188:狂気

 正気の沙汰とは思えなかった。




 ――― お嫁に行きたくない。


 ただ、その一言のためだけに、一国の重鎮が、代々仕えてきた王家からの離反を決断したのである。


 しかもその決断は、当主一人だけではなかった。罪を問われれば連座となり、ともに首を刎ねられるであろうその妻も、先代の世迷言によって将来の全てを失う事になる息子も、夫の、父の決断に同調し、運命を共にすると答えたのである。


 そしてその狂気は人から人へと伝播し、次第に男の領地を覆っていく。




 ***


「昨晩、我が息子マティアスからの報告にあった通り、ミカに対し王家から命令が下された。――― ミカはヴェルツブルグへと召還され、クリストフ王太子との婚儀が執り行われる」

「…」


 エーデルシュタイン王国の北辺の重鎮、フリッツ・オイゲン・フォン・ディークマイアー辺境伯は、参集した首脳部の面々に向かって声を上げる。オズワルド、イザーク、ウォルター、サムエルの、第1から第4までの各大隊長。美香の護衛小隊を率いる、ゲルダ、ニコラウスの二人。フリッツの領地経営を支える文官の面々。フリッツの両脇には、妻アデーレと長子マティアスが並ぶ。


 フリッツは一同を見渡し、言葉を続ける。


「先ほど、本人の意向を聞いた。結果は、否。ミカは、王太子との結婚を望んでいない」

「…」


 フリッツの言葉に、一同は何も答えず、広間に沈黙が広がる。その中でフリッツは目を閉じて大きく息を吸い、一拍の後目を剥いて大音声を発した。


「ゆえに!当家はミカの願いを叶えるべく、全力で王家に抵抗する!皆の者、ミカの願いのため、粉骨砕身せよ!」

「「「はっ!」」」


 フリッツの宣言の前に、一同は一斉に首を垂れる。その命令に、誰一人異論を講じる者はいない。フリッツは一同の頭を見ながら、命令を続ける。


「イザーク、ウォルター、サムエル」

「「「はっ!」」」

「ライツハウゼン側の街壁の防備を固め、防塞を構築しろ。合わせて糧秣を集積し、籠城に備えろ」

「「「畏まりました!」」」


 フリッツは三人の大隊長にハーデンブルグの防御強化を命じると、オズワルド、ゲルダ、ニコラウスに目を向ける。


「オズワルド、ゲルダ、ニコラウス」

「はっ!」

「はい!」

「はいよ!」

「ミカに絶対の忠誠を捧げる者を選抜し、護衛小隊を中核として親衛部隊を編成しろ。人も物資も好きなだけ持って行って構わん。ガリエルの地を横断し、遠くセント=ヌーヴェルの地に骨を埋める覚悟を持て」

「「はっ!命に代えてでも!」」

「はいよ!任せときな!」


 フリッツの言葉にオズワルドとニコラウスは再び頭を下げ、ゲルダが勢い良く自分の胸を叩く。フリッツは横を向き、息子へと目を向ける。


「マティアス」

「はい、父上」

「アンスバッハ家とミュンヒハウゼン家に赴いて当家の意向を伝え、後顧を託せ」

「畏まりました」




 王家が美香に下した命令は、表面上は決して理不尽なものではない。王太子妃として礼遇し、ゆくゆくは王妃としてこの国の頂点に立つ。この命令がもし、この国で生まれ育った貴族令嬢に下されていれば、当人はきっと狂喜乱舞したであろう。


 しかしフリッツ達は、この命令が持つ意味を知って、怒髪天を衝く思いだった。この命令は、美香に何の幸せも齎さず、むしろ美香から搾取する事しか考えられていない。リヒャルトが引き起こした内乱によって傾いた王家の威信を、「ロザリアの御使い」の名声によって補強する。教会との関係も強化され、クリストフの地位がより正統なものになる。そして「ロザリアの槍」は、オストラの戦いで弱体化した軍を補って余りある正面突破力を有し、しかもその維持費はわずか少女一人と非常に廉価。更にクリストフと美香の間に子が生まれれば、「ロザリアの槍」に匹敵する強力な素質が、クリストフの子孫に引き継げるかも知れない。


 美香自身も知らない、この世界における価値を王家は舐めるような目で暴き、その全てを吸い上げようと手を伸ばしている。そしてその美香に対する報酬は、親しい人達から引き離され自由の利かない玉座という煌びやかな檻と、上辺だけの煌びやかさに目を奪われた貴族令嬢から向けられる嫉心の眼差しだけである。




 彼女は、我々に何をしてくれた?




 彼女は、フリッツの愛娘の命を救い、北伐では31,000もの兵を無事に生還させた。ライツハウゼンに降り注ぐ氷塊の嵐を打ち払い、ディークマイアー家の4個大隊全滅の危機を二度も防いだ。そして、40,000ものハヌマーンと7頭ものロックドラゴンを一掃し、ハーデンブルグに立て籠もる70,000もの人々の命を守った。


 しかも彼女はその全てにおいて、己の身と引き替えに我々に恩恵を齎した。喜びに沸く我々を余所に彼女は寝たきりとなり、長期に渡って自分では何一つできない不自由な生活を強いられた。そして彼女は、それ以外のものを何一つ、我々に求めなかった。




 その彼女が、初めて我々に求めたのだ。―――「お嫁に行きたくない」と。




 希少な宝石でも、山の様に積み上げられた財宝でもなかった。広大な領地でもなく、至高と言うべき強大な権力でもなかった。これほどまでに多大な恩恵を施してくれた彼女が、初めて我々に求めた、一介の町娘でさえも安易に口の端に乗せるであろう、あまりにも些細な願い。




 ――― 我々は、そんな些細な願いでさえも、叶えてあげられないのか!?




