283:王虎墜つ

 オストラからカラディナへと抜ける、東西に走る大動脈。赤茶けた大地が剥き出しになった、緑の乏しい荒野を貫く一筋の線を中心にして、数万の兵士達が対峙していた。二つの軍は大きく横に広がり、互いに相手の出方を窺うかのように、距離を空けたまま動きを止めている。


 ガリエルの第2月13日。前日にこの地に到着したコルネリウスは、戦場を彼我の勢力で二分するかの様に南北に連なる馬防柵を設け、その後ろに陣を敷いた。馬防柵は二つの大きな山を描いており、中央が谷底の様に抉れ、その中心を大動脈が貫いている。コルネリウスは馬防柵の後ろに鶴翼の陣を敷き、左翼をホルスト、右翼をユリウスに任せ、後方にヘルムート率いる近衛師団を予備兵力として配置し、自身は中央を率いた。


 柵越しに敵陣を睨むコルネリウスに、副官が質問する。


「奴ら、かなり間隔を空けていますね。やはり『ロザリアの槍』を警戒しているのでしょうか?」

「おそらくそうだろう。遊兵のリスクを覚悟の上で、槍による殲滅を警戒しているようだな」


 コルネリウス達の視線の先で東滅軍は大きく左右に広がり、複数の集団に分かれて展開していた。


 一つの集団の規模は、およそ5,000名くらいだろうか。聖王国軍に相対するように中央と左右に分かれ3集団が布陣していたが、各集団の間が大きく開いている。そして、その隙間の向こうには、同規模と思われる集団が4個、朧げに浮かび上がっていた。副官が再び質問する。


「討って出て、各個撃破しますか?」

「…いや」


 副官の問いに、コルネリウスが頭を振る。


「5,000規模となると、一息では潰せない。こちらの一撃を堪えている間に後続が押し寄せて乱戦になり、『槍』が使えなくなるのがオチだ。馬防柵が邪魔になり、引き際も失ってしまう。弓矢での牽制に留め、相手を釣り出すんだ。ホルストとユリウスにそう伝えろ」

「はっ」


 コルネリウスの指示に副官が唱和し、両翼へと伝令を走らせる。


 暫くすると敵左翼が前進し、ユリウス隊との間で矢戦が始まった。ユリウス隊は応戦しながら後退し馬防柵を明け渡すかのように振る舞うが、東滅軍はその手に乗らず、両軍は馬防柵を挟んで矢戦に終始する。矢戦は未だ本格的ではなく、相手の数が少ない事もあってユリウス隊の損害は微々たるものであったが、相手の煮え切らない態度にユリウスは思わず舌打ちした。


 やがて敵左翼が後退を始め、それに合わせるようにユリウス隊が馬防柵まで前進する。すると今度は敵右翼が前進し、ホルスト隊との間で矢戦を始めた。依然動きを見せない中央集団を眺めながら、副官が苦虫を噛み潰す。


「奴ら、こんな及び腰でやる気があるんでしょうか?」

「…」


 副官の感想を聞き流しながら、コルネリウスは思案に沈む。戦線が膠着する事自体は、聖王国軍にとって決して不利な事ではない。何と言ってもオストラから西へ僅か1日の距離であり、東滅軍に比べ補給線が段違いに短い。しかも東滅軍の方が兵力が多く、比例して補給の負荷が増す。長期化によって士気が下がる事も考慮すれば、兵勢へいせいに任せ、犠牲を甘受して畳み掛ける方が得策だ。そこまで考えたコルネリウスは、或る事に思い至る。




 …もしや、兵が揃っていない?




「閣下!」


 副官に呼ばれたコルネリウスは思考を止め、顔を上げる。コルネリウスの前方には敵中央集団が陣取っていたが、その後背から2筋の狼煙が昇っていた。それを見たコルネリウスは即座に右を向き、ガリエル側に広がる森に目を向ける。…いない。


 すかさず左へと振り返ったコルネリウスは、一瞬の後、南東に立ち昇る2筋の狼煙を認め、唸り声を上げた。


「南っ!?南部小国家群かっ!」

「閣下、東滅軍が来ます!」


 南東の方角を睨み付けるコルネリウスを三度副官が呼び、彼は歯軋りしながら正面を向く。彼の視界に飛び込んできたのは、今までの煮え切らない態度を一変させ、戦場を回り込んで最左翼と最右翼へと突撃する敵両翼と、その間隙目がけて急進してくる後続の3個集団、計25,000にも及ぶ攻勢だった。左右に布陣するホルスト、ユリウス両隊から無数の魔法が襲い掛かり、敵集団に出血を強いているが、敵は損害をものともせず馬防柵に取り付き、引き倒そうとしている。


