第3話 あるホビットの述懐(世界樹の森にて)

 わしは若い頃、アッサラームという街の近くの森に棲んでおった。今では派手派手しい無粋な建物ができてしまって騒がしくなったから想像もつかないだろうが、あの辺りはわしを含めてホビットの仲間が沢山棲んでおったのだ。わしらホビットは綺麗な森や水がある静かな場所を好む。今まさにわしが棲むこの森のようにな。

 かつてはあの場所はとても澄んだ水と美しい木々を擁する楽園だった。魔王の出現で、魔物が凶暴になり、危険は増えたことはあったが、実を言えばそれほどわしらにとって大きな問題は無かった。魔物はわしらを襲いはするが、森にいる限りわしらは奴らに後れを取ることは無かった。森についてわしらより詳しい者たちはいなかったし、魔物達は理由もなく森を荒らすような事はしなかった。だから、むしろわしらにとって最も厄介だったのは魔物よりも人間だった。

 わしが幼い頃、北の方の森にアッサラームという街ができた。そう怪訝な顔をしなさんな。冗談ではなく、今でこそ砂漠に近いような恰好の街だが、アッサラームのあるところには、大きな森があったのだよ。

 人間はその街で色んなことを始めた。わしは人間のしていることは良く分からないが、わしらの言葉で言えば、木々を刈り、夜から闇を奪い、静寂を喧騒に変えた。わしには全くもって意味が分からなかったよ。

 何故人間はわざわざ我らの棲む森に移住して、砂漠に変えようとするのか。砂漠なら他にもあるのだから、わざわざ森を砂漠にせんでも、最初から砂漠に住めばよいではないか。

 北の森に棲んでいたホビット達はこぞって森から逃げ出し、わしらの森に逃げ込んできた。大分わしらの森にもホビットの数が増えてしまったが、それでも偉大なる森はわしらの全てを優しく包み込んでくれた。ありがたいことだ。

 だが、しばらくするとそんな事も言っておられんくなった。人間の手はわしらの棲む森にまで伸びてきたのだ。わしらはホトホト困り果ててしまった。わしを含め、若いものの中には人間と戦おうと主張する者もあった。大半の人間は知らんだろうが、わしらホビットは並の人間の何倍もの力を持っておるんだよ。その気になれば大木を一人で運べるし、石壁を強く殴れば叩き壊すことだってできる。必ず勝つとは言えないが、戦いさえすれば、むざむざ負けるような事はなかっただろう。

だが、わしらは戦わなかった。もともとわしらホビットは争いを好まないし、それがたとえ侵略者であろうと、わしらの弱い心はそれを傷つける事に耐えられなかったのだ。

 わしらはどうにか他に移住できる森を探そうと思った。だが、森の加護を失ったわしらホビットは無力だった。平原を行こうものならば、わしらは魔物や人間に襲われて死ぬのが分かり切っていた。

 それでもなお、若い者の中には旅立とうとするものがいた。わしは彼らを必死で止めた。むざむざ命を投げ出そうとする同朋を止めないものがあろうか。だが一度ついた若者の心の火をわしには止めきれなんだ。

 わしは自らの無力に泣いたよ。彼らは誰一人として戻ってこなかった。いずこかで果てたか、或は別の森で楽しく暮らしてくれていると良いのだが、おそらくそれは無いだろう。

 わしらは決して同朋を見捨てない。もし良い森が見つかったのであれば、必ずそれを知らせに戻るだろうからな。

 森は少しづつ人間の浸食に蝕まれ、わしらは棲みかを追われた。次々に森を出ていく者が出てきたが、それでも森の浸食に間に合わなかった。

 人間の世界には食料が足りない時に「口減らし」といって子を殺すことがあるらしいの。わしらは誰一人それを口にせなんだが、みんなそれを考えて自ら森を出たのかもしれん。

 そんなある日の事だった。極限状態だったからわしはおそらく狂ってしまったのだろう。わしは森に迷いこんだ人間を見つけ、彼を殺そうとした。

死ぬ気になれば何でもできるというが、わしにできたのは、彼に岩を投げつけるまでだった。それを彼がかわすと、わしは思わずそのままに膝をつき、倒れこんでしまった。

 わしが岩を投げつけた人間が私の方に歩み寄る音が聞こえた。

 人間が怒りでわしを殺すのだろうと思ったが、彼はわしに声をかけた。

 大丈夫ですか、穏やかな森の聖人と称される貴方がたホビットが、何故このような振舞いをなさるのか、と。

 わしは泣きじゃくったよ。全てはお前たち人間のせいだと。我が同朋達が森を追われ、一人、また一人と死出の旅を行こうとするのは全てお前たち人間が我が棲みかを脅かすためじゃないか。

