に突き刺さった。
ゴロウが動じる様子はない。
「チムール・ヴィノクラトフ、ヤーコフ・ヴィノクラトフ。上に彫ってあるのは、二人の名前よ、ツクシ」
ゴロウの代わりにニーナが応えた。
「一番下に彫ってあるのは?」
ツクシが訊いた。
「山男たち
リカルドが応えた。
「――そうか、山男か」
ツクシは二人の山男の墓を見つめた。
「あいつら、山へ帰りたがっていたからなァ――」
ゴロウがデ・フロゥア山脈が遠く霞む北の空へ視線を送った。
「天国にも山とかさ、あんのかなあ――」
トニーが空を見上げた。
「天国には絶対にあるっすよ。チムールさんとヤーコフさんの帰る場所が――!」
ヤマダが怒ったような口調でいった。
「ウム。必ずある筈だ」
リカルドは希望へ問いかけた。
「そうよね――」
ニーナはそうあって欲しいと祈る。
「おっしゃ、みんなで形見分けをして帰るかァ!」
ゴロウが踵を巡らせた。
「結局、チムールとヤーコフの身内は誰もいなかったのか?」
ツクシも墓へ背を向けた。
「チムールとヤーコフの
トニーが後を追った。
「トニーはもうあいつらの
ゴロウが背中越しに髭面を振り向けた。
「うん、俺の
「チムールさんとヤーコフさんの宿へ、自分も一緒に行ったっすよ」
トニーとヤマダは並んで歩いている。
「皆の衆、チムールとヤーコフの形見が残っているぞ。これはどうするかね?」
リカルドが顎をしゃくった。
その手に使い込んだ革袋がある。
これがチムールだかヤーコフだかの財布らしい。
「あんな立派な墓石を買って、まだ残ったのかよォ。ケチだったもんなァ、あいつらよォ――」
ゴロウが金と聞いて唸った。
「ゴロウにケチといわれたら、チムールもヤーコフも浮かばれないわ。やめてあげて――」
ニーナが溜息を吐くと、その顔を覆っていた黒いヴェールが舞い上がった。
溜息で――いや、やはり、丘の上からは風が吹いている――。
ゴルゴダ墓場の大きな丘、その北斜面に眠る二人の山男の故郷がどこにあったのか、どのような名だったのか、もはや知る術がない。足取りを追っても彼らの故郷も同郷人も、カントレイア世界から消えている。二人の山男も他人に多くを語らなかった。ともあれ、チムール・ヴィノクラトフとヤーコフ・ヴィノクラトフの故郷は、デ・フロゥア山脈の山間にあった小さな村だった。
これだけの記録しか今は残っていない。
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