191:立ち上がる人々を前に

 ハーデンブルグを取り巻く環境は、まるで発達する台風の様に、中心に奇妙な静かさを漂わせながら、次第に緊張の度合いを深めていく。




 ***


「…あれ?」

「どうしたの?ミカ」


 ガリエルの第6月下旬、いつもの街中の散策をしていた美香が声を上げる。美香はレティシアと繋いでいた手を離し、イザークと立ち話をしていた革鎧の男の前に駆け寄ると、深々と頭を下げ、声をかけた。


「…あの…ヘルムート様でいらっしゃいますよね?ご無沙汰しております。ハーデンブルグに、何時いらっしゃったんですか?」

「…あ、ミカ殿…久しぶりだな。お元気になられたようで、本当に良かった」


 美香に声をかけられたヘルムートは、一瞬バツの悪そうな表情が顔をよぎったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。その、以前の家紋をあしらった金属鎧とは異なるいでたちに、美香は小首を傾げながらも、ヘルムートに答える。


「お陰様で、今では元通り動けるようになりました。あの時は、色々とご迷惑をおかけしました」

「なんの。私はミカ殿の快復には何ら寄与できなかったから、礼には及ばないよ。むしろ君のおかげで、我々の軍団も被害を最小限に抑える事ができた。改めて、礼を言わせてくれ。ありがとう」

「いいえ、お気になさらないで下さい」


 ヘルムートの実直な礼に、美香は最早何度も繰り返された光景を目にして困った笑みを浮かべ、話題を変えた。


「それにしても、感謝祭明けに皆さんお帰りになられたと伺っていたんですが、何かまた問題があったんですか?」

「あ、いや…」


 美香の見上げるような眼差しを受け、ヘルムートが言い淀む。ヘルムートは並び立つイザークに目を向け、そのイザークが自信なさげに口を開いたところで、詰所の中から別の声が聞こえて来た。


「ミュンヒハウゼン家に共同訓練を申し入れたんだ」

「あ、オズワルドさん」


 美香が詰所の方を向くと、中からオズワルドが顔を出し、三人の許に歩み寄る。


「昨年末の大規模なハヌマーンの襲撃があった以上、今後ハーデンブルグ単独では凌げない局面が増える事が予想される。そのためにも、ミュンヒハウゼン家とより連携を密にし、ガリエルの攻撃に備える必要があるんだ。暫くの間彼らは此処に逗留し、我々と行動を共にする予定だ」

「そうなんですね。打ち合わせの邪魔をして、すみませんでした」

「ああ、いや、構わない。気にしないでくれ」


 オズワルドの説明に美香は頷き、ヘルムートとイザークの二人に頭を下げる。二人が曖昧な相槌を打って頷くと、美香は頭を上げ、レティシア達の許へと駆け戻って行く。その後ろ姿を見ながら、ヘルムートがオズワルドに小声で話しかけた。


「助かったよ、オズワルド殿。危うくバレるところだった」

「気をつけて下さい、ヘルムート殿。彼女、勘が鋭いですから」

「…だけど、バレるのは時間の問題かも知れませんね」


 二人の会話にイザークが割り込み、二人がイザークの顔を見る。


「ライツハウゼン側に防塞を構築した事で、市民の緊張が高まっています。ミカ殿はあれからハーデンブルグの外に出ておらず、まだ気づかれていませんが、この空気は流石に覆い隠す事ができません」

「「…」」


 イザークの発言に、オズワルドとヘルムートが揃って腕を組み、顔を顰める。北部有数の剛の者達が今最も立ち向かいたくない相手は、ハヌマーンでも王家でもない。先ほどまで目の前に居た、自分達の胸ほどの背丈しかない、年端もいかない少女と見紛う女性だった。




 ***


「また、えらい錚々そうそうたる陣容ですなぁ。またぞろ、ハヌマーンらがハーデンブルグに押し掛けて来たのでありますか?」


 テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼンは、領都の前に展開される15,000もの軍勢を前に、おのぼりさんの様な感嘆の声を上げる。テオドールの質問に、隣に並ぶ懲罰軍の司令官が答えた。


「フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアーに、謀反の疑いがかけられています。このままでは御使い様を私物化し、地方に割拠する恐れさえあります。我々はフリッツを追及し、場合によっては御使い様を奪還せよとの王太子殿下の命に従い、軍を進めている次第です」

「何と、フリッツ殿が、そんな大それた事を!?」


 司令官の話を聞いたテオドールは、目玉が零れ落ちかねないほど目を見開き、口を大きく開けて固まっている。やがてテオドールは、後頭部を自分で叩きながら、渋面を作った。


「…あっちゃぁ…、すみませんな、司令官殿。ウチ、そうとは知らず、フリッツ殿の求めに応じて小麦を北に送ってしまいましたわ。えらいスンマセン。即刻、今日の便を止めますわ!」

