155:弔意

「失礼します。…フリッツ様、お呼びでしょうか?」

「ああ。ミカ殿、わざわざすまんな。そこに座ってくれるか」

「はい」


 美香とレティシアが執務室に入ると、フリッツは腰を上げ、ソファを指し示して二人に着席を促す。部屋にはフリッツの他にはアデーレが居り、美香の向かいに腰掛けていた。


「それで、フリッツ様。…何があったのでしょうか?」

「ああ…」


 向かいに座るアデーレの、日頃見た事のない固い表情に、美香は不吉な予感を覚え身構える。フリッツは真っすぐな美香の視線を受け、内心を見透かされないよう顔の表情を漆喰で塗り固めながら、口を開く。


「悪い知らせだ。…西誅軍が敗退し、ハインリヒ殿が亡くなられたそうだ」

「…え?」


 予想外の言葉に、美香は顔を強張らせた。


 ハインリヒ・バルツァー。美香にとって、この世界における最初の魔法の師。そして、この世界に召喚されたばかりで右も左も分からなかった美香の境遇に最も早く同情し、心を砕いてくれた一人。美香の理解者となってくれたという点では、レティシアよりも早かったかも知れない。初めて受け持った生徒との距離感を計りかねた新人講師の様に、美香との会話が時折ギクシャクする時もあったが、総じて美香はハインリヒと知己を得られた事を喜び、彼に対し感謝の念を抱いていた。


 そのハインリヒが、突然、美香の前から消え去った。北伐軍がハーデンブルグを出立する際、病床に就いていた美香の許を訪れ、快復の祈願とヴェルツブルグでの再会を約束して去っていったハインリヒが、この世から突然いなくなり、柊也の時と同じように、死が予告なく目の前に立ち塞がった。


「…どうして、ハインリヒ様が!?一体、何があったのですか!?」


 美香は身を乗り出し、非礼にも気づかずフリッツの袖を掴んで激しく揺さぶった。その、美香の縋るような視線を受けたフリッツは、今にも泣き出しそうな愛娘を宥めるように、説明する。


「確固たる理由はわかっていない。ただ、話によると、セント=ヌーヴェルにおいて悪魔憑きが発生し、それに巻き込まれたという情報が最も有力だ。ミカ殿は、『悪魔憑き』を知っているか?」

「え、ええ。小耳に挟んだ程度ですが…」


 フリッツに問い掛けられた美香は、躊躇いがちに頷く。


 悪魔憑き。この世界で最も恐ろしいとされる呪い。悪魔に憑かれた者は、自身の意思に関わらずその身を悪魔に捧げ、悪魔はその身を憑代にして生を享けると、周辺を闊歩して人族を平らげていくと言われている。日本で培った知識から見ればにわかには信じがたい話であるが、この世界には魔法や魔物など日本には存在しない事象が跋扈している。もしかしたら、人族を標的とした寄生バチの様な魔物が存在しているのかも知れないと、美香は考えていた。フリッツの説明が続く。


「その悪魔によってハインリヒ殿と多数のハンターが犠牲となり、その中には、あのヴェイヨ・パーシコスキまで含まれている。本当に悪魔が降臨していたのであれば、捜索は二次災害を引き起こすからな。その後の敗戦の混乱もあって、真相は闇の中だそうだ」

「ヴェイヨさんまで…」


 ハインリヒに続いてフリッツの口から飛び出た人物の名を、美香はうわ言のように繰り返す。


 ヴェイヨ・パーシコスキ。彼は、美香にとって決して親しい相手ではなかったが、彼は意外と美香に気を配っていた。実は彼にとっての美香は、この世界で唯一の「被召喚者」という同郷の士であった。そして北伐において「ロザリアの槍」を見た彼は、美香に対し一層の執心を持ち、彼なりのアプローチをしていたのである。もっともその手法は、近所の居酒屋で気に入った店員にちょっかいを出す、酔っ払いオヤジの域を出ていなかったわけだが。


 ヴェイヨの「酔っ払いオヤジ」ぶりには美香も「困ったおじさんだ」とは思っていたが、決して忌み嫌っていたわけではなく、ゲルダのセクハラと同じように流していた。そういう意味では、ヴェイヨは意外と、美香にとって無縁の存在ではなかったのである。


 暫くの間呆然としていた美香だったが、ある事に気づくと慌ててフリッツに尋ねた。


「フリッツ様!殿下は!?リヒャルト殿下は、ご無事ですか!?」


 フリッツは美香から視線を外すと、首を縦にも横にも振らず、ただテーブルを眺めながら返答する。


「…無事ではある。怪我も病気も患っていない。ただし、その身はエルフに拘束され、中原から遠く離れた大草原で虜囚の身になっているとの事だ」

「そんな…」


 フリッツから立て続けに繰り出される凶報に、美香は心を乱打され、縋るものを見失ったかのように手を空中に留めたまま、力なく呟いた。


 王太子リヒャルト。王家の中で最も美香の身を案じ、心を砕いた人物。彼は王太子の地位を嵩に懸ける事もなく美香に接し、気さくに話しかけた。身一つでこの世界に放り込まれた美香が何ら不自由を覚えないよう気を配り、あれこれと品を取り揃えてくれた。柊也が行方不明となり、失意のどん底に落ちた美香を気遣い、王太子にも関わらずわざわざ美香の許へ見舞いにも来てくれた。少なくとも召喚直後の美香にとって、リヒャルトは、身寄りのない彼女を支え、その後ディークマイアー家の庇護に入るまでの間を取り持ってくれた恩人であった。


「ミカ…」


 西誅軍に身を投じた、大なり小なり彼女に心を砕いてくれた3人がことごとく不幸に見舞われた事実を知り、美香は下を向き、唇を噛んで動かなくなる。レティシアが美香に寄り添い、宥めるように肩を擦る。堪らずフリッツが口を挟んだ。


