第2話 ある剣士の述懐(新緑の街ノアニールにて)

 花の都と呼ばれるロマリア城の近くにある集落で私は育った。私の生まれた家は農家であった。7つの年の頃から父に土の耕し方や種のまき方を習い、魔物よけの柵も設けた。いつの時期にどんな作物ができて、どうすれば良い作物ができるのか。そんな事を毎日父から教わっていた。

 私はそんな生活が気に入っていた。胸がすくような土の匂いや、日々少しずつ伸びていく作物に命の躍動を感じた。

 私が最も気に入っていた時間帯は早朝だった。近くの森から漂ってくる朝霧を胸いっぱいに吸い込むと、全身に力が漲り、えもいえない清浄な気分になる。まるで全身の中の汚れを洗い流して、その中に木々や大地から湧き出でる力を全身に注ぎ込まれているような気分になるのだ。

 うっすらと陽が昇ろうとする時間になり、畑の上で遥か地平を見渡すと、朝霧と上りかけた陽の光が干渉し合い、筆舌に尽くしがたい美しさになる。陽と水の輝きを見ながら、少しずつじんわりと全身を包む陽の温かみを感じると、私は幼いながらに生きていることの幸福とはまさにこのことなのだろうと思った。

 私が10歳になった時、父が私を連れてロマリアに向かった。私たちの作った野菜や果物を売りに行くためだ。

 そのロマリアで私はとても嫌な経験をした。商売が終わったその日は、ロマリアの端にある安宿に泊まり、次の日の朝に街を出ようとしていた。その時、ガラの悪い何人かの男たちに捕まった。

 彼らは魔物退治を生業としている傭兵だということだった。自分たちが村まで護衛してやるから、護衛代を出せ、という事だった。ロマリアから村までの距離はある程度あるが、それほど凶暴な魔物がいる筈もなく、四半期に一度行き来する父ですらそれまでほとんど出会ったことは無かった。それでも傭兵に雇えというのは、要するにタカリ以外のなにものでもなかった。

 父は穏便に事を済ますため、丁寧に断ろうとしていたが、男達はなかなか引こうとせず、仕舞には剣をちらつかせるものだから、結局、いくばくかの金を払い、父は彼らを雇った。

 勿論道中魔物など出ず、連中は食って飲むだけのただのお荷物だった。村に着いてから護衛料をふんだくると、連中はどこかへ去っていった。

 そんな事があったものだから、幼いころの私は剣を持つ者に対して嫌悪感しか持たなかった。連中の剣は魔物から人を守るためにあるのではない。自分以外の誰かから、搾取するためにある。そんな想いを幼い心に刻んでいたのだ。

 私が16の時、父は初めて私に一人でロマリアへ行け、と言った。前の年から私は見様見真似で商売の手伝いをしていた。そんな私の様子を見て、一度試しに一人でやらせてみようと考えたのだろう。私は張り切って引き受けた。

 ロマリアに向かう馬車の中で、どうやって商人に高く野菜を売ろうか、どの商人に売ろうか、と初めてロマリアに向かった日のように胸を高鳴らせていたのを覚えている。

 初めての一人での商売は結果から言えばまずまずだった。例年の父ほど高く売れたわけではないが、それはその年の野菜の出来栄えや需給によるので、多少の価格の上下は避けられない。父ですらその時の野菜に自分以上の値段を付けられたか分からない。可もなく不可もない値段で野菜を売り、代金を金貨袋に入れていつもの安宿に向かった。

 宿屋の食堂では人がごった返していて、私はさっさと食事を済ませて眠り、朝一番で村へ帰ろうと思っていた。そんな時、隣の席の二人の男達の話が耳に入ってきた。

 遥か南の大地が裂け、そこから魔王が現れ、一つの城を乗っ取ってしまったという話だ。あまり現実味のない話だな、と思っていたら、話を聞いていたもう一人が、私の心を代弁して本当か、と尋ねてくれた。

 するとその話をした男が、それを証拠にここ最近、周辺の魔物が恐ろしく凶暴になっているという事を言った。いくつかの村が魔物たちに襲われて潰されたというのだ。

 私は思わず口にしていたスープを吹き出しそうになり、鼻に逆流したそれを鼻をつまむことで飲み下した。魔物が村一つをつぶすなど聞いたことが無かったのだ。魔物は人を襲うが、基本的に人が対抗できないレベルではなかった。徒党を組んで大量に襲って来れば分からないが、少なくともこれまで村一つが潰れるような話は聞いたことがなかった。

