250:忘恩の徒(1)

 日が傾き、周囲の景色が次第に橙へと染まろうとする頃、一人の男が複数の騎士に引き立てられ、荒野の中を歩いていた。周囲の兵士達は、死亡した敵軍の兵士達の埋葬やその日の宿営の準備に勤しんでいたが、引き立てられた男の姿を認めると手を止め、感情を押し殺したような面持ちで通り過ぎるのを眺める。兵士達にとって男は良く見知った相手であり、かつて繁栄を極めた男の凋落した姿を見て、その男の時代が終わりを迎えようとしている事を、まざまざと感じ取っていた。


 男は周囲から押し寄せる、悪意も敵意も感じられない、だが明らかに自分の終わりを告げる視線に耐え切れず、引き立てる騎士に逆らい後ろ手に縛られたままの姿で、周囲に向かって声を張り上げる。


「お、お前達!何故、私を助けない!?私は、栄えあるエーデルシュタイン王国の王太子、リヒャルトだぞ!?その私が裏切り者達の手に掛かり、囚人の様に歩かされている姿を見て、貴様らは何も感じないのか!?貴様らは、血も涙もないのか!?」

「「「…」」」


 男の慟哭にも似た叫びを前にして、しかし、兵士達は何も語らない。その顔には男に対する殺意も嘲笑も浮かんでおらず、ただ厳粛な式典がもうすぐ終わりを迎えようとするのを待つかのように、映画が終わってエンドロールが流れているのを眺めているかのように、自分達の心の区切りをつけるために、男の叫ぶ姿を眺めている。男は振り返り、背後を歩く偉丈夫に訴えかけた。


「ホルスト!貴様が軍司令などという地位に就けたのは、一体誰のおかげだと思っている!父王からそれほどまでの栄誉を賜りながら、その息子である私にこの様な仕打ちをして、赦されると思っているのか!?この恥知らずがっ!」

「殿下、お静かに。その様に喚かれても、殿下の品位が下がるだけです。どうか、王族に相応しい態度で臨まれますよう」


 男の怒りを前に、ホルストは無表情に、諭すように答える。男の前を歩く騎士が腰紐を引き、男はホルストを睨み付けながら引き立てられ、兵士達の間を歩かされ続けた。




 ***


 リヒャルトは、絶望する。


 自分がどれほど声を張り上げても、周囲にいる兵士達は誰一人動かない。かつて王太子として謁見した兵士達が、自分の姿を見て歓呼の声を上げていたはずの兵士達が、ここまで追い詰められた自分の姿を見ても誰一人動かず、無表情に眺めている。


 そこには自分に対する敵意も、殺意も、悪意も、一切見当たらなかった。兵士達は誰一人、リヒャルトの事を殺そうとも、侮辱しようとも、囃し立てようともしなかった。だが、その兵士達の眼差しが、リヒャルトにとって恐ろしかった。




 ――― 兵士達の目に映る自分は、すでに生きていない。




 彼らの目の前を歩きながら、これほどまでに声を張り上げ、訴えているのにも関わらず、彼らは誰一人、自分を生きた人間として捉えていなかった。すでに終わったものとして、あるいは終わりが確定しているものとして、その姿を瞼の裏に遺そうと、眺めている。それはまるで、葬儀において棺の蓋が閉まる前の最後の姿を眺めるかのように、全員がリヒャルトの「最期」を受け入れていた。


「止めろっ!そんな目を向けるな!私は、まだ生きている!」


 リヒャルトは彼らの視線に耐え切れず、顔を背けて目を瞑る。これほどまでに確定した未来は、初めてだった。誰も望まず、誰も求めず、にもかかわらず、誰も覆そうとしない。これほどまでに事実と同化した未来を一方的に押し付けられ、リヒャルトはただ一人、受け入れを拒否しようと藻掻き続けた。


「閣下、リヒャルト殿下をお連れしました」

「入れ」


 現実から逃れようと目を瞑っていたリヒャルトの耳にホルストの声が聞こえ、陣幕の捲れる音が続く。リヒャルトは暗黒の中を歩きながら、ホルストに対するいらえに驚愕する。


 …今の声は…まさか!


「殿下、御顔を上げていただきたい」


 投げかけられた言葉に雷が落ちた様な衝撃を受け、リヒャルトは疑念を確かめずにはいられず、恐る恐る目を開く。暗黒だった世界に灼けた光が射し込み、口髭を湛えた逞しい肉体を持つ壮年の男が目の前に立ちはだかった。


「…コ、ルネリウス…」

「殿下、お久しぶりです」


 愕然とした表情を浮かべるリヒャルトに対し、コルネリウスが無表情に答える。彼は臣下の態度を取ろうとせず、俯きがちなリヒャルトを睥睨するように見下ろしていた。そのコルネリウスの目に浮かぶ、先ほどの兵士達と同じ「終わった」光を認め、リヒャルトはその光に抗うかのように尋ねる。


「…コルネリウス…貴様、テオドールと結託したのか?」

「ええ」

「父上はどうした!?クリストフは!?」


 焦燥に彩られたリヒャルトの追及を前に、コルネリウスは感情の籠もらない言葉で、事実だけを告げる。


「ハヌマーンに襲われ、亡くなりました」

「…ならば、何故、この私を呼ばない!?何故、ただ一人、正統な王家の血を引く、この王太子の私を迎え入れない!?私が王位に就かなければ、エーデルシュタインは潰えるのだぞ!?」