 私たちが一体何をした。何が聖人だ。己が命を、己が棲みかを守ることもできず、ただそれが我が運命と受け入れる事が、聖人の所業なのだと言うのなら、わしは聖人などでありとうない。愚かでもいい、傷ついてもいい、それでも同朋とこの棲みかを守りたい。

 なのにどうして身体が動かぬのか。何で敵を屠るのに心が痛むのか。こんな心などいらぬ。同朋と棲みかを守るためならば、心などいらぬのに。どうして心が痛むのか。

 わしは一体何に訴えていただろうか。よりにもよって憎むべき対象の人間にお前達が憎いと言い続けてどうなるものでもないだろうに。

 人間は私の前で立ち尽くしたまま、微動だにしなかった。

 わしが叫び終わり、呼吸が少しづつ落ち着こうとした時、人間はわしに歩み寄った。わしは心から怯えた。ついにわしは殺されるのだろうか。そう思った時、人間は何も言わずわしを抱きしめおった。

 わしはあまりに突然の事で、何が起きているのか分からんかった。

 だが、人間はそうしておいてこう言った。

 貴方のその痛む心は、確かに貴方が森の聖人と讃えられる所以だ。貴方がたの尊ばれる誇りだ。決して捨てないで下さい。

 そして忘れないで下さい。「貴方たちは決して悪くない」

 わしはそれを聞いて、また大きく泣いた。そう、わしがずっと恐れていたのは、棲みかを追われる事より、自分たちがここに居てはいけないのだと思ってしまうことだった。

 自分達が存在することが悪いのかと、だから人間はワシらを追い出すのかと。いつからか、自分でも知らぬ間にそう思いこんでいたんだよ。

 居場所というのは単に棲む場所を指すのではない。そこに居て良いという存在証明に似たものを指すのだ。わしらにとってそれが森だった。

 そんな場所を、人間を排除し、暴力で守った所でわしらはどのみち居場所を失うのだ。

 たとえ森を守っても人間から忌まれては意味がないのだ。わしらは直感的にそれを知っておった。だから戦えなかった。

 この人間がそれを理解していたのかは分からなかったが、その人間の言葉はわしにそれを気付かせてくれた。しばらくわしは人間の腕の中で泣いた。

 わしはその人間と仲良くなり、しばらく話をした。どうもその人間は魔王を倒すべく旅をしている途中なのだという。わしにしてみれば、複雑な気分だった。

 だってそうだろう。その時のわしらは人間に追い詰められているのだから、もし魔王がこのまま力を増せば、人間を滅ぼしてくれるかもしれない。ならばわしらはむしろ魔王にこそ助力すべきではないだろうか。

 だが、その時のわしにそんな事は言えなかった。既にわしはこの人間を気に入ってしまっていたからだ。

 わしは何も言わず、人間を見送ろうと思った。ただの一人でも、彼のような人間がいたという事を知れただけでも、わしは幸せな事だと思ったのだ。

 彼は何事かを考えているようだったが、しばらくしてからわしに言った。

 どうだろう、私の旅に貴方も同行しないか。いつか、貴方たちが棲むに相応しい森が見つかるかもしれない。必ずしも森が見つかるかはわからないが、少なくとも道中の御身の安全は私が保障しよう。

 それは非常に名案だった。彼は人間の中でも群を抜いた能力を持っているのはすぐにわかったから、魔物から襲われても大丈夫だろうし、逆に彼が困ったとき、ホビットとしての能力で彼を助けられることもあるかもしれないと思った。わしはすぐに了承して、彼と旅に出る事に決めた。

 同朋達はこの旅立ちを喜んでくれた。ホビットが同朋の旅立ちを喜ぶことなど、初めてだった。わしは同朋達の涙と笑顔で見送られ、森を出た。

 おっと、彼の名前をまだ言ってなかったな。彼の名はオルテガ。アリアハンという島国で生まれた勇者らしい。人の世では国の王が勇者というのを決めるらしいが、オルテガ様は国が認めようといまいと、本物の勇者だというのが共に旅をしていて分かった。

 まず、わしはオルテガ様と共に砂漠の国イシスに向かった。森と水に囲まれていたわしにとって砂漠は地獄だった。水も森もない所を延々と歩かねばならないのはそれだけで死んでしまいそうだった。わしはすぐに動けなくなり、オルテガ様はわしを担いで砂漠を渡り、敵と戦わねばならなかったのだ。