 私は隣の男に声をかけ、詳しく話を聞いた。彼は私が聞いた事のあるいくつかの村の名前をあげ、自分が実際に見てきた村について詳しく説明した。その描写がなかなかに写実的で、食欲をなくした私は、話の駄賃として残った料理を彼にやって部屋に戻った。

 私は安宿のベッドの上で、村の事が気がかりでならなかった。潰れた村は私の村とは随分離れているが、だから大丈夫という保証などどこにも無かった。今後自分たちはどうすべきなのか、いっその事、ロマリアの城下町に引っ越した方が良いのだろうか、などと考えた。

 ロマリアに住むにはとてもではないが、我が家には金が無い。それに農家として生まれた自分が、この窮屈な街で立派にやっていけるとは到底思えなかった。村を今まで通りに存続させるには、何か自衛できる方策を立てる必要があると思った。

次の日にロマリアを出る前に酒場に寄り、傭兵を雇うのにいくらくらいかかるものなのか、相場を確認しに行った。村人全員で協力すれば、ある程度の傭兵団を雇えるかもしれないからだ。

 だが、酒場の店主に相談してみても、とてもではないが、私の村の収入で維持できるような代金ではなかった。勿論ごろつきのような男達なら話に応じるものもいるかもしれないが、そんなものは虎を恐れて狼を呼び寄せるようなものだ。私は諦めて、他の方法を考えながら、ロマリアを出た。

 いつもとの違いに気づいたのは、少し陽が傾き、村には陽が沈むまでには着けそうだと思った所だった。土や木々の清々しい香りに混じって、本来では燃えないものが燃えるような嫌な匂いが混じっていた。私は近くで火事でも起きたのかと思い、周囲を見渡したが、それらしい煙は見えなかったので、私は気にせず馬車を走らせた。だが、進めば進むほど、その匂いは濃く、嫌な予感は胸にせりあがってきた。私はその可能性について、考えないほど馬鹿ではなかった。私はその前日から、無意識にその可能性を考える事を拒否していたのだ。そうでなければ、いても立ってもいられない上に、自分にはどうしようもない事が分かっていたからだ。

 だが、この時点で私がその可能性を意識せずにいるのは困難だった。村に近づくにつれて漂う不快な匂い、村の方角から立ち上る煙。それまで頭の片隅にあり、意識しまいと避けていた可能性、それは昨晩あの男から聞いた話から組み上げた私の中の想像に過ぎなかったが、村に近づくにつれてそれは現実という名の骨組みを得て、私に見たくもない悪夢をつきつけようとしていた。

 その時の私の感情をうまく言い表す事は難しい。その時の記憶を手繰り寄せるのは未だに苦痛を伴うし、そもそもあの時酒場で会った男のように写実的に語る方法を私は知らない。だが強いて他人に伝えようとするならば、自分にとって本当に大事な友人や家族が無残に引きちぎられ、長年金を貯めて建てた家が炎上する所をよりリアルに想像すれば、その時の私の気持ちの一端でも理解してもらえるのではないだろうか。

 それ以上の描写は結局の所、聞く人間の想像力に依るものだから、多くは語るまい。

 ただ言える事は、私はその時、持つものの全てを失い、しばらくの間は何もできなかったということだ。考える事を完全に放棄していた。それからどういう道を辿ったのかは覚えていないが、私はロマリアに戻っていた。考える事を放棄していた私は、空腹と乾きに怯え、眠りを求める身体の悲鳴に従い、ロマリアに戻ったのだと思う。

 先ほどは全てを失ったと言ったが、幸いにして私の手元には野菜を売った代金と荷馬車があった。そのため、数日は安宿に泊まり、自分の心と身体を休めることができた。

 数日経つと、持ち金も尽きてきて、私は身を立てる方策を考える必要が出てきた。これはある意味幸運だったかもしれない。おそらく何もせずに宿のベッドに居るだけでは何一つ変わらず、そのまま息絶えていたに違いないからだ。

 最初に私は、今私が持つ唯一のもの、荷馬車を有効に活用できないかと思った。荷馬車を使って商売を始めるということを考えたのだ。だが、幼いころから農作業ばかりやっていた自分に、商人の真似事ができるとは思わなかったし、街から街に移動するのは村で農業を営むのと同じくらい危険な事だった。