 リヒャルトの縋るような問いに、コルネリウスは突き放す様に答えた。




「ええ。エーデルシュタインの血筋は、今日、この私が絶たせていただく」




「…コ…」


 絶句するリヒャルトを前に、コルネリウスは表情を面に表さず、事務的な抑揚で言葉を続ける。


「エーデルシュタイン王家は、王家としての務めを忘れました。ガリエルから中原を守るという責務を放棄し、民を顧みず、醜悪な権力争いにうつつを抜かして自ら国を傾け、挙句の果てに自滅しました。我々は最早、あなたを王族とは認めておりません。我々は、しんに我々を守護したもう御方を王と仰ぎ、その方を盛り立てていく。あなたは、その方の前に立ちはだかる、障害でしかない。故に、この私が、あなたを斬らせていただく」

「…誰だ、王を名乗る不届き者は…」

「…」


 リヒャルトの問いにコルネリウスは答えず、ただ黙って剣の柄に手を伸ばす。それを見たリヒャルトは全てを諦め、最後の望みを口にした。


「…わかった、コルネリウス。お主の覚悟を受けよう。ただ、最後に一つだけ頼みがある」




「――― 此処にミカが居るだろう。ミカに会わせてくれ」




 その言葉を聞いた途端、コルネリウスの体が硬直した。彼はリヒャルトの前で初めて感情を見せ、悔やむような表情を浮かべると剣の柄から手を離し、後ろに控える騎士に声を掛ける。


「…お連れしろ」

「はっ」


 コルネリウスの言葉を受け、一人の騎士が陣幕の外へと出て行く。そのまま陣幕の中には重苦しい空気が漂い、リヒャルトはコルネリウスの変調に驚き、彼が放つ威圧に不吉な予感を覚え、息を乱した。




 陣幕が捲れる音が聞こえ、リヒャルトはコルネリウスの放つ異様な威圧に抗いながら、顔を上げた。


「…ミカ…」


 リヒャルトは目前の光景に衝撃を受け、コルネリウスの威圧を忘れて、食い入るように見つめる。


 目の前に現れたのは、二人の男女だった。男は黒い髪と目を持った精悍な顔立ちで、まるで黒い戦馬を思わせる引き締まった体格を見せつけるようにして、リヒャルトの前に立ちはだかっている。そして男と同じ黒髪黒目を持つ女は、男に身を委ね、逞しい腕の中で横抱きにされていた。女は男の鼓動を楽しむかのように厚い胸板に頭を預け、全てを終えて疲れ切った表情で、リヒャルトに向かって気怠そうな笑みを浮かべる。


「…ご無沙汰しております、リヒャルト様。このような姿をお見せして、申し訳ございません。今、手足が動きませんもので…」

「ミカ…君は…」


 リヒャルトは戦場に似つかわしくない、これまで女が見せた事のない退廃的な姿に、呆然とする。リヒャルトがその衝撃から立ち直れないのを余所に、女は汗で湿った顔に髪の毛を艶めかしく貼り付かせ、まるで男の余韻に浸るかのように力の抜けた表情のまま、言葉を紡ぐ。


「…遠い大草原において西誅軍が敗北されたとお聞きし、リヒャルト様の身を案じておりました。このような形で再会する事になろうとは、露程も思いませんでしたが、無事な御姿を拝見し、嬉しく思います」

「…き、君は…」


 リヒャルトは、自分の境遇を嘲笑うかのような言葉を並べる女に、心を抉られる。


 かつて、女は純真無垢とも言える笑顔を浮かべ、リヒャルトの心に新緑を齎した。リヒャルトは宮中に渦巻く、媚びが溢れる極彩色の色香とは違う、素朴で可憐で清らかさが際立つシロツメクサを思わせる笑顔に惹き込まれ、王太子でありながら市井の娘である女のために心を砕き、力になったはずだった。


 それが、今はどうだろう。


 自分は全てを失い、かつての臣下に裏切られ、命を奪われようとしている。その臣下を従えた女は戦場で男に溺れ、自らの退廃を見せつけるようにリヒャルトの前に痴態を晒し、傷口に塩を塗りたくるようにリヒャルトに語り掛ける。そのあまりの変貌にリヒャルトは愕然としながら、恐る恐る女に尋ねた。


「…ミカ、君は何故、テオドールにくみしたのだ?何故、コルネリウスと手を組んで、私と敵対したのだ!?君が今仕えているのは、一体誰なんだ!?」


 リヒャルトの引き攣った顔の前で、女は男に抱かれたまま、厚い胸板に頬ずりするようにかぶりを振った。




「――― いいえ。私は、どなたにも仕えておりません。私が王家に代わり、この国の頂点に立ちました」




「…なっ…!?」


 言葉の槍に心臓を貫かれ、喘ぐリヒャルトの前で、槍を放った女は保身に走り、悲劇のヒロインを演じる。


「ハヌマーンによって王城が陥ち、陛下とクリストフ殿下が崩御されました。遺された我々は、自らの生活を守るため、一つに纏まるしかなかったのです。私は皆から推戴され、王家に代わる象徴として、止むを得ず頂点に立ちました」

「…」

「リヒャルト様、どうか、皆を悪く思わないで下さい。皆、あの破滅の中を逃げ延び、ヴェルツブルグを守るために必死に知恵を絞って考え抜いた結果、取らざるを得なかった、唯一の手段でした…」

「…」


 女は上辺だけの綺麗ごとを並べ立て、リヒャルトの視線から逃れるように目を逸らし、俯き加減で宣言する。


「私は国の象徴として頂点に立ちましたが、国政には関与せず、皆に委ねております。リヒャルト様の処遇につきましても、コルネリウス様に一任しております。決してリヒャルト様を悪いようには、しない事でしょう」

「…いえ」


 女の発言を聞いたコルネリウスが、一瞬の逡巡を経て、明確に否定する。思わず頭を上げた女の顔を見て、コルネリウスが決然とした表情で、断言した。




「この男は、此処で斬ります」

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