290:直訴

 ガリエルの第3月24日、ジェローム率いるカラディナ軍17,000は、指定された期日の前日に、聖王国国境へと到着した。


 到着時のカラディナ軍は、惨憺たる有様だった。相手に見下されないよう兵の数だけは揃えたが、そのほとんどが敗残兵で、しかも完敗を喫した相手の許に出向くとあって士気は皆無。「クリエイトウォーター」「ライトウェイト」は使えず、水の入った壺を載せた荷車に馬を奪われ、騎士も徒歩を強いられている。おまけに火を起こす事も一苦労で暖や調理もできず、川から汲んだ水は鮮度に劣り、体調を崩す者が続出した。


 通常半月程度で到達する道のりを7日も超過し、やっとの事で到着したカラディナ軍の前に、大勢の人馬が姿を現した。コルネリウス率いる聖王国軍、28,000。40日の休息を終え、負傷者も復帰した彼らは血気盛んで、その陣容に相応しい威圧をカラディナ軍へと放っている。カラディナ軍の兵士達はその威圧に呑まれ、いつ何時でも元来た道へと逃げ帰れるよう、腰の引けた状態で身構えた。




 聖王国軍は横陣を敷き油断なく目を光らせていたが、即座に襲い掛かって来る事もなく、カラディナ軍の様子を窺っている。聖王国軍の手前には1台の馬車が停車し、奇怪な姿をカラディナ軍に晒していた。


 馬車を牽く馬はおらず、その表面は分厚い鋼鉄に覆われ、4対8輪の巨大な車輪を有している。その大きさはドラゴンに迫るほど大きく、馬を何頭繋げようとも牽けるような大きさではなかった。


 馬車の上には二人の男女が佇み、カラディナ軍を睥睨するような目を向けていた。一人は人族と思しき、黒髪の男。もう一人は銀の髪を湛えた、獣人の女。男の右腕は存在せず、男は一本しかない腕をポケットに突っ込んで背後に女を従え、17,000の兵を前にして臆することなく、馬車の上で仁王立ちしている。その不遜な姿にカラディナ軍の兵士達が警戒を強めていると、突然何もない空間に管楽器ホーンを思わせる奇怪な物体が姿を現し、ホーンを通じ男の声がカラディナ軍へと聞こえてきた。




『俺の名はジョーカー。まずは、カラディナ政府がこちらの要求を呑み、期日通りに応じてくれた事に感謝しよう。早速だが、ジャクリーヌ・レアンドル、ジェローム・バスチェ、及び六柱の各当主は、前に出て来てくれ』




「貴様、いつまでも自分の思い通りになると、思うなよ!?」

『…ぁあ?』


 カラディナ軍から一人の偉丈夫が進み出て、車上の男に向かって怒鳴り声を上げる。ジェロームに代わってカラディナ軍を統率していた将軍は、明らかに機嫌を損ねている男の声を聞いて一瞬怯むものの、己を叱咤し声を張り上げた。


「貴様の許に17,000にも及ぶ兵が、この距離まで迫っている。これだけの兵に一斉に襲い掛かられて、五体満足で生き長らえると思っているのか!?」

『あんたの御託ごたくに、いちいち付き合っている暇はないんだよ』


 将軍の反論に、男が吐き捨てるように答える。その直後、男の乗る馬車の前面に地面から無数の黒い靄が湧き立ち、渦を巻いて禍々しい姿を現した。その数は100本にも及び、4メルドを越える巨大な槍は橙と黒の斑模様に光り輝き、青炎と白煙を噴き上げながらその凶悪な尖端をカラディナ軍へと向ける。「ロザリアの槍」の切っ先を向けられたカラディナ軍は総崩れとなり、兵士達は勿論、啖呵を切った将軍でさえも仲間を押し退け、元来た道へと我先に逃げ始めた。


「…う、うわああああああああああああ!」

「た、助けてくれ!」

『ジャクリーヌ!ジェローム!てめぇら、出て来い!』


 恐怖に心を鷲掴まれ、壊乱する兵士達の耳に、男の怒鳴り声が聞こえてくる。


『10数えるうちに出て来ないと、槍を貴様らへと見舞い、カラディナの素質も二度と戻らない!それが嫌なら、とっとと出て来るんだ!…10!…9!…8!…』

「お待ち下さい!ジョーカー殿!」


 逃げ惑う兵士の頭上に降り注ぐ終末の叫びの如き男の恫喝に、張り詰めた女性の声が答える。ジャクリーヌ・レアンドルは歯が鳴らないよう必死に唇を噛み、背後にアインを従えながら、蒼白な顔で男の前へと進み出た。




 ジャクリーヌに数拍遅れ、六柱の面々も前へと進み出る。その顔は皆一様に蒼白で、ジェロームはともかく一部の当主は及び腰で今にも逃げ出そうとしており、兵士達は護衛ではなく監視役のように彼らを取り囲み、退路を塞いでいた。


 ジャクリーヌは恭順の意を示すように凶悪な槍の先端の前に佇むと、恐怖で顔を強張らせながら、車上から横柄に見下ろしている片腕の男に対し口を開く。


「…お初に御目にかかります、ジョーカー殿。私の名は、ジャクリーヌ・レアンドル。ロザリア教会の枢機卿として、カラディナ支部を統括しております」

「…ジョーカーだ。大人しく出て来てくれた事に、礼を言おう」


 ジャクリーヌの言葉に男はホーンを下ろし、横柄ながらも言葉を返す。背後に並ぶジェローム達も渋々と自己紹介した後、ジャクリーヌが決死の表情を浮かべ、男の要求を聞いた。