 結局、私自身を鍛える事が、将来どのような道を辿るにせよ必要だと考えた私はその日の晩に酒場に行き、傭兵として雇ってもらえるように頼み込んだ。酒場の店主は私の境遇を知っていたから、喜んで協力する、と言ってくれた。私は荷馬車を売り、初めての剣と鎧を購入した。

 ここで思い出してほしいのだが、私は幼い頃、剣を持つものに対して強い嫌悪感を持っていたのだ。この時でさえも、その思いが払拭されていたわけではないし、その認識自体は決して誤ってもいなかったのだと今でも思う。

 それから7年ほど私は酒場を拠点に腕を磨き、金を稼いだ。その間に魔物たちはますます凶暴さを増し、魔王の噂はより大きくなっていった。各国の王達は魔王討つべしと勇者を募り、多くの者達が集められた。

 だが、そのほとんどの者達が、魔王にたどり着く前に死ぬか、諦めて傭兵か、盗賊もどきになっていった。結局の所、連中は勇者という栄誉と報酬が欲しいだけであって、状況が変わればかつて私が嫌悪した連中と同様、脅しタカるしか能のない連中なのだ。

 噂によれば、遥か東の国にサイモンという偉大な勇者があると聞いたが、しかし私にしてみれば眉唾だった。日々傭兵という仕事をこなしていく上での実感だったが、剣を持つ者のほとんどは、何かを守るのではなく、己の私欲を満たすためだけに戦っていた。

 例えば彼らは賃金を貰っている限りは荷主を守るだろうが、もし賃金を貰えないと分かれば、すぐに荷主を捨てていなくなるだろう。また、自分の命が危ういと知れば、割に合わないとやはり荷主を見捨てるだろう。

 だがそれは必ずしも唾棄されるような事でもないと私は思った。良い悪いは別にして、それが人というものの自然な姿なのだと私は思うからだ。だからこそ、巷で語られる勇者と呼ばれる人種を私は信じていなかった。私は幼い頃見たあのゴロツキに対する嫌悪をそのままに、ただし人というものは、あのゴロツキと変わらないものなのだと理解し始めていたのだ。

 7年間である程度腕を磨いた私は、拠点としていたロマリアを離れ、しばらくフリーの傭兵としてあちこちの街や村を回った。だがそれは自らが勇者を名乗らんがためではなかった。若き日の壮絶な経験が、私により強い力を求めさせたのだ。いずれ、より強力になる魔物たちから身を守るため、より高みを目指さなければ自分が淘汰される事を知っていたのだ。結局の所、私もまた自らのことしか考えてはいなかったのかもしれない。

 私は腕を磨くうちに、ある程度金も貯まり、生活も安定してきた。それでも私が旅をやめなかったのは、今思うと、ますます確実なものとなる人に対する嫌悪感をぬぐってくれる誰かを、無意識に探し求めていたのかもしれない。諦め以外の答を見つけたくて、私は旅を続けていたのかもしれない。

 そんな私が彼に会ったのは、そんな私がカザーブから新緑の街、ノアニールに荷を運ぶ商人に雇われ、キャラバンに同行していた時の事だ。

 キャラバンがノアニールの近くまで来ていた時、遠目に一人の娘が森の方に向かっているのが見えた。森には平原よりも危険な魔物が沢山住んでいる。そんな事も知らないのだろうかと私は訝んだ。

 私は注意するために声をかけようと後を追おうとしたが、雇い主の商人に止められた。我々を置いてどこへ行くのだ、高い金を払っているのだから最後まで護衛をしてもらわなければ困る、と。

 道中、襲ってきた魔物を私が一刀両断したことで、私はこの商人からとても感謝され、信頼されていた。おそらくここで信頼を裏切らなければ、私は今後もこの商人から護衛を任され続けるだろう。だが、街はすぐそこだし、少し娘に注意するくらいなら問題ないと私は説明したが、商人は頑として承知しなかった。

信頼とは合理的な理屈の問題ではない、それがいかなる理由であれ契約を履行できない者を信頼することはできない云々。

 私は逡巡したが、そもそも自ら危険な場所に向かおうとする娘が悪いのだし、必ずしも魔物に出くわすとは限らないと自らに言い聞かせ、キャラバンに戻ろうとした。だが、次の瞬間、森から甲高い悲鳴が聞こえた。

 間違いない、娘が魔物に襲われたのだと確信した私は、全速力で森へ向かった。背後から雇い主の罵声が聞こえた。もはや再契約は諦めた方が良いだろう。最初からこうなるのであれば、もっと早く向かうべきだった。私は自分の決断力の無さに歯噛みして、急ぎ森へと向かった。