 旅に出る時は役に立てる筈、などと思っていた手前、何とも気恥ずかしいが、早速わしはオルテガ様のお荷物になってしまったのだ。

 だが、オルテガ様はただの一言も文句も言わず、わしを担いだまま砂漠を踏破し、イシスにたどり着いた。

 それからオルテガ様の探している魔法の鍵とやらを探し始めたが、どうやらそれは王家の墓にあるらしかった。ただ、王家の墓への立ち入りは厳しく禁じられていた。また、人としての道理からも生真面目なオルテガ様が、墓荒らしという行為を容認できるはずもなかった。その気になればわしが王家の墓を破壊しても構わない、と言ったが、オルテガ様は首を横に振った。

 私たちにとってそれが道を阻むものであっても、別の誰かにとって、心から大切なものであることもある。他に方法が無いか探そう。そして、どうしても無ければ仕方がないので覚悟を決めよう。それまでは他の方法を探す。まずは東に向かう。

 そうしてわしらは東に向かって進んだ。イシス以外では森が多く、砂漠が少なかったので、わしは大いにオルテガ様のお役に立てたと思う。山を越える時も、邪魔な岩をぶち壊すのはわしの役目だったし、大河を渡る時の小舟もわしが作った。オルテガ様だけでは・・・いや、オルテガ様ならば他の手段を考え付いたのかもしれないが、少なくともわしはオルテガ様の負担を軽減したのだと自負しておった。

 そうしてしばらく東に向かう旅をしていて、わしらはついに、この世界樹の森という偉大な森を見つけたのだ。水はこの上なく澄み渡り、世界樹を中心とした有り余る木々は、そこにいるだけでわしに力を与えてくれるようだったよ。

 わしはオルテガ様にこここそがわしらが棲む場所だと言った。オルテガ様は強くうなずき、わしと共にアッサラームへと飛んだ。既に森は人間に随分侵略されていたが、わしの同朋達は、ほそぼそと生き残っていた。わしが旅に出た時から、皆わしの帰りを待ち、耐え忍んでくれていたのだ。

 かくしてわしらは、最初よりも少数になったとはいえ、それでも生き延び、新たな棲みかに移住を果たしたのだ。今やあの辺りには変わり者のノルド以外にホビットはいない。全てはオルテガ様のおかげさ。

 世界樹の森で狂ったように水を浴び、沐浴を楽しみ、土を被る同朋達を見てわしは涙を流した。オルテガ様も、普段は感情をあまり出さない方だったが、その時ばかりは彼らのその喜びに相好を崩していた。

 わしはそんな彼を眺め、彼に感謝の気持ちを込めて、生涯貴方につき従おうと言った。

 だが、彼はそんなわしをしばらく見て黙っていたが、結局わしの申し出を断った。

 決してわしが役立たずだったからではないぞ。

 彼は言った。

 ここからの道を行くには、貴方には辛すぎる事が多い。そして自分も貴方を守り切れる自信がない。

 わしは言った。

 なんの、命などいるものか、わしらの命を救った貴方の盾となり死ねるなら本望だと。

 だが、彼は首を振った。

 違うのだ。貴方を失う私の心が耐えられないのだ。私はもはや貴方を失う痛みに耐えられそうにないのだ、友よ。

 彼は優しい目でそう言った。

 わしはこの時自分が大きな思い違いをしていることに気づいた。オルテガ様は強靭なる肉体と強靭なる精神を併せ持つ強い人間で、それが故に勇者と呼ばれているのだと、そう信じていた。

 何故気づかなかったのか。わしらのような弱者を気遣う心を持つ者が、わしらの心を理解できるような繊細な人間が、ささいな事に動じぬような強靭なる精神を持てる筈もないではないか。彼はどこまでも感じやすいわしらと同じく脆弱な精神を抱えながら苦しんでいたのだ。

 それでもなお、彼はわしらと共にその荷を背負ってくれたのだ。感じやすいその痛みを抱えながら、わしらのような者を見捨てられず抱え込む、痛みを抱える勇気を持っている。だから彼は勇者なのだ。

 わしは涙をこぼしながら彼と抱擁した。最初会った時と同じような、涙を流しながらの抱擁だった。だが、今度の涙は暖かい喜びの涙だった。

 勇者オルテガ。わしは人間が何を言おうと彼を勇者と呼ぶ。他の人間が誰を勇者と呼ぼうと、わしらの勇者はただ一人、オルテガ様だけなのだ。

 オルテガ様は火山に落ちて亡くなったというが、わしにはどうしてもあのオルテガ様が亡くなったようには思えないんだ。彼はきっとどこかで生きている、わしにはそう思えてならないのだ。

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