268:巡幸

 中原暦6627年ガリエルの第5月、こうして人々は素質の無い世界に向けて、第一歩を踏み出した。


 テオドールや高官達は連日美香の許を訪れ、美香から元の世界の話を聞き、素質の無い世界を迎えるための対策の手掛かりを探る。美香も記憶を頼りに、水道をはじめとする元の世界の技術を説明して回り、同時に素質喪失後の物流の混乱に乗じた荷代の高騰、及び荷馬車が急増する事に懸念を表明し、運搬ギルドの創設と交通ルールの策定を提言、ヴィルヘルムがその任を負う事となった。


 一方、枢機卿達も美香の許に足繁く通い、フリッツらと共に「ガリエルとの最後の戦い」の筋書きを詰めていく。素質の喪失までの流れについては、最終的には柊也とも話を合わせなければならないが、数年かけて段階的に素質を弱体化させていく事で、人々に素質の無い世界に慣れてもらうという結論に落ち着いた。


 そして瞬く間に半月が過ぎ、翌ガリエルの第6月、美香は新たな出立の日を迎えた。




「それではフリッツ様、ヴィルヘルム様、テオドール様。留守中、国元をよろしくお願いいたします」

「お任せ下さい。陛下も道中、くれぐれも玉体をお労り下さいますよう」


 4頭立ての煌びやかな馬車の脇で、美香は見送りに来たフリッツ、ヴィルヘルム、テオドールらと別れの挨拶を交わす。彼らの背後には大勢の高官、騎士達が並び、その外側には沢山の市民達が押し寄せ、年若い主君に向けて歓呼の声を上げていた。馬車の前後には鎧に身を包んだ騎士達が馬を従えてずらりと並び、厳粛な面持ちで出立の時を待っている。特に馬車の周りは女性騎士で固められ、彼女達の磨き上げられた鎧と馬が太陽の光を浴びて輝く凛とした美しい光景が、美香の背後を彩っていた。


 美香は、国内の巡幸へと赴こうとしていた。期間は3ヶ月。東部から北部にかけて各地を巡り、ハーデンブルグで折り返してヴェルツブルグへと戻る。従う者は、アデーレ、レティシア、カルラ、マグダレーナ。それを、オズワルド、ゲルダ、ヘルムート、ニコラウスらが、近衛から選抜した3個大隊を引き連れ、守護する。未だ西部一帯の主権回復が完了せず、コルネリウスが帰還していない首都近郊の防備は、ユリウスと、故ギュンターの息子ライオネルが担った。


 元々美香の支持基盤はハーデンブルグを代表する北部に集中しており、相対的に西部、南部、東部の掌握が完了してない。そういう意味で言えば、巡幸先は南部と東部にすべきなのだが、この時期、美香はどうしてもハーデンブルグに向かう必要があった。


 ハヌマーンと約束した「1年」まで、あと2ヶ月に迫っていた。




 フリッツ達との挨拶を終えた美香は、続けて脇に並ぶ枢機卿へと顔を向ける。


「猊下、それではカラディナ、セント=ヌーヴェルの皆様に、よろしくお伝え下さい」

「お任せ下さい、陛下。両国の枢機卿とも連携し、新時代に備えるべく、ロザリア教会は陛下に最大限協力させていただきます」


「母」に後事を託された枢機卿は歓びを露わにし、にこやかな表情で美香に深く頭を下げた。


 ハヌマーンの襲撃によってフランチェスコが死亡して以降、教皇の地位は空位が続いている。この異常事態の解決と素質喪失後の世界を迎えるにあたっての協議のため、この後、三人の枢機卿のうち二人が西へ向かう予定になっていた。聖王国だけではなく、中原全体が混乱なく新時代を迎えるためには、教会の全面的な協力が必要不可欠である。彼らの双肩に、中原の未来が懸かっていた。


