253:跡継ぎ達

「ん…」


 カーテンの隙間から射し込んだ朝の光がレティシアの微睡みを追い払い、彼女はその眩しさに思わず顔を背けてしまう。顔を背けた先には艶やかな黒い髪の女性が身を横たえ、レティシアにしがみ付くようにして静かに寝息を立てていた。広いベッドの上には彼女と黒髪の女性の二人しかおらず、昨晩一緒に居たはずの大柄な男はすでに部屋を出て、姿が見えない。


 レティシアは、自分の腕に直に伝わる女性の柔肌を意識しながら反対側の腕を伸ばし、女性の髪を指で梳いて、指の間を流れる黒い絹糸を眺める。レティシアが体を動かした事で女性の顔に朝日が射し、女性は顔を顰め、むずかるような声を上げた。


「…んんん?」

「…あ、ごめんなさい、ミカ。目が覚めちゃった?」


 頭を下げるレティシアに対し、女性は呆けた様な顔を向けるが、やがて瞳の焦点が合うと柔らかな笑みを浮かべる。


「ううん、気にしないで。おはよう、レティシア」

「おはよう、ミカ」


 朝の挨拶を交わした二人はそのまま顔を寄せ、少しの間唇を重ねる。やがてレティシアは名残惜しそうな表情で唇を離すと、未練を断ち切るかのように布団を捲り、身を起こした。


「さ、ミカ。そろそろ起きないと」

「うん」


 朝日を背に受け輝くレティシアの裸体を、美香はベッドにうつ伏せのまま眩しそうに見上げていたが、その姿を見たレティシアがある事に気づき、眉をひそめる。彼女は美香の背中に指を伸ばし、そのまま下に向けて指を這わせながら呟いた。


「…跡が残っちゃっているわね。後で、オズワルドに注意しておかないと」


 レティシアは緩やかな丘の頂上で指を止めると、そこに薄紅色の痣を認めて顔をしかめる。だが、そんな彼女の言葉を、美香が否定した。


「そんな事、しないで。悪いのは、私だから…」

「ミカ…」


 美香の否定に、レティシアは胸が締め付けられる。ヴェルツブルグに帰還して半月が経過したが、リヒャルトの呪縛は、未だ消える気配を見せない。


「聖母」として演じなければならない理想と、リヒャルトを死に追いやった現実。この、相容れない二つを抱え込むために、美香は己を二つに裂かなければならなかった。理想をより輝かしく演じるために、切り離した現実汚れ。でも、それこそが誰しもが持つ、他人に見せられない本当の自分。レティシアは、身を起こした美香の背中に腕を回し、頬を擦り合わせながら囁いた。


「…分かったわ、ミカ。これからも私がずっと、あなたの謝罪を見届けてあげる…」




 ***


「お早うございます、お父さん、お母さん」

「ああ、お早う、ミカ」

「お早う、ミカさん」


 身支度を整えた美香とレティシアの二人がオズワルドとともに食堂へと入ると、先に席に着いていたフリッツ、アデーレの二人が挨拶を返した。


「お母さん、今日の予定は何でしょうか?」


 美香は千切ったパンを口に放り込みながら、アデーレに尋ねる。聖王国の政治をフリッツ達に一任している美香は会議に出席する事がなく、朝夕の食事が情報交換の場となっていた。美香の質問に、アデーレが答える。


「今日は、午後からの北部復興地域の視察だけだったのだけど…」


 そう答えたアデーレは、フリッツへと目を向ける。アデーレの視線に呼応して、フリッツが後を引き継いだ。


「ミカ、午前中に急遽謁見を設けさせてもらった。この後、庁舎まで来てもらえるか?」

「ええ、それは構いませんが、どなたとの面会ですか?」

「クルーグハルト侯爵と、キルヒナー子爵の跡継ぎだ」

「あぁ、なるほど…」


 フリッツの答えを聞き、美香が曖昧に頷く。


 ギュンター・フォン・クルーグハルト、バルトルト・フォン・キルヒナー。どちらもリヒャルトにつき従って西誅へと赴き、そのまま聖王国と敵対した貴族である。美香の擁立に当たり、ヴィルヘルムはこの両家に対して連絡を取っておらず、両家も賛否を明らかにしていなかった。しかしついに雌雄は決し、両家は敗者となった。フリッツが言葉を続ける。


