252:呪縛
闇の帳が全てを覆い尽くし、四隅に掲げられた篝火が必死に抵抗を続ける中、二人の男が陣幕の中に入ってきた。前を歩いていた男は、後ろ手に縛られた姿で立ち止まると顔を上げ、目の前に立ちはだかる壮年の男の名を呼んだ。
「…コルネリウス様」
「久しぶりだな、バルトルト」
コルネリウスは先ほどとは異なり、親しみのある表情を浮かべて、かつての教え子の姿を眺めている。彼は視線を外し、バルトルトの背後に立つ男に命じた。
「ユリウス、縄を外してやれ」
「はっ」
コルネリウスの言葉を聞いたユリウスがバルトルトの後ろに近づき、両手を拘束している縄を外す。体の自由を取り戻したバルトルトが跡の残る手首を擦っていると、コルネリウスが話しかけて来た。
「…暫く見ないうちに、見違えるほど立派になったな」
「…いえ」
コルネリウスに褒められたバルトルトは
「私は、何の能もない未熟者。主君に勝利を捧げるどころか、お救いする事も叶わなかった…」
「…」
バルトルトは足元に広がる、どす黒い染みを眺めながら呟く。コルネリウスはその姿を沈痛な面持ちで眺めていたが、やがて意を決して、口を開いた。
「…バルトルト、私と共に、この国を助けてくれないか?」
「…」
地面から目を離し、顔を上げたバルトルトに向けて、コルネリウスが説得を続ける。
「ハヌマーンの急襲によって王城が
「…」
コルネリウスの熱の籠もった視線を、バルトルトは真っ向から受け止めたまま、沈黙を保っている。やがて彼はコルネリウスから視線を外すと、俯きがちに微笑んだ。
「…よく、わかります。ユリウスはおろか、コルネリウス様まで心酔させるくらいですから…」
「…」
バルトルトの言葉を聞いたコルネリウスは、覚悟を決める。そのコルネリウスの視線の先で、バルトルトが顔を上げ、答えを出した。
「――― ですが、御使い様には、すでにあなた方二人が居る。殿下にも、一人くらい居ても、良いではありませんか」
「…そうか」
バルトルトの顔に浮かぶ穏やかな笑みを見て、コルネリウスは腰に下げた剣を抜く。そして両手で柄を握ると、バルトルトに向けた剣の切っ先を、斜めに傾けた。その剣の揺れを眺めていたバルトルトが、穏やかな表情のまま、後を託す。
「…コルネリウス様。御使い様を、この国を、よろしくお願いします」
「ああ、任せておけ。バルトルト、殿下を頼んだぞ」
「はい」
剣の先が翻り、一瞬で左から右へと移動した。
***
戦いから2日後の、ガリエルの第4月5日。コルネリウス率いる聖王国軍は、戦場を後にした。
聖王国軍は3日かけて街道を東進しオストラへと戻ると、そこで軍を分かち、ユリウス・近衛連合軍12,000がヴェルツブルグへと向かう。コルネリウスとホルストの二人は14,000の兵と共にオストラに留まり、オストラの復興並びに西部における主権回復の総仕上げに入った。当初美香もオストラに留まり、残りの罪人達との面会を続ける意向を示していたが、美香の精神的な変調に気づいていた周囲の説得を受け入れ、残余の面会をコルネリウスに託し、ヴェルツブルグへと引き返した。
ユリウスが率いる一行は、通常の旅程よりも長い20日間をかけ、ゆっくりとヴェルツブルグへと向かう。途中、主要な都市で美香は馬車を降り、市民達の歓呼の声に手を振って応え、領主達の歓待を受ける毎日を送る。その間、美香は笑顔を絶やさなかったが、純真で煌びやかな笑顔は鳴りを潜め、力強さに欠けた儚げな雰囲気が漂っていた。
***
広い部屋のそこかしこに掲げられた灯りが消され、僅かにベッドサイドに置かれた燭台の炎と窓から射し込む月の光だけが室内を淡く照らす中、オズワルドはベッドに腰を下ろし、俯いていた。その精悍な顔は苦悩に覆われ、彼は下を向いて唇を噛みながら、視界の隅に見える二対の素足に向かって懇願する。
「…頼む、ミカ、もう止めてくれ…。君のせいじゃない、君のせいじゃないんだ!」
「…オズワルド」
彼の悲痛な願いは聞き入れられず、感情の籠もらない平板な声で名を呼ばれた彼は怯え、息を乱しながら顔を上げる。
彼の目の前には、少女と見紛う二人の女が、ネグリジェ姿で佇んでいた。金色の髪の女は己の感情を殺し、まるで彫刻の様な目でオズワルドの顔を見据えている。そして、彼女と抱き合うように黒い髪の女が立ち、オズワルドに背中を向け、彼に振り返って縋るような目を向けていた。
月明かりを浴びて妖しく光る二人の姿にオズワルドは魅せられ、動けなくなる。やがて、黒髪の女が振り返ったまま、オズワルドに弱々しい声を上げた。