「お願いします。今後北への往来を禁止して、封鎖して下さい。それと、御家からの派兵も要請します」

「あぁ…それがですね…」

「何か?」


 司令官に目を向けられ、テオドールは樽の様な腹の前で両人差し指を突き合わせ、くるくる回しながらぼそぼそと呟く。


「ウチ、昨年末の殿下の求めに応じた際、小麦を桁一つ間違えて送ってしまいまして…ウチ、今素寒貧なんですわ…」

「…は…?」

「それを配下の騎士達に言いましたら、えらい剣幕で詰め寄られましてな…逃げられてしもうてん…」

「…」

「…司令官殿、フリッツ殿に送っていた小麦、みんな回しますんで、それで勘弁して貰えません?」

「…」




 ***


「ミュンヒハウゼンからの『小麦』が、途絶えました」

「…」


 執務室で難しい顔をするフリッツを前に、ニコラウスが報告を続ける。


「毎日、朝晩の2回到着していた荷馬車が、到着しませんでした。中央からの往来も激減しましたので、恐らく中央軍がミュンヒハウゼンに到着し、封鎖したのでしょう。彼我の距離と時間差を考えると、すでに中央軍はライツハウゼン付近、ハーデンブルグから2~3日の距離にいるものと推測されます」

「…」

「フリッツ様、ご決断を」

「…わかった」


 アデーレ、マティアス、オズワルド、ニコラウスが見つめる中、フリッツは頷き、顔を上げる。


「…明日、市民の前で演説を行い、蹶起を促す。ニコラウス、演説の準備を進めろ」

「はっ」




 ***


 その日、市民達の間には、いつにもなく張り詰めた空気が漂っていた。


 ここ半月の間に、ライツハウゼン側の街壁の外に強固な防塞が構築され、その物々しい雰囲気は、後背に広がる田園地帯での畑仕事から戻る農民達の噂に乗って、街の中を覆っていった。市民達は、安全な後背であるはずのライツハイゼン側に漂うピリピリした雰囲気を敏感に感じ取り、今までにない危機感をもって領主の登場を待つ。


 やがて、市民達の前にフリッツが現れ、木材で拵えらえた素朴な壇上へと上がっていく。市民達は辺りを漂う厳粛な空気に日頃の歓呼の声も上げず、押し黙ったままフリッツの演説を待った。


 フリッツは、壇上の上から広場を見渡し、そこに居並ぶ1,000人程の市民達を暫く眺めると、口を開く。


「…先日、御使い様の許に、王家の使者が訪れた。御使い様をヴェルツブルグへと召還し、クリストフ王太子の許に嫁げとのご命令だ」


 フリッツの言葉に、市民達はお互いの顔を見合わせ、辺りが一様に騒めく。王太子殿下とご結婚されるのであれば、それは喜ばしい事ではないのか?思い思いに感想を述べあう市民達の間に、フリッツの声が割り込み、市民達は雑談を止めて壇上へと向く。


「…御使い様に、ご意向を伺った。結果は、否。御使い様は王太子とのご結婚を望んでおらず、此処ハーデンブルグで穏やかな毎日を過ごされる事をお望みだ」


 複数の市民から、安堵の声が漏れ聞こえる。ハヌマーンの魔の手からハーデンブルグを救った御使い様を多くの市民が地母神と崇め、この地に留まり照覧される事を望んでいた。御使い様の意向を聞き、緊張を緩めた市民達の中に、フリッツの言葉の槍が突き刺さる。


「…しかし!王家は、御使い様のご意向を無視し、御使い様を無理矢理連れ去ろうと大軍をハーデンブルグへと差し向けている!度重なるハヌマーンの攻撃を受け、存亡の危機にあった我々に救援の手さえも差し伸べず、我々を見捨てた王家が!危機が去った後に、自らの身と引き替えに我々を救った御使い様を奪うために、討伐の軍を差し向けたのだ!しかも!それは、御使い様の大恩に報いるためではない!御使い様のご威光を掠め取り、御使い様に望まぬ子を強要して次代の王家にその力を引き継がせようとする、盗賊にも劣る卑劣な魂胆から来るものである!」