 一連の挨拶を終えた美香はアデーレに誘われ、馬車へと乗り込む。ヘルムートが出立の声を上げる。


「近衛隊、出立せよ!」


 高官達が一礼し、周囲の市民達が歓呼の声を上げる中、美香の巡幸が開始された。




 ***


 美香達を乗せた馬車とその前後を厳重に固めた近衛隊は、ヴェルツブルグの南東門から出立すると、大きく弧を描く様に東部各地をゆっくりと巡っていく。途中、沿道には大勢の民が詰めかけ、壮麗な騎馬団に守られ煌びやかな馬車に乗った美香に向け、歓呼の声を上げていた。美香も大きく開け放たれた馬車の窓から人々に向かって笑顔を見せ、手を振って応える。集落に入ると沿道に並ぶ人々の列は途切れることなく続いていたが、美香は疲れを見せる事なく、にこやかに手を振り続けていた。


 一行がその地域を治める貴族の住む街に赴くと、貴族達は美香を歓迎し、自分の館に招いて盛大な宴を開き、もてなした。美香は貴族達の歓迎に感謝の意を表し、彼らとの会話に花を咲かせ、料理に舌鼓を打った。美香はこの世界の作法に未だ不慣れで、その振る舞いは決して洗練されたものではなかったが、その分滲み出る表情は裏表のない心の籠ったものであり、貴族達は美香の素直な感謝の言葉を受け、胸に温かさを覚えた。美香はアデーレとレティシアに補佐されて貴族達との交流を深め、時折入って来る陳情にはアデーレがそつなく対処し、彼らとの良好な関係を作り上げていった。


 そうして国内東部を巡った一行はラディナ湖東岸を南北に走る北街道へと入り、翌ロザリアの第1月、ミュンヒハウゼン伯爵領都へと到着した。




「陛下、遠路はるばる玉体をお運びいただき、感謝の念に堪えません。この場に居ない夫テオドールに代わり、厚く御礼申し上げます」


 美香が馬車から降りると、出迎えに並んでいた面々から一人の女性が進み出て、ドレスの端を指で摘まみ優雅に一礼する。美香も同じくドレスの端を摘まみ、返礼した。


「奥方様、わざわざのお出迎え、誠にありがとうございます。こちらこそ、テオドール様、並びにご子息のヘルムート様には多大なご支援をいただき、感謝の言葉もございません。これからもこの国のため、民のため、力をお貸し下さい」

「勿体ないお言葉。陛下から過分な御言葉をいただき、そこに居りますヘルムートもさぞ感激している事でしょう。ミュンヒハウゼン家は陛下の股肱の臣として、これからも変わらぬ忠誠を捧げさせていただきます」

「は、義母上ははうえ…」


 目の前で繰り広げられる会釈合戦に、美香の背後に佇むヘルムートが頬を幾分赤くして不貞腐れる。それを見たテオドールの妻は、コロコロとした可愛らしい笑顔を浮かべた。


 テオドールの妻は小柄な女性で、夫が甕なら妻はさながらリスだった。彼女の笑顔は屈託がなく、40代とは思えない幼さを湛えている。流石、あの適当な男の妻を長年務めるだけあって、物事への動じなさ、と言うより暖簾に腕押しっぷりは、一線級らしい。内心で感心する美香の前で、彼女はヘルムートへと声を掛けた。


「ヘルムート、最近は、どう?」

「陛下の信任を得て近衛をお預かりし、非常に充実しております」


 義母に尋ねられたヘルムートは、身を正し、幾分上気しながら堅苦しく答える。オズワルドとゲルダが身辺警護のために美香の傍を離れない事もあり、ヘルムートが近衛騎士団長に就任していた。


 ヘルムートの言葉を聞いた彼女は、コロコロとした笑顔を絶やさず、掌を上下に振って答えを促す。


「違うわよ、ヘルムート。最近、陛下とは上手くいっているの?」

「は、義母上!?」

「え、ちょっ!?」


 テオドールの妻の爆弾発言を聞き、ヘルムートと美香が過去の経緯を思い出して、一斉に真っ赤になる。彼女は笑いながら、無遠慮に踏み込んだ。


「ヘルムート、私、早く孫の顔が見たいのよ。結婚式とかそんなの後でも良いから、早く連れて来て欲しいわ」

「は、義母上!そ、その話は、また今度に…!」

「え、えっと、奥方様、実はその…」


 屈託のない彼女の言葉に古傷を抉られたヘルムートが顔を赤らめながら胸を押さえ、この場で彼女の誤解を解くべきか、美香が赤面したまましどろもどろになる。その光景を背後から眺めていたアデーレが笑いを堪える傍ら、レティシアが半眼で薄笑いを浮かべ、オズワルドの脇腹を肘で小突いた。