「ジョーカー殿、あなた様は我々カラディナに対し、何をお望みでしょうか?あなた様は、我々カラディナを手玉に取り、西方諸国全てを相手取っても一方的に蹂躙できるほどの強大な力をお持ちです。それほどまでの力を持つあなた様が、何故ガリエルやコジョウ・ミカに与し、この中原を脅かそうとされるのですか?あなた様は、この中原を滅ぼしてまでして、何を得ようとしているのですか?」


 一瞬で国内全ての素質を奪い去り、カラディナを機能不全に陥れるほどの相手に、中原諸国が束になったところで敵うはずがない。三大国の一角をコジョウ・ミカに崩され、今このジョーカーと名乗る得体の知れない男の前にカラディナも屈しようとしている中、ジャクリーヌは必死に男の真意を探り、例え中原を奪われようともその中に将来の希望の光を遺そうと、覚悟を決めていた。それが自分の命と引き換え程度であれば、どんなに気が楽か。重圧に押し潰されそうになるジャクリーヌの耳に、男の言葉が流れ込んだ。




「…大した事は頼まんよ。ただ、此処で、大人しく古城美香と対話してくれ」




「…え?」


 車上から降り注ぐ言葉が即座に理解できず、間の抜けた声を上げるジャクリーヌが顔を上げると、男が背後に振り返りながら、ホーンを口元へと添える。


『古城、前に出て来てくれ』




「…先輩、さっきの言動は、完全にヤクザですよ…」


 複数の男女を従え、ブツブツと独り言を呟きながら聖王国軍の中から進み出てきた黒髪の少女を目にしたジャクリーヌ達は身構え、警戒を露わにした。


「…コジョウ・ミカ…!」


 凶悪な黒槍の向こう側に姿を現したコジョウ・ミカは、暴力に怯える少女のようにジャクリーヌ達の顔色を窺いながら笑みを浮かべ、一礼する。


「ジャクリーヌ様、ジェローム様、お初に御目にかかります。古城美香と申します。この様な形とは言え、皆様とお会いできました事、大変嬉しく思います」


 コジョウ・ミカは噂に違わず、純真無垢な少女の姿で、些か翳りを帯びた儚げな笑みを浮かべている。その姿はどうしても、口の端に乗せるのも憚れるような痴態を晒して快楽に溺れ、人々に恐怖と絶望を振り撒く、死と退廃の権化には見えない。


 だが、エーデルシュタインの人々はこの純真無垢な姿に惑わされ、誑かされ、今もなお操られている。


「…ジョーカー殿!」


 ジャクリーヌが振り返り、車上から尊大に見下ろしている隻腕の男に向かって、必死に訴える。


「あなた様は、コジョウ・ミカに騙されています!彼女は自身の純真無垢な姿を利用してエーデルシュタイン国内に不和の種を蒔き、王家を自滅へと導いたのです!彼女の姿形に惑わされては、いけません!」


 ジャクリーヌの言葉を聞いたコジョウ・ミカが悲しそうに顔を歪め、取り巻き達が憤怒の様相を見せる。だが、ジャクリーヌは構わず隻腕の男に向かって訴え続けた。


 そうだ。ジョーカー殿はこれだけ圧倒的な力を持ちながら、我々にコジョウ・ミカとの対話しか求めていない。彼はただ単に、コジョウ・ミカに仲介を頼まれただけなのだ。であれば、コジョウ・ミカの本当の姿に気づいてくれれば、我々の味方になってくれる。




 逆に言えば、対話のテーブルに付いた時が、我々の最期。口を開いた途端、我々はきっと、コジョウ・ミカに操られる。




 ついにこの場における「勝敗」が明らかになり、ジャクリーヌは何としてでも「敗北」を免れようと、隻腕の男の説得を続ける。同じ結論に至ったのだろう、ジェロームもジャクリーヌを支援した。


「ジョーカー殿、ジャクリーヌ猊下の仰られる通りです。あの女がどの様な甘言を弄したのかわかりませぬが、それは全てまやかしです。我々が対話のテーブルに付いた途端、あの女はきっと牙を剝き、我々の心を操って西方諸国を混乱へと導くでしょう。ジョーカー殿、あなただけがそれを食い止める事ができるのです!目を覚まして下さい!」

「トウヤ!」

「…」


 ジャクリーヌに続いてジェロームの言葉を受けても、車上の男は口を噤んだまま、じっとジャクリーヌ達を見下ろしている。焦燥のあまりアインも男の名を呼ぶ中、やがて男が一本しかない手で頭を掻き始め、ぼやくように答えた。




「…本当に騙されているのはどちらか、に聞いてくれ」




「…本人?」


 意図の読めない言葉を受け、ジャクリーヌ達が目を瞬かせていると、車上の男が再び口を開く。


「――― 管理者権限をもって命ずる。古城美香の頭上に、映像を投影しろ」




 その途端、コジョウ・ミカの上空が光り輝き、が姿を現した。

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