 鬱蒼とした森はあちこちに魔物の気配がした。

 何故このような場所に娘一人で来たりするのだと悪態をつきながら、私は森の奥へ進んだ。すると、少し開けた所に娘が座り込んでいるのが見えた。その前には動く鎧がギリギリと不快な音を立てて剣を振り上げていた。決して勝てない敵ではない、だが、振り下ろされる剣を受け止めるには距離がありすぎる。

 疾走しながらも私はもう間に合わないと諦め、目を細めたが、その一瞬で私は信じられないものを見た。

 轟音が鳴り響いたかと思うと、一瞬で鎧が真っ二つに分断され、吹き飛ばされたのだ。

 おそらく魔法使いが呪文を唱え、硬直した所を戦士が真っ二つにしたのだろう。ほんの一瞬でそれだけの事ができるのはよほど腕の立つパーティの仕業と思われた。

 だが、そこには鎧を両断した戦士が一人立っていただけだった。

 戦士は鎧が動かなくなるのを確認し、娘の無事を確認していた。

 私は思わずその場に立ち止まっていたが、すぐに気を取り直し、彼と娘の所に近づいていった。動く鎧を両断した戦士は、娘が腕に小さなケガをしているのを見つけると、あろうことか僧侶のごとく回復呪文を唱えた。

 私は思わず、貴方は僧侶なのですか、と声に出した。

 娘がびくりと大きく動き、私を恐る恐る見た。その様子を見て私は自分が二人に名乗りもせずに近づいたことに気づいた。

 私は男と娘に非礼を詫びてから一連の事を見ていたことを告げ、あらためて彼が僧侶であるのかと尋ねた。しつこいようではあるが、鎧を分断できるほどの戦士が回復呪文を唱えるのはそれほど衝撃的なことなのだ。

 私も一人で旅をする上で、自分で回復呪文を覚えられたらどれだけ良いかと思い挑戦したが、全くできなかった。戦士が呪文を唱える事は、原理は分からないが不可能とされていたのだ。呪文の力と腕力とはシーソーのようなもので、片方をあげれば片方は下がる、トレードオフの関係と言われていた。つまり、私からすれば男は摂理を外れた存在だったのだ。

 男は彼女の傷が治るのを確認してから、静かに答えた。自分は僧侶でも戦士でもない、ただ旅をしているうちに癒す力も敵を打ち倒す腕力も身に着いただけだと。

そう言ってから、男は娘の手を取って立たせて、何故このような森に一人で入ったのかと静かに娘に問いただした。

 娘は少し恥じ入ったような顔を見せながら、自分は宿の娘なのだが、宿の客に毒の傷を負った者が居て、毒を癒す薬草の在庫が少なく、やむを得ず薬草を求めて森へ入ったということだった。

 男は少し考えるような様子を見せて私の方を見て言った。

 貴方は相当腕が立つようだし、悪人にも見えない。この娘を連れてノアニールに戻ってくれないか、毒消しの薬草は私が集めてすぐに持っていく。

 そう言ってから男は森の奥へと歩いて行った。

 私はそんな男の後ろ姿を茫然としながら見送った。娘も同じだったようで、思わず私と娘は顔を見合わせた。まだ17、8と言ったところだろうか、あどけない顔ではあるが、整った顔立ちをした娘だった。一瞬見ほれてしまったが、娘が恥じらいながら、あの、という言葉で我に返った私は男に頼まれた通り、娘を連れてノアニールに向かった。

 彼女を無事、自宅の宿に送り届けた後、私はキャラバンの泊まっている宿に向かった。

 案の定、私は雇い主から散々罵倒された挙句、今回の報酬(きっちり値下げされた)を投げつけられ、追い出された。だが、今の私にはキャラバンの報酬や今後の事より、あの男の事が気になっていた。

 私が再び娘の宿に戻ると、既に男は治療に使って余りあるほどの毒消しを宿に運び込んでいた。宿の主人である、娘の母親が、何度も男に礼を言い、毒消しの代金を払おうとしていたが、男は決して受け取ろうとはしなかった。それならば、せめて泊まっていって欲しいと母親が言ったので、男は謝辞を述べてからそれを承諾した。