「オズワルド、奥方様に真実を伝えてあげたら?」

「…」




 テオドールの妻の騒々しい歓待を受けた一行は、翌日ミュンヒハウゼン伯爵領都を出発して、北街道を北上する。数日の後、ラディナ湖の北東で三叉路に出ると、北東へ伸びる道へと進み、やがてライツハウゼンへと到着した。一行がアンスバッハ伯爵の館に到着すると、年若い一人の男性が進み出て、美香の前に片膝をつく。


「陛下、このライツハウゼンに玉体をお運びいただき、篤く御礼申し上げます。この街が陛下の手によって魔物から救われました事を、市民は片時も忘れておりません。この度の陛下のご来臨、アンスバッハ家は街をあげて歓迎いたします」


 ヴィルヘルムに代わって新当主となったエミールは、美香の手を取ると恭しく手の甲に口づけをする。美香は、以前にも増して中性的な美しさを漂わせるエミールの唇の感触に、思わず熱を覚えた。


 何か、エミール様、美しさに磨きがかかってない?


 贔屓目ながら、オズワルドも目鼻立ちが整っていると美香は思っているが、彼の場合は戦馬の様な精悍さが際立っている。それに比べエミールは女性にも似た秀麗さに溢れており、美香は内心で、エミールがこの国で一番の美男子であろうと評価していた。


「陛下、如何なされましたか?」

「あ、いえ、ご無沙汰しております、エミール様。以前にも増して、う…ご立派な御姿に成られ、御父君のヴィルヘルム様も、さぞお喜びでございましょう」


 思わず見惚れていた美香は、エミールの言葉に我に返ると慌てて口を開き、勢い余って形容詞を誤りかける。視線を逸らし、何とか瀬戸際で踏み止まって無難な返答に纏め上げた美香の余裕のない顔を、エミールは眩しそうに見つめた。


「陛下には先代を重用いただき感謝の言葉もございませぬが、あまりの厚遇に些か困った事が起きまして…」

「え?何かご迷惑でも?」


 館に向かって並んで歩くエミールの口から飛び出した意外な言葉に、美香が目を瞬かせる。エミールは長いまつげを湛えた目を細め、白い歯を煌めかせた。


「ヴェルツブルグの執事より、先代の頬が緩みっぱなしで困ると、苦言が来ております。陛下、先代を父と呼びならわされるのは当家にとってこの上ない栄誉でございますが、あまり甘やかされませぬよう」


 エミール様、光ってる!光ってる!


「あ、えっと、ヴィルヘルム様には本当に良くしていただきまして、娘が欲しかったとお喜びになられておりましたもので、わたくしもついお言葉に甘えてしまい…」


 至近で輝くエミールの笑顔に、美香は思わず額に掌を翳し、しどろもどろで答える。そして、その場を取り繕おうと、話を逸らした。


「ヴィルヘルム様は、エミール様が妻を娶られ、その方から義父ちちと呼ばれる日を待ち望んでいるご様子。エミール様ほどの御方であれば、良縁には事欠きませんでしょうに」

「お蔭様で多数お話をいただいてはおりますが、今のところ、その予定はございません」


 美香の言葉にエミールは前を向いて答えていたが、そこで彼は美香の目を見て、意味ありげに微笑む。


「…ですが、今、陛下に一つ頷いていただけるのであれば、この場ですぐにでも式典を挙げる所存でございます。陛下に改めて『父』と呼ばれるとなれば、先代の喜びもひとしおでしょう」




「…え?」


 思わず立ち止まってしまった美香に、エミールは半歩進み出たところで振り返って秀麗な笑顔を向けると、そのまま前を向いて姿勢を正す。そして、左腕を上げて肘を曲げ、美香の前に突き出した。美香は目の前に差し出された三角形の輪と、肩越しに微笑むエミールのいわくありげな表情を交互に見て、目を白黒させる。


 え、えっと、これ、求婚とエスコート、どっちの意味で差し出されているの?


「陛下、後がつかえておりますわよ?早くご決断を」


 後ろに続くレティシアが薄笑いを浮かべて催促する中、美香は目の前に差し出されたエミールの肘を見つめたまま、顔を真っ赤にして硬直していた。

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