「オズワルドさん、お願い…」
黒髪の女の言葉とともに、金色の女の手が黒髪の女の腰に伸び、ネグリジェを掴む。そして、ネグリジェがゆっくりと引き上げられ ―――
――― オズワルドの目の前に、背中を向けた女の、何も身に着けていない下半身が、露わになった。
「…ミ…カ…」
彼は怯えた表情のまま、月明かりの下で白く浮かび上がる、柔らかな曲線に目を奪われる。その背徳的な光景に彼の目は釘付けとなり、口を開いたまま呼吸と鼓動が激しさを増す中、金色の女の冷たい言葉が彼の耳に流れ込んだ。
「…オズワルド、陛下の命令よ。やりなさい」
女の言葉に操られたかのように、オズワルドの右腕が震えながらゆっくりと振り上げられる。そして、―――
――― 勢い良く振り下ろされた逞しい男の掌が女の尻に叩きつけられ、部屋の中に乾いた音が鳴り響いた。
「あぅ!」
乾いた音とともに、黒髪の女が仰け反り、悲鳴が上がる。だが、オズワルドは再び腕を振り上げ、二度三度と女の尻を平手打った。黒髪の女は痛みに身を捩り、泣きながら懺悔の言葉を繰り返す。
「…ごめんなさい!…ひぅ!ごめんなさい…ごめんなさい…!」
いつしか金色の女が悲しそうに顔を歪め、自らの胸元に女を抱え込んでその艶やかな黒い髪を優しく撫でる。その二人の姿を眺めながらオズワルドは目に涙を浮かべ、荒い息をついて繰り返し腕を振り上げ、部屋を行き交う悲鳴の中で女の尻を叩き続けた。
「ひぃ!ご、ごめ…っ…やぁっ…!」
乾いた音が二十を数えた頃、オズワルドは力尽きた様に腕を下ろす。彼の目の前で真っ赤に腫れた尻が震え、彼の耳に女の泣きじゃくる声が流れ込んだ。
「…えぅ…ひぅ…ぐす…えぐ…ぅ…」
「良い子ね、ミカ。よく我慢したね…偉いわ…」
金色の女が泣きじゃくる女を優しくあやす姿を、オズワルドは泣きそうな表情を浮かべ、呆然と見上げる。オズワルドの焦点の合わない視線の先で黒髪の女が振り返り、ネグリジェをたくし上げて彼の膝の上に乗ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま覆い被さって来た。
「…ごめんなさい!私を赦して下さい!ごめんなさい!」
「…ミカ!」
オズワルドは泣き出したい衝動を黒髪の女へとぶつけ、三人は月の光を浴びた燭台の炎の様に妖しく揺らめき、薄暗い部屋の中で激しく入り混じっていった。
***
ガリエルの第4月30日。
ヴェルツブルグの至る所で絶え間ない歓呼の声が上がる中、馬車を降りた美香の前にフリッツが足早に進み出て、跪いた。
「陛下、5ヶ月にも及ぶ御親征を終えられ、以前と変わりない御姿に拝謁できました事、臣下を代表し、心よりお慶び申し上げます」
フリッツの、公式の場を念頭に置いた堅苦しい挨拶を前にして、美香は笑みを浮かべ、返答する。
「ただいま戻りました、フリッツ様。長い間ヴェルツブルグを留守にして、申し訳ございません。留守中、国元に何か問題などございませんでしたか?」
「陛下の御威光のおかげをもちまして、何一つ憂いなどなく。
「ありがとうございます。これも全て、フリッツ様をはじめとする皆様の尽力の賜物でございます」
美香は、目前で跪く一同に感謝を籠め深々と頭を下げると、周囲を見渡した。
5ヶ月近い空白期間を置いて戻って来たヴェルツブルグは、大きく様変わりしていた。ハヌマーンの攻撃によって廃墟と化した北部は瓦礫が取り除かれ、至る所で槌を叩く音が鳴り響いている。木材や石材を運ぶ荷車が行き交い、人々は袖を捲って生き生きと荷を運び、汗を流している。
そして未開発地の広がっていた南部には木造や石造りの大きな建物が乱立し、まるで早春の草原のような、無秩序な活況の様子を呈していた。周囲を物珍し気に見回す美香の様子に気づいたフリッツが、立ち上がりながら答えた。
「仮庁舎です、陛下。雨ざらしの中で書類作業をするわけにも、参りませぬから。優雅さに欠けますが、いずれ整備いたしますので、今しばらくご辛抱下さい」
「とんでもございません、フリッツ様。お心遣い、大変嬉しく存じます」
美香はフリッツに頭を下げ、ついでに空を指差しながら、もう一つ気づいた疑問を口にする。
「それと、あの煙は一体何でしょうか?」
美香が指差した先には、濛々と黒い煙が立ち昇っている。それも、煙の数は1本や2本ではない。ヴェルツブルグのあちこちに、数十本、立ち昇っている。空を見上げたまま周囲を見渡している美香の許にヴィルヘルムが歩み寄り、微笑んだ。
「これは皆、陛下からの賜物です」
「え?