「両家への沙汰は、君から直接言った方が良いだろう。すまないが、付き合ってくれ」

「はい、分かりました、お父さん」




 ***


 ライオネル・フォン・クルーグハルトとアーダルベルト・フォン・キルヒナーの二人は、緊張に身を固くしながら広間の中央に佇んでいた。広間は仮庁舎に設えただけあって簡素で飾り気がなく、旧エーデルシュタインであれば、とても王との謁見に臨む様な場所ではない。だが、二人の両脇には、執政官であるフリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアー、副執政官のヴィルヘルム・フォン・アンスバッハをはじめ、聖王国を担う高官がずらりと並び、二人の一挙一動を注視している。その多数の視線の前に、22歳になったばかりの、これまで兄の陰に隠れてほとんど宮中儀式に参加した事もなかったアーダルベルトは、顔が蒼白になり引き攣った表情を浮かべていた。


「陛下、ご来臨」


 静まり返った広間に近侍の声が聞こえ、ライオネルとアーダルベルトの二人は急いで跪き、首を垂れる。下を向いたまま緊張と戦うアーダルベルトの耳に、固い石段を上る複数の靴の音が聞こえて来た。


 やがて靴の音が止み、再び静寂が訪れる。二人は床に跪いて首を垂れたまま、忍び寄る緊張と静寂に抗っていたが、その二人に前方の壇上から女性の声が降り注いだ。


「ライオネル様、アーダルベルト様、頭をお上げ下さい」

「「はっ」」


 アーダルベルトは自分達の名前に敬称が付いている事に驚き、思わず緊張を忘れて頭を上げる。彼の視線の先には、気品溢れる中年の女性を従えた、黒髪の若い女性が佇んでいた。


 先ほどの声は、後ろの女性が発した言葉だろうか?


 そう内心で推察するアーダルベルトの前で黒髪の女性が口を開き、先ほどと同じ透き通った声が彼の耳に流れ込んで来る。


「ライオネル様、アーダルベルト様、お初にお目にかかります。古城美香と申します。本日、お二方とお会いする機会を得られました事、大変嬉しく存じます」


 今や全ての国民から「聖母」と敬われ、この国の頂点に立つ女性から丁寧な言葉をかけられた二人は、大いに慌てる。アーダルベルトより年嵩で参内の経験もあるライオネルがいち早く立ち直り、女性に答えた。


「勿体ないお言葉、このライオネル・フォン・クルーグハルト、陛下より御言葉を賜り、恐悦至極に存じます」


 ライオネルはそう答えると、跪いたまま壇上の女性に対し、釈明を続ける。


「我が父ギュンターは、先の王太子リヒャルトに従って西誅へと赴き、陛下と袂を分かちました。旧王家の命がそもそもの発端とは言え、陛下の御心を理解しようとせず、畏れ多くも陛下の前に立ちはだかりました事は、息子の私から見ても浅慮としか思えない、妄動でございました。このライオネル、クルーグハルト家当主として、陛下に対する先代の無礼をお詫び申し上げますとともに、陛下に忠誠を誓い、一族を挙げてその罪を償って参ります事、此処に宣誓いたします!」


 そう言葉を終えたライオネルは、再び女性に向かって深々と頭を下げ、そのまま動かなくなる。人々の注目が自分へと移った事に気づいたアーダルベルトは心臓を飛び上がらせ、一族の将来の重圧から歯を鳴らしながら奏上した。


「わ、わ、私アーダルベルトは、我が兄バルトルトが陛下の威光を理解しようとせず、陛下に刃を向けた事を深くお詫び申し上げますとともに、キルヒナー家はその罪を償い、陛下に忠誠を誓います事、此処に宣誓いたします!ですから、ど、どうか今一度、御慈悲のほどを…」


 アーダルベルトの斟酌しんしゃくの願いは途中で力尽きて静寂の中に掻き消え、彼は両家に対する判決の言葉から逃げるかのように顔を伏せ、力一杯目を瞑った。




 次第に圧力と冷たさを増す静寂と空気の中で、二人は己の鼓動だけを頼りに必死に意識を保ちながら、跪いている。やがて、階段を降りる靴の音ともに、女性の声が聞こえて来た。


「ライオネル様、アーダルベルト様、どうかお立ち下さい」

「「はっ!」」


 女性に言葉に、二人は弾かれるように立ち上がる。二人の視界に黒髪の女性の姿が浮かび上がり、彼らは女性が少女と見間違うほど小柄である事に驚く。女性は、表情が顔に出てしまった二人を見上げながら、眩い笑顔を浮かべた。