 コルネリウスも、決して南部小国家群ルートを軽視していたわけではない。だが、過去にカラディナとエーデルシュタインの間で繰り広げられた戦いは全て両国間を繋ぐ大動脈の間で行われており、南部小国家群へと抜ける道を戦争に用いない事は、半ば両国間における暗黙の了解となっていた。また、一昨年の内乱でリヒャルトが落とした橋は未だ仮設のままで行軍に耐え得なかった事もあり、兵力に劣るコルネリウスは川沿いに監視部隊を配置するに留めていたのである。


 だが、東滅軍は先行部隊を闇夜に紛れて渡河させると、監視部隊を殲滅。その後、多数の舟橋を架け、軍の渡河を成功させていた。




 両翼における戦いは激烈さを増し、馬防柵が何箇所か破られていたが、その間東滅軍は無数の魔法と矢を浴びて無視しえない損害を受けている。犠牲を無視して突貫を続ける東滅軍に対処しながら引き際を探っていたコルネリウスの許に一人の騎士が駆け寄り、膝をついた。


「閣下!近衛師団長ヘルムート様からの伝言です!陛下の御下命により、近衛師団はこれより南東へ転進、敵別動隊に対します!」

「あい分かった!我が軍も敵正面を撃滅後、すぐに転進する!ヘルムート殿には、全てを犠牲にしてでも陛下をお守りするよう、申し伝えよ!」

「畏まりました!」


 怒鳴り付けるようなコルネリウスの言葉に、騎士は弾かれたように立ち上がると、そのまま馬を駆って後方へと走り去る。コルネリウスは正面を向き、歯が欠けるほど食いしばった。


 すでに一刻の猶予もない。南東から押し寄せる別動隊に対処するには、「ロザリアの槍」を持ち出す他にない。だが、槍を放った時、それは「全人族の母」の死を意味する。




「母」を殺して兵を救うか、兵を犠牲にして「母」を生き長らえさせるか。




 コルネリウスは目の前に繰り広げられる戦いと、心の中で新たに勃発した戦いの双方に、苦悩していた。




 ***


「ゲルダさん!馬に乗せて下さい!」

「ミカ!?ちょっと待って!」


 別働隊襲来の報を受け、どよめきの広がる近衛師団の中央で、美香は自ら馬車の扉を開け、傍らで騎乗しているゲルダに手を伸ばす。レティシアは美香を引き留めようと手を伸ばすが、間に合わないと見るや一転して反対側の扉を開け、騎乗するオズワルドに手を伸ばした。


 ゲルダは刹那の間美香の思い詰めた表情を見つめていたが、やがて肉食獣のような笑みを浮かべると、美香の腕を掴み、馬上へと引き上げる。ゲルダは美香を自分の前に跨らせ、背後から腕を回して役得とばかりに慎ましやかな胸を鷲掴むと、片手で手綱を操り、手の甲を抓る美香をそのままにして、周囲に向かって怒鳴り声を上げた。


「アンタ達!陛下が自ら出撃されるっていうのに、その体たらくは何だい!?胸張って近衛を名乗りたければ、さっさとついて来るんだよっ!」

「「「はい!」」」

「ゲルダさん!いつまで胸揉んでるのよっ!?」


 馬車を守護していた女性騎士達がゲルダの叱咤を受けてたちまち立ち直り、ゲルダに倣って馬首を翻す。ゲルダの手を引き剥がす事を諦めた美香は、胸を揉みしだかれながら、馬車に残るマグダレーナに向かって叫んだ。


「マグダレーナさん!反転して後方に下がって下さい!カルラさんをお願いします!」

「畏まりました、ミカ様!」

「ミカ様、どうかご無事でっ!」


 マグダレーナが身を翻し、御者台に乗り込んで詠唱に備える。カルラが窓に張り付いて悲愴な表情を浮かべる中、数名の騎士を従えた馬車は反転を開始した。ヘルムートの許へ赴いていた騎士が駆け戻り、馬上から報告する。


「陛下、ヘルムート団長からの報告です!御下命を受理!直ちに反転し、後背の敵に備えるとの事です!」

「わかりました!お願いします!」


 美香の傍らにレティシアを乗せたオズワルドの馬が並び、オズワルドが気遣わし気な目を向ける。


「ミカ…撃てるのか?」

「…」


 オズワルドの言葉の受け、美香の呼吸が止まる。だが、やがて彼女は、目を瞑って宝物を投げ捨てるような悲壮な表情で断言した。


「…撃ちます!」




 ***


 ヘルムート率いる近衛師団は南東方向へ10分ほど駆け抜けた後、南から北上する別動隊の姿を認め、魚鱗の陣を敷いて対峙する。馬上から敵軍を一瞥したゲルダが、顔を顰めた。