心当たりのない美香が小首を傾げながら右腕を差し出すと、ヴィルヘルムはその腕を取って手の甲に口づけをしながら、答える。
「溶鉱炉ですよ」
「…溶鉱炉?」
目を瞬かせる美香に、ヴィルヘルムが顔を上げ、破顔した。
「『槍』でございますよ。ヴェルツブルグの至る所に転がる、『ロザリアの槍』。アレは、非常に良質な鋼です。あの巨体をどう切り崩すか散々悩みましたが、ようやく目途が立ちました。ヴェルツブルグは、鉄鋼の街として生まれ変わったのです」
「あー…」
合点のいった美香が素に戻り、口に手を当ててやっちまった感溢れる表情を見せると、フリッツが含み笑いを浮かべた。
柊也がヴェルツブルグでばら撒いた『槍』の数は、大小合わせて300本以上、重量に換算して5,000トンにも上る。21世紀の生産量と比べれば微々たる量だが、中世相当のこの世界では、十分な埋蔵量と言えよう。フリッツが緩んだ頬を引き締め、美香を仮庁舎へと
「何はともあれ、陛下、まずはお入り下さい。見違えたヴェルツブルグを、ご案内させていただきます」
***
「…え?レティシア、どういう事?もう一度、言ってくれる?」
美香達がヴェルツブルグへと帰還したその日の夜、アデーレはテーブルを挟んで向かいに座る娘の言葉に、耳を疑う。アデーレの隣に座るフリッツも険しい表情を浮かべる中、娘が体内に渦巻く感情を氷で固めた様な、冷え切った言葉を繰り返した。
「ミカは今、リヒャルト殿下の呪縛に囚われています。彼女を救うためには、彼女に罰を与えるしか、ありません」
「…レティシア、わかるように話して!」
アデーレの視線と追及の言葉に、鋭い棘が混じる。だが、母親の棘は娘の氷塊を貫けず、娘は父母に対し氷柱の如き冷たい視線を向け、静かに語り続けた。
「リヒャルト殿下は死の直前、全ての元凶がミカにあると断じ、彼女を責めました。彼女はその言葉を信じ、殿下が亡くなったのは自分のせいであると思い込み、自らを責め続けています。このままでは、彼女は罪の意識に耐え切れず、いずれ自らの命を絶つかも知れません」
「そんな事っ!あの
娘の言葉に耐え切れず、アデーレは思わず立ち上がって娘を見下ろし、拳を震わせながら反論する。
「あの
「ですが、何よりもその彼女がその言葉を信じ、贖罪を欲している」
アデーレの熱波にも似た反論は、娘の酷薄の氷塊に吸い取られ、部屋の中に冷たい空気だけが漂う。
「彼女は今、何よりも罰を欲している。衆目の前で自分の非を悔い、過ちを詫び、罪を償って身を濯ぐ。それで初めて、彼女は呪縛から逃れられるのです」
「――― だけど、今この国には、誰も彼女を責め、咎める者がいない。だから、彼女はいつまでも身を濯げず、汚れたまま苦しみ続けている…」
「…」
「…」
フリッツとアデーレは、向かいに座る娘の、氷塊に走る亀裂と軋みに言葉を失い、呆然と眺める。二人の前で娘が俯き、彼女の冷え切った表情が金色の髪の陰に隠れた。
「…私は、彼女を愛している」
娘が顔を伏せたまま、答える。
「…私は、彼女に全てを捧げている。身も、心も、命も、彼女が望むのであれば、何でも捧げる。…その彼女が罰を望んでいるのですもの、私は彼女の望むままに、罰を捧げるわ…」
そう答えた娘は、顔を伏せたまま席を立ち、二人に背を向けて扉へと向かう。
「…もう、行きます。そろそろあの娘に、罰を与える時間だから…」
「…レ、ティシア…」
「…お父様、お母様、お休みなさい…」
アデーレの呼び掛けに、娘は背中を向けたまま答えると、そのまま部屋を出て行ってしまう。娘との間に立ちはだかった重厚な扉を前にして、二人は為す術もなく立ち竦んでいた。
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