249:崩壊する連合軍

「…ぅ…ぐ…」


 手足の感覚が失われ、小刻みな震えを抑える事ができない。すでに自力で立つ事ができず、背後から両脇に差し込まれた逞しい腕に支えられていなかったら、糸の切れた操り人形のように、無様な姿で地面に崩れ落ちているであろう。


 美香は周囲を窺う余裕もなく、地面を凝視しながら歯を食いしばり、言う事を聞かない手足を叱咤してその場に佇む。慣れる事のできない手足の喪失感と戦う美香の耳元に、精悍な男の声でねぎらいの言葉がかけられた。


「大丈夫だ、ミカ。もう、『槍』を下ろしてくれて構わない」

「…オ、ズワルド…さん…」


 男の言葉に、美香は疲労を覚える体に鞭を打ち、顔を上げる。目の前で扇形に並んだまま、青い炎と水蒸気を噴き上げる黒槍の向こうに、美香に背を向け、敵陣へと突入する人馬の群れが見えた。


「…汝を解放する。あるべき自然を為せ…」


 力のない美香の言葉とともに、目の前に並べられた黒槍が地面に落下し、地響きを立てる。そのまま地面を焼いて濛々と湯気を立て始める黒槍を眺めていた美香の視界が急に回転し、気づけば彼女の体はオズワルドに横抱きに抱え上げられていた。極度の疲労を覚え、美香は頭をオズワルドの厚い胸板に預けたまま、息を乱しながら尋ねる。


「オ、ズワルドさん、戦いは、どう、なりました…?」

「君のおかげで、勝利は決した。こちらの損害はほとんどない。完勝だ」

「…そう…良かった…」


 美香は耳元から伝わるオズワルドの鼓動と温もりを感じながら、ぼんやりと答える。視界の隅に、駆け寄って来たレティシアの不安そうな顔が、映り込んだ。


「大丈夫、ミカ?痛いとか苦しいとか、ない?」

「…うん、大丈夫…いつもの虚脱感だけだから…心配しないで…」


 美香はオズワルドに頭を預けたまま、レティシアに向かって力なく答えた。




 美香は「ロザリアの御使い」「全人族の母」を称し、「ロザリアの槍」はガリエルの攻撃から人族を護る「母の槍」とされている。その自分が人族に向かって牙を剥き、「ロザリアの槍」を人族の血で汚すわけにはいかない。この瞬間、魔物に対して無双を誇った黒槍は、張りぼてと化した。


 だが、相手に「張りぼて」と気付かれていない今なら、使いどころはある。美香は聖王国の被害を最小限に抑えるため、ブラフとして黒槍を放ち、連合軍の戦意を挫いた。


 …何が「全人族の母」だ。サイッテー。


 美香は頭を上げ、槍の向こうで繰り広げられている戦いを眺めながら、自嘲の念を募らせる。かつて自分は、こう言ったのではないか?




 ――― どこの世界に、兄弟喧嘩の片方に一方的に肩入れして、もう一方を傷つける母親がおりましょうか。両者の仲裁に赴く事はあっても、一方に肩入れするつもりは、ありません。




 だが、実際はどうだ?反目する自分の「子」に向けて槍を放ち、自分に従う「子」をけしかけ、子供同士が殺し合う姿を前にして高みの見物を決め込み、仲裁にも入らない。サイッテー。サイッテーの母親だ。


「ミカ、体が冷えると良くない。一旦、司令部へと戻ろう」


 美香の苦悩を感じ取ったオズワルドが声をかけ、一行は戦いに背を向け、司令部へと戻って行った。




 ***


 押し寄せる敵軍に背を向け引き潮の様に後退する友軍の中で、バルトルト・フォン・キルヒナーは必死に声を張り上げ、軍の崩壊を押し留めようと、虚しい努力を繰り返していた。


 あれが、「ロザリアの槍」!