「こりゃ、マズい。2万近くいるね…」


 ゲルダの視線の先には、大きな二つの集団が互いの間隔を大きく開け、右手に連なる森に沿って、長蛇の陣とも言える極端に細長い縦深陣を敷いていた。彼らは近衛師団を認めると歩速を早め、兵士の姿が次第に大きくなる。ゲルダは美香の肩を叩き、耳元に顔を寄せて静かに尋ねた。


「…どちらをる?」

「…右で」

「わかった」


 近づいて来る敵の様子を見ると、右側の集団が先行している。ゲルダは一つ頷くと右手を上げて後続を押し留め、美香と二人、単騎で陣の先頭へと躍り出た。


 ゲルダは手綱を引き、右側の集団を真正面に見据える地点へと導くと、そこで馬を降りる。馬が主人の意を酌み後方へと引き下がると、ゲルダは美香の後ろに回り、片膝をついて背中越しに抱き締めた。美香は右掌を前方へと突き出し、左手を右手首に添えて口を開く。




 ――― そして、近衛師団6,600と東滅軍20,000、敵対する双方の兵士達は、その光景を目にする。




「汝に命ずる。大地より鉄を吸い上げ、灼熱を抱いて鋼の錘を成せ。錘は長さ3m、底の直径75cmとし、その数は50。我の前方10m、高さ1.5m、幅200mの間に等間隔で横列を成し、各々が青炎を纏いて我に従え」


 美香の詠唱と共に、地面から黒色の靄が立ち昇る。無数の靄は空中で渦を巻いて次第に黒槍を形成し、橙と黒の斑模様を描き、青炎と白煙を吹き上げる。その数50本。人族の身長を優に超え、その体を容易に破砕する凶悪な尖端を前方へと向け、あるじの号令を待つ餓狼の群れの様に、死を撒き散らかさんと待ち構えている。その牙を向けられた右側の集団は急停止し、その死から逃れようと慌てて左右へと散り始めた。


 そして、―――




「…わ、わ、わた…」

「ミカ?」


 顔を上げたゲルダの視線の先で、前方に突き出された美香の右腕が震え始め、膝が嗤い出す。美香の目はこれ以上ないほど見開かれ、大粒の涙が止めどもなく溢れ、頬を伝っていった。




 ――― 私は今日、人殺しになる。




 地母神の鉄槌あの時とは違う、正真正銘の人殺しになる。自らの手で、明確な意思を持って、何の罪もない大勢の人々を殺す。


 もう言い逃れはできない。人々から何と言われようとも、非難されようとも、罵倒されようとも、決して否定する事はできない。




 ――― 私は、人殺しだ。




 私は、汚い女だ。私は、卑怯な女だ。私は、最低の女だ。




 ――― そして今日、私はついに、女から人でなしになる。




「…やだ…やだ…なりたくない…」

「ミカ!撃つんだ!」


 ゲルダは、唇を震わせボロボロと涙を流し始めた美香の肩を掴み、鬼気迫る表情で詰め寄る。


「アンタの業はアタシが全て抱える!アンタの罪はアタシが全て背負い、生涯を賭けて償おう!だから、ミカ、撃つんだ!今アンタが撃たないと、レティシア様も!オズワルドも!皆死んでしまう!撃つんだ!愛する人達を生かすために、自分を殺せ!」

「…わ、わた、私…」


 肩を揺さぶられ、涙で滲み上下に揺れ動く視界の中でゲルダの琥珀色の瞳が強者の炎を湛え、美香はその数々の死を見届けてきた者だけが持つ超越の輝きに惹き込まれる。


 その直後。




「…え?」


 突然ゲルダに襟首を掴まれた美香は、その剛腕によって振り飛ばされ、投げ捨てられた人形の様に宙を舞った。




「あぅ!」


 一瞬とも言える浮遊感の後、背中を強かに打った美香は、体中の痛みに呻き声を上げながら、固い地面の上を二転三転する。口の中に土の味が広がり美香はその場で唾を吐くと、地面に這いつくばったまま顔を上げる。




 その美香の視界には、何処からともなく現れた若い男の前で、稲光を網のように全身に絡み付かせたまま膝から崩れ落ちるゲルダの後姿が、映し出されていた。

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