192:そして再び(1)

 フリッツの馬車に乗って広場へと到着した美香は、先ほどフリッツが演説した壇上へと登っていく。広場には御使い様の姿を見ようと多くの市民達が詰めかけ、歓呼の声を上げていた。


「御使い様!私達に任せて下さい!王家なんかに御使い様をお渡しする事はありません!」

「そうよ、ミカ様!いつまでもこの地で、幸せにお暮し下さい!」

「御使い様!地母神様!今こそあなた様から受けた御恩に、報いさせていただきます!」


 広場から湧き上がる声は、美香が壇上から市民達を見渡すと途端に鳴りを潜め、御使い様の言葉を聞こうと、一斉に静まる。美香は、もう一度市民達を見渡し、儚げな笑みを浮かべた。


「皆さん、私一人のためにこんなにも集まってくれて、ありがとうございます。この街で、私がこんなにも慕われていると知れただけでも、とても幸せに思います。そして、皆さんが私の代わりに怒り、立ち上がろうとしている姿を見て、それだけで私は心が満たされました」

「ですから、皆さん、どうかその気持ちを心の中に留めておいて下さい。決して面に出さず、立ち上がらないで下さい。――― 私は、王家に嫁ぎます」




「御使い様!ご自身を犠牲になさらないで下さい!」

「そうだ!御使い様、我々に命令して下さい、王家を討て、と!我々は喜んで御使い様の矛となり、盾となります!」

「そうだそうだ!」


 美香の言葉を聞いた市民達は口々に叫び、広場の声が次第に大きくなる。美香は少しの間市民達の声に耳を傾けていたが、やがて右手を上げ、それを見た市民達が再び口を閉ざし広場に静寂が戻る。


「…ありがとうございます、皆さん。皆さんは、私の命であれば、言う事を聞いてくれるのですか?」

「勿論です、御使い様!」

「私達は何処へでも、御使い様について行きます!」

「御使い様、ご命令を!」


 散発的に湧き上がる声に、美香は笑みを浮かべ、再び右手を上げる。


「ありがとうございます、皆さん。それでは、私から皆さんに命令を下させていただきます」




「――― 皆さん、誰一人、私のために死なないで下さい」




「…え…」

「…御使い様…」


 市民達がお互いの顔を見合わせ、広場が騒めく中で、美香が再び口を開く。


「皆さん、私のために、血の一滴も流さないで下さい」




「…御使い様…何故、その様なご命令を…」


 壇上の真下に居る一人の男が、市民達を代表するかのように、美香に問い掛ける。その途端、美香の笑顔が歪み、声を震わせながら男に対し、糾弾の声を上げた。


「何故ですって?…だって、そうじゃない!あなた、笑ってられるの!?親しい人が自分のために血を流しているのに、笑ってられるの!?大好きな人が自分の名前を呟きながら死んでいくのを見ながら、幸せになれるの!?冗談じゃないわよっ!私はそんな恥知らずじゃない!あなただって、自分のお父さんやお母さんから自分のために死ぬって言われたら、止めるでしょう!?ましてや、ただの結婚式よ!?死ぬんじゃないんだよ!?一生に一度の晴れの舞台じゃない!せっかくのドレスを血で汚さないでよっ!」

「…御使い様…」


 市民達は、壇上で地団駄を踏んで喚く美香の姿を、呆然と眺める。糾弾の言葉が支離滅裂になっている事に誰も気づかず、やがて美香はぐすぐすと鼻を擦り、落ち着きを取り戻す。


「…ごめんなさい、ヒステリックになっちゃって。申し訳ありません」

「い、いえ…」


 壇上から美香が深々と頭を下げ、男が言い淀む。美香は頭を上げると、静まり返った広場を見渡し、宣言した。


「皆さん、ありがとうございます。そして、皆さんに命令します。――― 王家に嫁ぐ私を、暖かく見送って下さい」




 ***


「内地に放った斥候が、戻って来たよ。明日の午後には、中央軍がハーデンブルグに到着する」

「そうですか…」


 バルコニーの欄干に身を預け、中庭の風景を眺める美香の許にオズワルドが歩み寄り、手に持ったカップを美香に渡す。美香がカップを傾けると、僅かな甘みを伴う暖かいミルクティーが、口の中に広がった。すでに日はとっぷりと暮れ、館の窓から漏れる光が、闇に包まれる中庭を淡く照らしている。


「オズワルドさん…」

「何だ?」


 カップに口をつけたまま中庭を眺めていた美香が名を呼び、オズワルドが答える。美香がオズワルドの方を向いて、微笑んだ。


「…2年半、ありがとうございました。この世界の事や馬の乗り方とかを色々と教えてくれて、ありがとうございました。オズワルドさんと一緒に過ごせて、とても楽しかったです。ヴェルツブルグに寄る事があったら、是非、声をかけて下さいね」