 バルトルトは、誰よりも自分を鼓舞するために声を張り上げながら、敵軍とともに押し寄せる焦燥に必死に抗おうとする。


 北伐にも従軍していたバルトルトだったが、「ロザリアの槍」を目の当たりにしたのは、これが初めてだった。だが、知勇兼備のバルトルトをもってしても、「ロザリアの槍」の前には無力だった。脅しだったのか、直接の被害は生じなかったものの、恐怖と死の顕現化した姿を前に連合軍の戦意は根こそぎ刈り取られ、羊の群れと化した。


「バルトルト様!敵兵が!」


 部下の悲鳴を耳にしてバルトルトが我に返ると、未だ辛うじて体裁を整えていたバルトルトの部隊に敵軍が食らいつき、噛み千切ろうとしていた。バルトルト麾下の兵達は勇敢にも刃を交えていたが、流れに逆らえず、次々と斬り伏せられていく。


「クソっ!皆の者、私に続け!敵兵に一撃を見舞わせて兵を救い、我々も撤退するぞ!」

「はっ!」


 バルトルト率いる一隊は、流れに逆らうかのように後退する兵達の中を前進する。だが、騎乗して隊の先頭に立つバルトルト目がけ、騎馬の一隊が横合いから突入してきた。


「バルトルトっ!其処に居たか!」

「何っ!?」


 突然の呼び掛けにバルトルトは驚き、反射的に剣を横なぎに払う。直後にバルトルトの剣は、鋭い刃と衝突して火花を散らし、突入を受けた馬が悲鳴を上げ衝撃から逃げるようにたたらを踏んだ。バルトルトは剣に両手を添え、押し込まれる力に必死に抵抗しながら、剣の向こうに浮かんだ男の顔に、愕然とする。


「…ユリウスっ!?まさか、お前まで!?」

「久しぶりだな、バルトルトっ!」


 驚愕の表情を浮かべるバルトルトの視線の先で、かつての同輩が血に滾った獰猛な笑みを浮かべている。驚きのあまり脳の整理がつかないバルトルトに、ユリウスが畳み掛けた。


「大勢は決した!これ以上の抵抗は無意味だ!バルトルト、剣を捨て我々に投降しろ!俺も閣下も、お前を死なせたくはない!」

「…な!?か、『閣下』だと…!?」


 ユリウスの物言いに、バルトルトは衝撃を受ける。ユリウスの言う「閣下」が誰を指す言葉かは、同じ人物から薫陶を受けた者として、聞かなくてもわかる。その人物まで敵に与している事を知り、動揺を隠せなくなったバルトルトの隙を突き、ユリウスが剣を持つ手に力を籠め、バルトルトに圧し掛かった。


「あっ!」


 バルトルトがバランスを崩し、落馬する。


 同じ師を持つ二人が率いる隊の戦いは、やがて馬上に残った方が率いる隊に飲み込まれ、制圧された。




 ***


 ギュンターは馬に乗ったまま、突き上げられた槍を左手で掴み、右手で持った剣を振り下ろして敵の兵士の頭部を叩き割ると、背後に向かって怒鳴り声を上げた。


「殿下っ!急ぎ脱出されよ!此処はもう、持ちませぬ!」


 余裕のないギュンターが眦を上げる先で、リヒャルトは茫然自失の面持ちで呟く。


「…ミカ…君まで、テオドールに与したと言うのか…」

「殿下!」


 事実を受け入れられず、その場に佇んだままのリヒャルトの姿を目にし、ギュンターは苛立たし気に声を荒げる。その一瞬を突かれ、ギュンターの腹に激痛が走った。


「ぐぅ…!」


 激痛から灼熱へと変化する感触にギュンターは顔を顰めながら、槍を切り払う。そのギュンターの耳に、新たな声が被せられた。


「ギュンター殿、ご覚悟を!」

「何を!」


 急速に力の抜ける体を叱咤し、ギュンターは声のした方へと顔を向ける。彼の視線の先には、一人の男が馬を駆り、剣を振り上げながらギュンターの許に突入していた。ギュンターは、その男の顔を見て驚きの声を上げる。


