189:非ズ

 フリッツの指令は市民達には伝えられず、軍を中心に静かに浸透していく。市民達は「地母神」に対する信仰が厚く、フリッツが声を上げればすぐに呼応するだろうが、その分統制が利かず、美香に気取られる事になる。直前まで伏せ、最も熱狂的な状態で事を迎えるべきだった。




 ***


「王家が、ミカ様にそのような仕打ちを!?」

「ええ、エミール殿」


 マティアスから話を聞いたエミール・フォン・アンスバッハは思わず席を立ち、マティアスを睨み付けた。その中性的で端正な顔は強張り、両の拳は硬く握りしめられ、怒りに震えている。マティアスは、理不尽にもエミールから向けられた怒りの矛先を無表情に眺めた後、アンスバッハ家当主ヴィルヘルムへと目を向ける。


「ヴィルヘルム様。そのようなわけで、当家は王家の命令に抗い、この国から離反します。ヴィルヘルム様、誠に面倒な事ではありますが、当家亡き後の後始末を御家にお願いしたい。我が当主フリッツより、その様に言付かっております」

「父上!当家とディークマイアー家は、一心同体であります!此処はディークマイアー家に呼応し、当家も立ち上がるべきです!」


 マティアスの言葉を聞いたエミールは、ヴィルヘルムに決断を促す。アンスバッハ家は一昨年の暮れ、美香に領都ライツハウゼンの危機を救われている。エミールは、その事に恩義を感じており、その想いは昨年暮れのハーデンブルグの戦いでより一層深くなった。しかも、当の美香はその事を嵩に懸ける事もなく、市井の娘と何ら変わらない姿勢を貫いている。その素朴な振る舞いが朴訥ぼくとつとも言える北辺の人々の心を鷲掴んでおり、エミールもその御多分に漏れず、いわば美香の熱烈なシンパとなっていた。


 その美香に対する王家の仕打ちにエミールは我が事の様に怒り、心の中で王家に捧げた剣を叩き折ってヴィルヘルムに詰め寄る。しかし、ヴィルヘルムはエミールの怒りに同調せず、目を閉じ腕を組んだまま、静かにエミールを宥めた。


「まあ待て、エミール。そう感情的になるな」

「父上!?父上は、この様な話を聞いても、何も感じないのですか!?」


 同調しない父親の姿にエミールは怒りの矛先を変え、ヴィルヘルムを非難する。ヴィルヘルムは片目を開き、エミールを横目で見ながら口を開く。


「当家は純軍事的には弱小で、あまりにも寡兵だ。ディークマイアー家に呼応しても、中央は何の痛痒も感じないだろうよ。であれは、当家はディークマイアー家とは異なる方法で御使い様を支援し、御使い様が取りうる途に幅を持たせるべきだ。ディークマイアー家が『剛』を選ぶのであれば、当家は『柔』を選ぶべきではないか?」

「父上?」


 気勢を削がれたエミールにヴィルヘルムは一つ頷くと、マティアスへと顔を向け、言葉を続ける。


「あい分かった、マティアス殿。当家は一旦、御家と袂を分かつ事としよう。しかし両家の絆は、今後も些かも変わりないと、フリッツ殿へお伝えしてくれ。…ああ、せっかくだから、帰り際に当家の倉庫から干し魚を持って行ってくれるか?昨年は近年稀に見る豊漁でね、倉庫から溢れた干し魚をどう片付けようか、悩んでいたんだ」

「ヴィルヘルム様、ご高配、感謝いたします」


 マティアスは深々と頭を下げ、ヴィルヘルムは静かに頷いた。




 ***


「え、マジっすか!?フリッツ殿も、またどえらい決断をしたもんだねぇ!」

「ええ、テオドール様」


 テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼンは、館を訪問したマティアスの言葉を聞き、ソファの上に転がるように斜め上を向いたまま、大袈裟な声を上げた。テオドールは、風船のように膨らんだ腹の上に乗せたカップを口に運びながら、マティアスに問う。


「…で、フリッツ殿はその件に関し、ウチに何かやって欲しいとか言ってた?」

「特に何も」


 テオドールの問いにマティアスは首を振り、言葉を続ける。


「父フリッツは、こう申しておりました。『あの甕は重すぎて、我々には動かせない。甕の中に石だけ放り込んで帰ってくれば、それで良い』と」

「本人を前に『甕』呼ばわりする辺り、君もいい根性してるよねぇ」

「恐縮です」


 テオドールが斜め上を向いたまま不貞腐れた様に唇を突き出し、マティアスが頭を下げる。テオドールは背もたれに頭を預け、掌を前後に振った。


「まあ、いいや。御家の事情は良く分かったよ。フリッツ殿に『頑張って』って、言っておいてくれる?」

「畏まりました。それでは、失礼します」


 テオドールの返事にマティアスは深々と一礼し、席を立つ。その後ろ姿を見送ったテオドールは、暫くすると執事を呼び、騎士団長のヘルムートに使いを走らせた。




「お呼びでしょうか、テオドール様?」

「ああ、悪いね、忙しいところ」


 やがて自室へと顔を出したヘルムートをソファに座らせると、テオドールは掻い摘んで事情を説明する。話を聞くうちにヘルムートの眉がみるみる吊り上がり、その眼光が鋭くなった。