「…」


 王太子妃となれば王城に閉じ込められ、会う事も叶わないだろう。その事をおくびにも出さず、努めて明るい声を上げる美香の姿を、オズワルドは沈痛な面持ちで眺めている。やがてオズワルドはカップをバルコニーのテーブルに置き、美香の許へと歩み寄る。そして、―――




「ミカ。我が剣をあなたに捧げる。あなたが何処いずこにいようとも、私の忠誠は終生あなたの許にある事を、此処に誓おう」


 美香の前で片膝をつき、自らの剣を抜いて切っ先を胸に添えると、剣の柄を美香へと差し出したまま、動かなくなった。




「オズワルドさん…」


 欄干に身を預けたまま、美香は剣の先にあるオズワルドの真摯な目を見つめる。やがて、美香は手に持ったカップをテーブルへと置くと、ぎこちない動作で剣の柄を両手で掴み持ち上げる。そして剣の腹に口づけした後、剣を反転させ、オズワルドへと戻した。オズワルドが剣を納めて立ち上がると、美香は幾分顔を赤らめながら、微笑んだ。


「オズワルドさん、一つ命令してもいいですか?」

「何なりと、我があるじ




「…キス、して下さい…」




 美香の顎にオズワルドの指が添えられ、二人の唇が重なり合う。


「…ん…」


 そのまま灯りの射し込むバルコニーの中で、二人の影が長い間、一つに繋がっていた。




 ***


「パジャマパーティも、これで最後なのかな…」

「まあ、仕方ないわよ。流石に殿下も、そこまでお認めにはならないと思うわ」


 レティシアのベッドの上で美香が膝を抱えて溜息をつくと、同じく膝を抱えたレティシアが美香に寄り添った状態で苦笑する。レティシアとカルラは美香に同行し、そのまま王城に押し掛けるつもりだったが、貴族令嬢であれ侍女であれ、王太子妃とベッドを共にする事をクリストフが認めるとは、到底思えなかった。


 美香は膝を抱えたまま体を傾け、レティシアに頭突きをしながら感謝の言葉を口にする。


「ありがとう、レティシア。私と一緒に居てくれて…」

「勿論じゃないの、ミカ。私とカルラは、これからも一緒よ」

「うん…」


 レティシアの答えに、美香は頭突きから頬ずりへとスライドさせながら俯いていたが、やがて顔を上げてレティシアの方を向く。


「ねぇ…最後くらいは、一緒に寝ようか?」

「…うん!喜んで!」


 美香の誘いにレティシアは満面の笑みを浮かべると、ベッドから飛び降り、壁際に置かれているオルゴールの螺子を回す。やがて部屋の中がオルゴールの曲に満たされると、ベッドに腰掛ける美香に手を差し伸べた。


「王太子妃殿下、私と1曲、踊っていただけません?」

「もう!レティシアったら!」


 美香はレティシアを窘めながら手を取り、二人はオルゴールの曲に合わせてチークダンスを踊る。やがてレティシアは、美香の両手に添えていた手を離し、美香の腰に腕を回して顔を覗き込んだ。


「ミカ…あなたを愛している」

「…私もレティシアの事、大好きだよ」


 躊躇いがちな美香の告白に、レティシアがクスリと笑う。


「なぁに?ミカ。私の事、愛してくれないの?」

「うーん、まだ良く分かんない…」


 美香は、至近距離から放たれるレティシアの眼差しから目を逸らし、口を窄める。レティシアが美香にとってかけがえのない存在である事は、異論の余地がない。しかし性愛的な意味が絡むと、未だ美香自身も結論が出せていなかった。レティシアは、美香の拗ねた様な顔を愛おしそうに眺める。


「いいわよ、今すぐに結論を出さなくても。私はいつまでも待っているから…だから、いつかあなたの口から言ってくれると、嬉しいな」

「うん…ありがとう、レティシア」


 美香の言葉にレティシアは微笑むと目を閉じ、顔を寄せる。美香もレティシアの腰に腕を回して目を閉じ、二人は静かに唇を重ねる。


「…ん…」


 二人は一つに重なったまま、オルゴールの音色が止まるまで、その場に佇んでいた。




 ***


 ロザリアの第1月18日。ライツハウゼン側の街壁には、大勢の人々が集まっていた。街壁の上には兵士達がずらりと並び、その隙間から市民達が顔を出して下を覗き込んでいる。地上にも、2,000人程の兵士達が街壁に沿って並び、物々しい雰囲気を漂わせていた。


 市民達が固唾を飲んで見守る中、やがて中央街門が開き、中から数人の男女が出てくる。一行が、ただ一箇所、兵士達の居ないぽっかりと空いた街路を歩み出すと、街壁の上から市民達の声が降り注ぐ。