「ミカ殿、あなたのせいではない」

「え…」


 力なく頭を上げた美香の目を、フリッツは真っすぐに見据え、力強く語る。


「これは、あなたが西誅に参加しなかったから起きた事では、ない。これは、あなたの去就とは関係なく、起こるべくして起こった事だ。あなたがこの件で自分を責めるような事は、何一つ、ない!」


 フリッツは、まるで叱りつける様な強い口調で、美香の考えを否定した。


 美香は、西誅軍の出立にあたり、教会からの参戦要請を断っている。その事が、この敗戦の報を前にして、自責の念となって頭をもたげていたのである。フリッツは、美香の責任を追及するために凶報を伝えたのではない。美香と深い関係のある人物の重大な消息を、伝えたいだけだった。


「ミカさん、お気持ちは良く分かるわ。どうか、気を落とさないように。レティシア、ミカさんをよろしく頼むわね」

「わかっていますわ、お母様。…さ、ミカ、部屋に戻ろうか」

「う、うん…。フリッツ様、アデーレ様、お気遣い、ありがとうございます」


 美香はレティシアに促されるままに席を立ち、二人に力なく頭を下げると、執務室を出て行く。扉が閉まり、美香とレティシアの姿が見えなくなると、フリッツとアデーレは溜息をつき、肩の力を抜いた。フリッツは、西誅軍の敗戦によって陥ったハーデンブルグの苦境を、美香に伝えなかった。それは、彼女が抱えるべき心労ではなかった。




「ミカ様…いかがなさいました?」

「…え?…あ、うん。ちょっと、ね…」


 自室へと戻った美香を迎え入れたカルラ達は、美香の暗く沈んだ表情を見て、気遣わしげに声をかける。それに対し美香は顔を上げて笑みを浮かべようとするが、その努力は語尾とともに途中で霧散した。


 レティシアは、俯きがちな美香をベッドに腰掛けさせると自分も並んで座り、カルラへ顔を向ける。


「カルラ、気分を落ち着かせる様なお茶を淹れてくれるかしら?それと申し訳ないけど、暫くの間、みんな席を外して貰える?」

「レティシア様…畏まりました」


 レティシアの言葉にカルラは頷き、やがてサイドテーブルに2杯のハーブティを並べ、ティーポットを置いた。


「レティシア様、それではミカ様をよろしくお願いします」

「ええ。悪いわね、みんな」

「いえ」


 カルラと女性騎士達は、二人に一礼すると部屋を出て行く。扉が閉まるのを見届けたレティシアは、美香に擦り寄り、カップを手渡す。


「ミカ、カルラが美味しいお茶を淹れてくれたよ。一緒に飲もうよ」

「うん、ありがと」


 美香はコクリと頷き、レティシアからカップを受け取る。レティシアももう一つのカップを手にし、そのまま二人は暫くの間、静かにハーブティを口に含んでいた。


 カップの中身が半分ぐらいに減ったところで美香はカップをテーブルに置き、そのままカップを眺める。レティシアもカップを置くと左手を美香の手に添え、美香の髪に右手指を挿し入れて、髪の毛を梳くように指を動かしていた。


 やがて、カップを眺めながら、美香がぽつりと呟いた。


「私さ…親しい人が亡くなったの、初めてなんだよね」




「…そうなの?」

「うん」


 レティシアの、髪を梳く指の動きが止まり、彼女は美香の顔を覗き込むように問いかける。美香はカップを見つめたまま、言葉を続ける。


「私、お父さんもお母さんも、お爺ちゃんもお婆ちゃんも元気でさ。これまで家族の死に目に立ち会った事、ないんだ」

「…そう」

「うん…強いて言えば先輩の時なんだろうけど、あの時は行方不明だったし、その後先輩の手紙見たから…。だから、今回が初めてなんだ…」

「…」


 美香がカップを見つめたまま、凍えるように震え出した。。


「…やだなぁ…みんな、こんな気持ちを耐えているんだ…叫びたくて…喚きたくて…胸に熱いものがこみ上げて来るのに、喉から先に出て行かなくて…」

「ミカ…」


 レティシアの右手が側頭部へと回り、レティシアは呟きを続ける美香を抱き寄せる。美香はレティシアの首元に顔を埋めながら、うわ言のように言葉を紡ぐ。


「みんな…凄いね…こんな気持ちに独りで耐えてるんだ…やだなぁ…辛いなぁ…」

「ミカ…我慢しないで…辛かったら、泣いていいんだから…」

「…」


 レティシアの言葉に呼応するかのように、美香の目から一筋の涙が流れ落ちた。レティシアは動きを止めたままの美香の体を力いっぱい抱きしめると体を離し、涙を溜めた美香の両目を見据え、宣言する。


「ミカ、私、約束するわ。あなたより先には、絶対に死なないから」

「レティシア…」

「あなたに、私のための涙は、流させない。あなたより一日でも長生きして、あなたを看取ってから死ぬわ。だから安心して、ミカ…」

「うん…」


 レティシアは目に涙を浮かべながら微笑むと、目を閉じ、ゆっくりと顔を寄せる。美香も涙を押し流すかのように瞼を閉じ、二人は静かに唇を重ね、動きを止める。


「…ん?…んん…」


 やがてレティシアが頭を振り始め、美香はレティシアの動きに思考をかき乱されながら、頭の片隅でぼんやりと願った。


 ハインリヒ様、ヴェイヨさん。せめて安らかにお休み下さい。そして、リヒャルト殿下と、無事に再会できますように…。




 後に美香の願いは叶い、リヒャルトと再び相まみえる事になる。


 ――― 二人の望まない形で。

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