「ホルストっ!?貴様も寝返ったのかっ!?」

「うおおおおおおおおおっ!」


 ホルストは驚愕の表情を浮かべるギュンターに向かって剣を振り下ろし、西誅軍司令ギュンター・フォン・クルーグハルトの首が、鮮血と共に宙を舞った。




 ***


「だ、誰か!誰か、私を連れて行っておくれ!」


 馬車の中に閉じ込められ、動く事もままならなくなったジャクリーヌ・レアンドルは、車窓から顔を出し周囲に助けを求める。しかし、兵士達はジャクリーヌの声に耳を貸さず、前方から押し寄せる敵軍から逃れようと馬車の脇を駆け抜け、一目散に後方へと駆け出している。馬車は逆流する人の流れを前にして方向転換もできず、御者も馬車を乗り捨て、馬まで奪われてしまった今、ジャクリーヌは座席に腰を下ろしたまま、自分に迫る運命に身を委ねる他になかった。


 嗚呼、ロザリア様!どうか、か弱き私めを暴漢どもの手からお救い下さい!


 彼女は現実から目を背け、馬車の中で目を閉じ胸元で印を切って、ロザリア様に助けを求める。しかし、ロザリア様からの救いの手は差し伸べられず、やがて馬車の扉が外から開かれた。


「おい、そこの女、外へ出て来い」

「ひ、ひぃぃ…」


 ジャクリーヌが蒼白な顔を上げると、そこには複数の屈強な男達が並び、馬車の中を覗き込んでいた。男達の体に付いた血を見てジャクリーヌが怯えていると、痺れを切らした先頭の男が馬車の中に乗り込み、彼女の手首を掴んで馬車の外へと連れ出そうとする。


「おい、早く出て来るんだ!」

「で、出ます!出ますから、乱暴はしないで…!」


 男の恫喝にジャクリーヌは震えながら答え、男に手首を掴まれたまま、恐る恐る馬車の外へと顔を出す。馬車を降りようとするジャクリーヌの目の前で、男達が勝利と血に酔った笑みを浮かべ、40代とは思えない美しい外見を保つ彼女は年甲斐もなく身の危険を覚え、少女のように身を震わせた。




 ――― そのジャクリーヌの視界の右から突然青白い稲光が横切り、目の前に並ぶ男達に網の様に覆い被さって、男達の体に絡みついた。




「ぎゃあああああああああああああああああ!」

「あががががががががが…!」

「あぅ…ぁ…が…」


 ジャクリーヌの肢体を舐めるような目で見ていた男達が、燻った臭いを立てながら地面へと崩れ落ち、痙攣を始める。同時に、男に掴まれたジャクリーヌの手首に鋭い痛みが走り、彼女と男は悲鳴を上げた。


「きゃぁっ!」

「ぐあっ!」


 男は痛みに手を離し、バランスを崩して地面に尻餅をつく。そして、何が起こったか分からず、呆然とする男に向かって一閃が走り、ジャクリーヌの目の前で男の首が飛んだ。


「あ…ぁぁぁ…」


 目の前に突如現れた惨状にジャクリーヌが呆然としていると、男の首を刎ねた一人の若者が剣を納めながら彼女に精悍な顔を向ける。


「司教様、大丈夫ですか?」


 若い男から真っ直ぐな目を向けられ、ジャクリーヌの心臓が跳ね上がった。彼女は、久しぶりに覚えた胸の高鳴りに戸惑いを覚えながら、位階の誤りにも構わず、若い男に答える。


「え、ええ、大丈夫です。貴方のお名前は?」

「アイン。司教様、時間がありません。すぐに撤退します。馬車を降りて下さい」

「は、はい。すぐに」


 男のせかす様な物言いに、彼女は胸をどきまきさせながら男に手を差し出し、馬車を降りる。すると、男は突然彼女の背中に腕を回し、横抱きに抱え上げた。彼女は少女の様に頬を染め、慌てふためきながら男の顔を見上げる。


「ア、アイン様!?」

「司教様、失礼。しっかり掴まっていて下さい」

「え?…あ、きゃぁ!」


 男が言うな否や、彼女の視界が急速に動き出し、まるで風になったような速度で景色が目まぐるしく映り変わる。彼女は背後に鳴り響く爆音を気にも留めず、男にしっかりとしがみ付き、うっとりとした表情で男の顔と周りの風景を交互に見やっている。


 異変を知った敵の兵達が男女を追い駆けるが、男は敵兵の追跡を振り切り、やがて男は地平に映る連合軍の中へと消えて行った。

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