 エーデルシュタイン王国は中央集権国家であり、王家の権限が強い。美香に対する命令は絶対で、断る術はない。であれば、方法はただ一つ。ハーデンブルグが離反し、彼女に代わって王家の呪縛を断ち切る。


「2ヶ月だ。2ヶ月で態勢を整え、中央の動きに備えろ。中央もオストラの影響で余裕がない。いつ暴発するか、わからん。最悪の事態を覚悟せよ」

「「「はっ!」」」


 ハーデンブルグは北辺に位置し、退路はガリエルに塞がれている。ハーデンブルグは、あまりにも絶望的な孤立無援の戦いに、自ら足を踏み出そうとしていた。




 ***


「うーん、まだまだね。この程度の距離で息が上がっちゃうなんて」

「はぁ…はぁ…、ホントにね。我ながら、情けなくなるわ…」


 先行するレティシアに手を引かれ、美香は息を荒げながらレティシアの言葉に答える。レティシアは美香の様子を見て若干歩調を緩め、二人は手を繋いで街中をゆっくりと歩く。二人にはゲルダと数人の女性騎士が護衛として付き添い、一行は久しぶりの散策を楽しんでいた。


「親父、久しぶりだな、邪魔するよ」

「あ、ゲルダ様?…ミカ様!レティシア様も!ようこそ、お越し下さいました!」

「はぁ…はぁ…店主さん、お久しぶりです」


 ゲルダが馴染みの店の扉を開けて店の中に入ると、奥から店主が転がり出てくる。美香は息を切らせながら店主に挨拶を返すと、女性騎士が差し出した椅子に崩れるように腰を下ろした。その姿を見て、店主が顔を曇らせる。


「…ミカ様、大丈夫ですか?だいぶお疲れのご様子ですが…」

「…まあ、何とか。久しぶりの遠出で、ちょっと息が上がっちゃって…」

「…そうですか!今、ミカ様の好物の肉巻きをご用意しますから、それまでゆっくりとお寛ぎ下さい!」


 美香の言葉に、店主は一瞬沈痛な面持ちを浮かべるが、すぐに笑顔を浮かべて厨房へと走って行く。ディークマイアーの館から此処までなら子供でも普通に歩ける距離だったが、ようやく杖無しで歩けるようになった美香にとっては、まだまだハードルが高かった。店主の大声を聞きつけ、近所の人達が次々に店へと押し掛けてくる。


「ミカ様、お帰りなさい!お元気になられて、良かった!お二人のお好きな干果を持ってきましたよ!」

「我らが御使い様!ウチの自慢の焼串も、是非お召し上がり下さい!」

「御使い様、地母神様!当店の焼き立てのパンとチーズを奉納いたします!ご賞味下さい!」

「ちょ、ちょっと待って下さい。今、お代を…」

「「「ミカ様からお代をいただくなんて、滅相もない!これは地母神様へのお供え物ですから、遠慮なくお納め下さい!」」」

「お供え物言うな!」


 美香が顔を赤らめて反論するも、店主達はにこやかに拒絶する。やがて根負けした美香が諦めて無銭飲食に取り掛かり、レティシアが残りの面子の飲食代を店主達に支払った。


「…ん…」


 肉巻きを頬張ると、口の中に塩の効いた肉汁とアスパラガスに似た野菜の歯ごたえが広がる。美香は久しぶりの好物に舌鼓を打ち、頬を緩める。


「あぁ…美味しい。疲れた体に、この塩味は沁みるわぁ…」

「止めなさいって、そのオヤジめいた感想」


 だらしなくテーブルに両肘をついて肉巻きを頬張る美香の姿にレティシアが苦笑し、自分も食事に取り掛かる。肉巻きを瞬く間に平らげた美香が、水を口に含みながら外の様子を見て、呟いた。


「…しかし、まだ工事が続いているんだね。あっちの街壁はライツハウゼン側なのに、あんなに人が群がって…」

「ああ…」


 ゲルダが美香の視線の先を追うと、街壁の上で石材の荷下ろしをする何人もの兵士達の姿が見えた。ゲルダは美香の方を向き、説明する。


「感謝祭までにあらかた終わってはいるんだが、アレだけ大きく地面が揺れたからね。何処に小さな綻びがあるかわからないし、総点検しているんだ。ハヌマーン達もまたいつ来るかわからんから、一緒に街壁の強化も行っている。暫くの間は、工事が続くだろうよ」

「そうですか…。みんな、大変ですね」


 説明を聞いた美香は、ゲルダの顔を見て頷き、もう一度街壁へと目を向ける。美香は、レティシアやゲルダ、女性騎士達の目に宿る光に気づかないまま、街壁の上で動き回る兵士達を眺めていた。

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