「…つまり王家は、御使い様を骨の髄まで使い潰そうという腹積もりですな?」

「そうだね。流石は王家。まったくもって、えげつないねぇ」


 テーブルの上にヘルムートの拳が叩きつけられ、ティーカップがけたたましい音を立てて跳ね上がる。そのままテーブルの上に拳を置き、誰も居ない正面を睨み付けるヘルムートの姿を、テオドールはつまらなさそうに眺めていたが、やがて口を開く。


「ヘルムートさぁ…今、暇?」

「暇です」


 冒頭、部屋に入ってきた時の台詞を忘却の彼方に放り投げ、二人は白々しい会話を続ける。


「…ウチ、今年カツカツでさぁ。今、お金ないんだよね。退職金はたんまり支払うから、暫くの間、おいとましてもらっていい?今なら北の方に行けば、いい働き口が見つかりそうだよ?」




 ***


 中原暦6626年、ガリエルの第6月。ヴェルツブルグの王城の玉座の間において、王太子クリストフはフリッツからの手紙を一瞥するとすぐに顔を上げ、手紙を運んできた使者に対して口を開いた。


「フリッツが此処まで強硬な態度を示すとは、想像していませんでした。…あなた方は、何か誤解されていませんか?私は、何もミカ殿を罰しようとして召還するのではありません。むしろこれまでのミカ殿の功績を讃え、最も高貴な地位と栄誉で報いようと思っての事。私の伴侶として迎え、御使い様の名声に相応しい、この国の頂点に君臨していただこうと思っての事です。何故、あなた方はそれを理解せず、本人の参内を引き留めてまで私の命令に抗うのですか?」


 クリストフの静かな、氷の様に冷たい指摘を受け、使者は背筋を伸ばし、自身の前に立てた杖に両手を添えて穏やかに、しかしはっきりと答える。


「御使い様は、その様な煌びやかな栄誉は、一切望んでおりません。彼女の望みはただ一つ、独りぼっちだったこの世界でようやく手に入れた新しい家族や友に囲まれ、慎ましくも暖かい生活を送る事。彼女にとって、ハーデンブルグにこそ、その全てが揃っていると言えます。その彼女をハーデンブルグから引き離し、ヴェルツブルグの王城へ連れてくるという事は、彼女の全てを奪い、冷たい黄金の檻に閉じ込めて見世物にしようとするに等しい暴挙。フリッツ殿は、大恩ある御使い様に対するあまりの仕打ちに義憤を覚え、自身の全てを賭け、この様な形で諫言するに至った次第であります」


 使者は、真っ白な頭髪を後ろになびかせ、まるで白馬の様な老いを感じさせない光を瞳に浮かべ、言葉を紡ぐ。


「殿下、御使い様のこれまでの功績に報いようとするのならば、これまで通りハーデンブルグで自由を謳歌していただくべきです。それが最も、この国の利益に繋がります。殿下、大鷲は、空を駆けて初めて空の雄となれるのです。黄金の籠の中に閉じ込めては、やがてカナリアよりも劣りましょう」

「…フリッツの手紙をわざわざ持ってきた上での、その口上。あなた方もフリッツとともに、私の命に叛くという事ですかな?…ヴィルヘルム」


 クリストフの氷点下を下回る指摘を受けたヴィルヘルムは、白い老いた顔に穏やかな笑みを浮かべる。


「まさかまさか。私はすでに家督を譲って引退した、老骨の身。彼の手紙も、引退の挨拶に伺った折に、フリッツ殿から預かっただけの事。当家はこれまでと変わらず、新当主エミールの下、王家に忠誠を捧げております」

「前当主に使い走りをさせるとは、些か教育がなっていないのではありませんか?」

「いやいや、これは手厳しい。ハヌマーンと国境を接する北辺では、使えるものは親でも使うくらいの気概がないとやっていけませんからな。実を取る北の男らしい行動と、お褒め下さい」


 クリストフの指摘に、ヴィルヘルムは自身の後頭部を叩きながらにこやかに歯を見せる。そして、すぐにクリストフの目を見て表情を改めた。


「殿下、今なら間に合います。真に御使い様の事をお想いであられるならば、婚儀を取り下げていただきたい。殿下にご英断いただけるのであれば、このヴィルヘルム、喜んで使い走りの命を賜りましょう」

「…北の言い分は、良く分かりました。ヴィルヘルム、下がりなさい」

「それでは、失礼いたします」


 ヴィルヘルムはクリストフに深々と一礼すると、杖をついてゆっくりと玉座の間から退出する。扉が閉まり、ヴィルヘルムの後姿が見えなくなると、クリストフは後ろに控える近侍へと命じた。


「グレゴールを至急、参内させなさい。ディークマイアーに謀反の動きあり、とね」




 近侍達に次々に命令を発するクリストフの手には、フリッツからの手紙が握られている。


 その手紙に書かれていたのは、ただの一行。王家に対する礼儀さえもかなぐり捨てた、痛烈な一文だった。




 ――― 当家は女衒ぜげんあらず。

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