「クルーグハルト、キルヒナー、両家の旧王家に対する忠誠心は一点の曇りもなく、先代の行為はその忠義の顕れであり、称賛に値するものでございます。旧王家の滅亡という国難の前に不幸にもすれ違ってしまいましたが、私は、先代が最後まで忠義を貫かれたのは臣下として当然の事であり、何の落度もないと考えております。私は両家に対して一切咎める事なく家督を安堵し、お二方を正統な後継者として承認します」

「…陛下…!」


 女性の言葉から全くお咎めなしである事を知ったライオネルが思わず顔を綻ばせる中、女性が彼の目を見て訴えかけてくる。


「ライオネル様、あなたの御父君は中原で知らぬ者の居ない、名だたる勇将でございました。この国は最大の危機を脱しましたが、未だ復興の途上、人材に事欠いております。是非、御父君譲りの雄才を、この国の民のためにお役立ていただけませんでしょうか」

「私如きでよければ、喜んで。このライオネル・フォン・クルーグハルト、父ギュンターの分も合わせ、非才の身を挙げて陛下に御恩返しさせていただきます」


 そう答えたライオネルは再び跪き、女性の手を取ると恭しく甲に唇を添えた。




 目の前で繰り広げられた光景をアーダルベルトは半ば呆然として眺めていたが、女性が目の前に来ると鼓動が跳ね上がり、彼は思わず背筋を伸ばしてしまう。女性は彼を見上げながら柔らかく微笑み、彼はその美しさに惹き込まれ、頬を染めた。


「へ、陛下…」

「アーダルベルト様、あなたの兄君は知勇と忠節に溢れる、高潔な御方でございました。アーダルベルト様におきましても、キルヒナー家の男子に相応しい、仁義に篤い方だと伺っております。是非その御力を、私と共に、国のため民のため、お貸し下さい」

「は、はい、陛下!」


 胸元で手を組み、彼を見上げる女性の瞳に中てられ、アーダルベルトは若い雄の情熱に流されるままに口走る。


「このアーダルベルト・フォン・キルヒナー!我が身命は、すでに陛下のもの。獅子奮迅の働きをもって期待に応え、必ずや陛下の傍らに立つに相応しい男となりましょう!」

「え?ア、アーダルベルト様?」


 そしてアーダルベルトは再び跪くと、彼の勢いに思わず仰け反る女性の手を取り、湧き上がった想いを唇に載せて、周囲から寄せられる生暖かい視線に構う事なく女性の手の甲に押し付けた。




 アデーレは、目の前に跪く青年から熱烈な接吻を手の甲に受けて戸惑う娘の後姿に、笑いを堪える。


 まったく。人を惹き付けてやまないのは君主として得難い才能ではあるけれども、こうも老若男女構わず見境なく口説き落としてしまうのは、悪女以外の何者でもないわね。オズワルドも頭痛の種に事欠かないでしょうに。


 そう内心で毒づくアデーレの視界には、仏頂面を浮かべるオズワルドの姿が映し出されていた。




 ***


「オズワルドさん、お願いだからヘソ曲げないでよ。私は別に、そんなつもりで言ったわけじゃないんだから」

「私はヘソを曲げてなどいない」


 謁見を終えた一行はディークマイアーの館へと戻り、紅茶を片手に寛ぎのひとときを過ごしていたが、オズワルドは不貞腐れた表情を浮かべたままティーカップから口を離そうとせず、傍らに腰を下ろした美香が必死に宥めている。二人のやり取りを眺めていたレティシアが、ティーカップを手にしたまま、美香を茶化した。


「アーダルベルト様もお可哀想に。舌の根も乾かぬうちに他の男に言い寄る美香の姿を見たら、失意のあまり病に倒れてしまうかもね」

「レーティーシーアー?」


 美香の剣呑な視線を気にせず、レティシアは澄ました表情でティーカップを傾ける。すると部屋の扉が開き、秘書官を引き連れたアデーレが入ってきた。


「ミカさん、午後の北部復興地域の視察は、中止よ。これから大聖堂へと向かうから、準備してくれるかしら?」

「え?突然どうしたんですか、お母さん?」


 突然の予定変更に驚く美香に向かって、アデーレは緊張の面持ちで答える。




「ロザリア様が、突然お目覚めになられたの。ミカさんの事を呼んでいるそうよ」

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