「…」

「…今日我々が、この演説を聞いていられるのは、誰のおかげだ?…そこまで大恩ある御使い様に、今まで我々は、何をお返しした?」


 市民達に広がる、体の中から湧き上がるマグマを塞ぐ岩盤を叩き割るべく、フリッツが言葉の杭を叩き込んだ。


「今日、我々ハーデンブルグは王家と訣別し、御使い様の御恩に報いるべく此処に蹶起する!」

「「「おおおおおっ!」」」


 フリッツが拳を掲げると同時に、広場に怒涛の喚声が湧き上がる。


「ミカ様、万歳!地母神様、万歳!」

「王家め、来るなら来い!御使い様には、指一本触れさせない!」

「御使い様、ご安心めされ!必ずや我々が、御使い様をお守りいたします!」


 男も女も、年老いた老人も若い娘達も、市民達は皆一様に拳を掲げ、フリッツの演説に歓呼の声を上げている。


 ついに狂気は圧倒的な熱量をもって、ハーデンブルグを覆い尽くした。




 ***


「…え?…どういう事?」


 窓越しに聞こえて来る、くぐもった喚声を耳にしながら、美香は後ろを向いて尋ねる。レティシアは表情を消し、美香の目を見据えたまま、口を開く。


「…王家が、あなたを攫うために、軍を差し向けたの。あなたを無理矢理ヴェルツブルグへ連れ去ろうと、企んでいる。それを阻むために、ハーデンブルグは立ち上がるわ。お父様は勿論、末端の兵士達や市民の一人一人に至るまで、あなたのために立ち上がろうとしている。大丈夫よ、ミカ。安心して。あなたには、指一本触らせないわ」

「あの喚声は、フリッツ様の演説を聞いて立ち上がった市民達の声だ。皆、この街を救ってくれたアンタに心から感謝している。アンタから受けた恩を返そうと、誰も彼もが王家に立ち向かおうとしている。奴らの思い通りには、させないよ」


 レティシアの背後に立つゲルダが牙を見せて獰猛な笑みを浮かべ、女性騎士達が微笑んだ。


 美香は暫くの間呆然としたまま、レティシア達の顔を一人一人、眺めていた。その誰もが、美香と視線が交差すると、自信をもってはっきりと頷く。


 美香はひとしきり皆の顔を眺めた後、再びレティシアへと顔を向ける。彼女の、呆然としたまま形の整った唇が戦慄き始め、やがて絞り出すように言葉を放った。




「――― 馬っ鹿じゃないの…?」




「ミカ!?」

「おい、ミカ!?」

「「「ミカ様!?」」」


 突然の事に驚くレティシア達を置いてきぼりにして美香は館を飛び出し、一目散に街へと駆け出してく。途中、制止の声をかける詰所の騎士達をも振り切り、街中へと向かおうとした美香の前方で、広場から戻って来た馬車が止まり、フリッツ達が馬車から降りて来た。


「ミカ、どうしたんだ、そんなに急いで?何故馬車を使おうと…」




「お父さんの馬鹿!」

「ちょ、ちょっと、ミカさん!?」


 アデーレが驚きの声を上げる中、美香はフリッツの堅い胸元へと飛び込むと、顔を埋めたまま拳を振り上げ、ポカポカと叩きつける。


「お父さんの馬鹿!阿呆!アンポンタン!どうして、そんなにわからずやなの!?」

「お、おい、ミカ?何でそんなに私が怒られないと…」




「――― 私に二度も、お父さんとお母さんを亡くさせるつもりなの!?」




「…ミカさん…」


 絶句するアデーレの前で、美香はフリッツの服を掴み、胸元に顔を埋めたまま、嗚咽混じりの声を上げる。


「…何で、そこまで意地を張るのよ…たかがお嫁に行くだけじゃない…会えなくなるわけじゃ、ないんだよ?…何で、みんなの命まで懸けて抵抗するのよ…この、馬鹿オヤジ!」


 美香の拳がもう一度振り上げられ、フリッツに叩きつけられる。フリッツは体の痛みと心の痛みに縫い付けられ、美香にしがみ付かれたまま、指一本動かせなくなった。アデーレとマティアス、そして追い駆けて来たレティシア達の前で、美香はフリッツにしがみ付いたまま嗚咽を上げ、体を震わせる。


 ハーデンブルグの戦力は、通常2,400。今回の叛旗に備えて兵力を増強しても、未だ6,000にも届かない。対する懲罰軍は15,000を数え、しかもその後方には数万の兵力を擁する王家が控えている。そして、ハーデンブルグは孤立無援で、背後から何時ハヌマーンが襲ってくるかわからない。


 このまま戦いに突入すれば、いずれハーデンブルグは陥落する。フリッツ、アデーレ、マティアスは確実に殺され、レティシア、オズワルド、ゲルダ、ニコラウスや大隊長達とも永遠に会えなくなるかも知れない。ハーデンブルグに住む市民達も、あれだけ美味しい肉巻きを作ってくれる店主達も、何人死んでしまうか、わからない。


 私が、我が儘を言ったばかりに。王家の命を断ろうとしたばかりに。


「…ごめんなさい、お父さん。服、汚しちゃった…」

「…ミカ…」


 やがて美香がフリッツの胸元から顔を離し、照れくさそうに目元を指で拭う。呆然とするフリッツの目の前で美香が顔を上げ、涙まみれの笑顔を浮かべた。




「お父さん、ここまで私の事を想ってくれて、ありがとう。――― 私、お嫁に行きます」

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