 私はそれを聞いてから、その日の宿はそこにしようと決めた。勿論母親は私にも無償で構わないと言ったが、私はきちんと代金を払うつもりだった。私は結局のところ、わが身可愛さに娘を救うことを躊躇し、感謝されることなど何一つできなかったのだから。

 その晩、私は男と酒を酌み交わした。母親が料理を運び、娘が酒を注いだ。あらためて見ると男は私よりいくらか年上に見えた。30半ばといったところだろうか。名はオルテガと名乗った。オルテガ殿はとても寡黙な人だった。少し頬を赤らめた娘が、酒を注ぐのに礼を言う以外には自発的に話すことをしなかった。

 私は最初、彼の力に興味を持ち、どうすれば彼のような力を得る事ができるのかを聞き出そうとしていた。オルテガ殿は言葉少なくではあったが、誠実に回答してくれた。だが結局の所、彼が何故戦士並みの力を持ちながら呪文を使えるのかは分からないままであった。そもそも彼自身もその理由について深く考えていないように思えた。彼にとって一般に言われるトレードオフの理論などは関係が無かった。彼は必要であったから使えるようになったのだ。人々を守りたいから敵を倒す腕力を得、人を癒したいから治癒呪文を学んだ。

 彼は特別なのだろう、という事は薄々感づいていた。だがそれは結果的に特別であったというだけで、彼はそもそもそんな才が無く、出来なかったとしてもそれをやり続けたのだろうと思った。

 私は気が付けば、彼の持つ力よりも、彼という人間そのものについて興味を持っていた。

 今思えば不躾ではあるし、彼はそもそも自分の事を話すのを、それほど好まないように思えた。それでも私は彼の事について根ほり葉ほり聞き、彼はその問いに、彼自身が理解している範囲で答えてくれた(余談ではあるが、彼が祖国に妻を残し、幼い息子もいると聞いた時の、宿の娘のあからさまにショックを受けた表情は少し面白かった)。

 私が彼に旅の目的を聞くと、彼は魔王を打ち倒す事、と静かに答えた。私は少しドキリとしながらも、では貴方は勇者なのですね、と私が相槌を打った。彼はしばらく考えてから、頷き、祖国の王にそう任じられた、と答えた。

 では、貴方は、何故勇者になったのですか。

 私は、私が最も確認したかった事を聞いた。

 オルテガ殿はしばらく考えていたが、結局答えは出なかったようだ。オルテガ殿は首を振ってすまない、とだけ言った。

 だが、この時すでに私にはその答えが得られている気がした。

 その日私は、本当に心が軽くなったのを感じた。私の中の、人に対する不信の念が払拭されたのだ。拭い去られて初めて、私はそれまでの心がいかに曇っていたのかを知った。あまりに長すぎてそれが曇っていることすら忘れていたが、それがいっぺんに雲ひとつない晴天へと変わったようだった。

 次の日の晩、オルテガ殿は今晩遅くに立つと言った(娘が酒を取りに行ったタイミングで私に話した所を見ると、オルテガ殿も存外ただの朴念仁ではないようだ)。

 なんでもポルトガに向かうために魔法の鍵が必要で、それがアッサラームにあるという噂を耳にしたらしい。せめて今晩は泊まり、明日の朝に立ってはどうかと提案したが、オルテガ殿は首を横に振った。宿の方々には自分は心から感謝しているということを貴方から伝えて欲しい、とオルテガ殿は言った。

 私は実はその時既に、オルテガ殿の旅についていく事を心に決めていた。だが、オルテガ殿から頼まれては仕方ない。どうせ行く先は分かっているのだ。少し遅れて追っても変わらぬだろう、私はそう思い、オルテガ殿の願いを快諾した。

 オルテガ殿は私に礼を言い、その晩、私以外の誰にも気づかれずに街を出て行った。

 私は明日の朝一で出られるように旅支度を整えてから、ベッドに入った。

 宿屋の者達に礼を言ってからオルテガ殿を追わねばならないのだから、今日はゆっくりと身体を休めねばならない。

 私は心から満足な眠りにつける気がしていた。

 ただの一人でもああいった人がいるのであれば、私は人というものを心から信じる勇気が湧いてきた。ああ、あの人は人に勇気を与える事ができる。だからあの人はまさしく勇者なのだろう。私はそんな事を考えながら、深く、長い眠りについた。

 ここで私の彼に関する述懐を終えよう。厳密にいえばこの話には続きがあるのだが、実際私が彼について知るのはそれだけなのだから、ここで終わらせるのが丁度よいのだと思う。


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