「ミカ様、御使い様!今までハーデンブルグをお守りいただき、ありがとうございました!」

「御使い様!どうか、ヴェルツブルグでお幸せになられて下さい!」

「御使い様!殿下が浮気したら、我々にすぐ言って下さいね!ぶん殴りに行きますんで!」

「ありがとう!その時は、よろしくお願いします!」


 街壁の上で盛大な笑い声が上がり、美香が街壁上に向かって手を振り、礼を述べる。歓声が絶え間なく降り注ぐ中で美香は手を下ろし、前方を向く。


 街壁から1kmほど離れた先に、中央軍の兵士達がずらりと並んでいた。その数、15,000。彼らは重厚な装備に身を包み、容易ならざる圧力をハーデンブルグへと放ち続けている。陣の中には投石機、破城槌、攻城塔が何台も見え、中央軍の本気度が窺えた。遠くで地響きが鳴り、中央軍の放つ威圧感が否応にも増す。


 美香は後ろを振り返り、背後に佇むフリッツ達の顔を一人一人眺め、笑みを浮かべる。


「お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん。2年半、本当にありがとうございました。この2年半は私にとって、かけがえのない、一生の思い出です。皆さん、どうかお元気で」

「此処でその台詞は、卑怯だぞ…ミカ殿…」


 突然兄呼ばわりされたマティアスが、感極まって声を詰まらせる。息子の狼狽える姿を面白そうに眺めていたフリッツが、舌を出している美香に顔を向けた。


「ミカ、私の娘になってくれて、本当にありがとう。…幸せにな」

「ミカさん、体をお大事にね。あなた、すぐ体調を崩すんだから」

「ミカ様、どうかお幸せになられて下さい」

「ありがとう、お父さん、お母さん、お姉さん」


 フリッツ達から口々に投げられかける言葉に美香は深々と頭を下げると、オズワルドとゲルダへと体を向ける。


「オズワルドさん、ゲルダさん、これまで何度も私の身を守ってくれて、本当にありがとうございました。これからも、お怪我などなさらず、ハーデンブルグをお守り下さい」

「ああ、任せてくれ。ミカ、君も元気でな」

「ちっ、この体を独占するとは…喰い殺してやろうか…」


 美香の言葉に、オズワルドが穏やかな笑みを浮かべ、ゲルダが歯ぎしりをする。美香はゲルダの感想に笑みを浮かべると、両脇に佇むレティシアとカルラの顔を交互に見やった。


「さ、レティシア、カルラさん…そろそろ、行こうか」

「ええ」

「はい、ミカ様」


 レティシアとカルラが揃って頷き、美香は再び前を向く。威風堂々と布陣する中央軍の様子を見ると、十数人程の騎士達が旗を掲げてこちらに歩み出しており、どうやら迎えに来るようだ。


 さようなら、みんな。


 美香はもう一度後ろを向いてフリッツ達の顔を眺めると、少しずつ近づいて来る騎士達へと目を向け、一歩を踏み出す。そして、―――




 ――― 突如、轟音とともに出現した大きな火柱と土飛沫が、美香の視界から騎士達を掻き消した。




「…え?」


 突然の事に、美香の足が止まり、体が硬直する。前方に湧き上がった噴煙の向こうから、被害を免れた騎士達の狼狽の声が聞こえて来る。


「さ、下がれ、下がれ!」

「退避ぃぃぃ!」




「…な、何、アレ…?」


 理解が追い付かない美香の右耳にレティシアの呟きが聞こえ、美香はレティシアの方を向く。そして、その視線の先にこの世界に存在するはずのない物体を認め、呆然と呟いた。




「…な、何でこんな所に、装甲車がいるのよ!?」




 美香の方に向かって、巨大な鉄の塊が真っ直ぐに突入していた。美香は軍事兵器に疎く、しかし砲塔がない事から装甲車であろうと見当を付けたその巨大な鉄の塊が、8輪の大きなタイヤから土飛沫を撒き上げ、爆走している。


 突如現れた見た事もない光景に、ハーデンブルグと中央軍、誰もが動きを止める中、装甲車は美香の前で方向転換し、後部ハッチを開けながら美香の目の前で急停車する。そして、後部ハッチの中から現れた一人の男が一本しかない腕を伸ばし、美香に尋ねた。




「古城、状況がわからん。10秒で決めてくれ。お前をこの場から連れ去った方が良いのか?それとも、アイツらを蹴散らした方が良いのか?」




 美香は迷わず男の許へと駆け出し、歓喜の声を上げながら男の腕に手を伸ばした。


「――― 私を連れ去って下さい、先輩!」

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