156:苦悩する長子

「…何故だ?何故、これで動かないのだ!?」


 馬車の車窓から見えて来た光景に、マティアスは焦燥と疑念を露わにした。




 ロザリアの第5月初頭、フリッツの長子マティアスは、妻デボラとともにヴェルツブルグの街門を潜り抜けていた。


 先々月、ヴェルツブルグから到着した1通の手紙。王家から届いた無情とも言える援軍要請拒否の回答は、ハーデンブルグにとって到底受け入れられるものではなかった。ハーデンブルグは単なる辺境ではなく、対ガリエルの防衛の要であり、エーデルシュタインの生命線と言っても過言ではない。その生命線をたった1通の手紙で切り捨てようとするヴェルツブルグに対し、フリッツは憤激とともにマティアスを送り出したのである。忍び寄るハヌマーンの脅威は、ディークマイアー家やアンスバッハ家の力だけでは、太刀打ちできない。何とか中央を動かし国を挙げて対処しなければ、ハーデンブルグは陥ち、中原が崩壊する。今やマティアスの手に、ハーデンブルグの運命がかかっていた。


 そのマティアス夫妻の目に飛び込んで来た光景。それは、平時とは到底思えないほどの、多くの騎士や兵士達の姿だった。並木越しに見える兵舎と修練場では、ディークマイアー家の保有する兵力を凌駕するほどの多くの兵士達が汗を流し、訓練に勤しんでいる。そして、行き交う荷馬車には多くの小麦や武具が積まれ、次々と兵舎へと運び込まれていた。


「マティアス様」

「…あ、ああ。すまない、デボラ」


 何処までも続く兵士達を睨み付けたまま、拳を爪が食い込むほど強く握りしめたマティアスを気遣い、デボラがマティアスの拳にそっと手を重ねる。デボラの、柔らかい手の感触に気づいたマティアスは、愛する妻を心配させまいと、ぎこちない笑みを浮かべた。


「これが、これからハーデンブルグに向かう兵なのであれば心強い限りなのだが、その様には到底見えないな。我々の窮状を訴え、何としてでも中央を動かさなければ、ならんな」

「はい、マティアス様」


 マティアスはデボラの目を見て頷くと、向かいに座る執事に指示を出す。


「急いでコルネリウス・フォン・レンバッハ様に取り次いでくれ。何時でもいい、すぐにお会いしたいとな」

「畏まりました、若様」


 執事が車窓を開いて並走する騎士に伝達する姿を見ながら、夫妻はマティアスの膝の上で手を重ねたまま、気を引き締める。


 一行は、ヴェルツブルグの邸宅に向かって、人々の行き交う街中を通り過ぎて行った。




「閣下、お忙しい中お時間をいただき、誠にありがとうございます」

「いや、気にせんでよい、マティアス殿。フリッツ殿はご壮健か?」

「はい、おかげをもちまして、精力的に活動しております」

「そうか、それは良かった」


 その日の夜遅く、コルネリウスからの返事を受け取ったマティアスは、すぐさまコルネリウスの邸宅へ訪問し、二人は応接室で顔を会わせていた。マティアスは挨拶もそこそこに、口火を切った。


「閣下、先に書簡をお送りいたしました通り、此度のハヌマーンの攻撃は、これまでとは全く様相が異なっております。たまたまミカ殿のお陰で辛うじて撃退できておりますが、ミカ殿はそのたびに倒れ、二度も寝たきりになりました。恥ずべき事に、ハーデンブルグは、ひいては我が国は、ミカ殿の身体を対価に勝利を買ったのです。彼女は、我が国に何ら縁も恩義もなく、自分の意思とは無関係に呼び出され、ただ其処に居たというだけで、その身を犠牲にしてハヌマーンを食い止め、我が国を救ったのです」

「翻って、我が国の兵達は何をしているのですか?体を張って救ってくれた彼女に代わって戦いにも出ず、戦場から遠く離れたヴェルツブルグに集まり、訓練を繰り返すだけ。此処に来る途中で兵舎を拝見いたしましたが、あの規模であれば、当家が要請した兵力を優に上回っております。閣下、何故彼らは、ハーデンブルグに向かわないのですか?」

「…」


 マティアスに問われたコルネリウスは、唇を噛む。やがて、コルネリウスは、ハーデンブルグの期待に応えられない自分を呪いながら、重苦しく口を開いた。


「…クリストフ殿下のお考えだ。あの兵は、西へ送られる」

「何ですって!?」


 コルネリウスの言葉を聞いたマティアスは身を乗り出し、テーブル越しにコルネリウスに詰め寄った。


「今、我が国の何処に、ハーデンブルグ以上の危機が迫っているというのですか!確かにラディナ湖西部が我が国の重要な防衛線である事は、承知しております。しかし、あそこに生息するのは一般的な魔物だけであり、ハヌマーンとは接しておりません。ましてやラディナ湖西部の防衛線は長いとは言え、10,000にも及ぶ兵力が駐留しています。何故そこに、存亡の危機にあるハーデンブルグを差し置いてまで、兵を送るのですか!?」

「…リヒャルト殿下が抑留され、西誅軍が戻っていないからだ」


 コルネリウスの言葉は、マティアスへの答えになっていない。しかしマティアスは、コルネリウスの言葉の裏に隠された真意を正確に読み取り、愕然とする。


「…つまり、王家は、民よりも王冠を選んだ、という事ですね?」


 マティアスの呟きに、コルネリウスは答えない。ただ、マティアスの非難めいた視線から目を逸らさず、口ひげを震わせ、真っすぐに受け止めた。マティアスの非難は王家に向けられたものであり、決してコルネリウスを非難するものではなかったが、コルネリウスはエーデルシュタインの中枢にいる重鎮でありながらその考えを覆せなかった自分を恥じ、その非難を甘んじて受け止めていた。


「…マティアス殿」


 やがてコルネリウスは、怒りの篭った低い声で呼びかける。


「明日、私が殿下に面会を取り付ける。是非、マティアス殿から殿下に、ハーデンブルグの窮状と我が国の危機を訴えてくれ。勿論、私も口添えいたそう」

「ありがとうございます。よろしくお願いします、閣下」




 翌日、コルネリウスとともに王城へと参内したマティアスは、クリストフに対し、ハーデンブルグの窮状を訴え、援軍を求める。クリストフは、宰相ゲラルト・フォン・ドッペルバウアーと、軍中枢を掌握しつつあるグレゴール・フォン・ケルヒェンシュタイナーを伴っていた。


「殿下、今やハーデンブルグは存亡の危機に立たされております。ハヌマーンどもは近年稀にみる規模で繰り返しハーデンブルグへ押し寄せ、ハーデンブルグは僅か4分の1という寡兵をもって立ち向かわなければなりません。ご存じの通り、ハーデンブルグは、ガリエルの凍える息吹と中原という温室を隔てる、たった1枚の薄い扉なのです。その扉がハヌマーンの手によって繰り返し打ち据えられ、傷つき、軋みを上げています。そして、その扉を支えているのは、もはや当家の騎士達ではありません。…たった一人の、か弱い少女なのです」

「殿下、何故、兵を北に送っていただけないのですか?私は此処に来る傍ら、沿道で演習する兵士の一団を目にいたしました。その誰もが屈強で、重厚な鎧に身を包み、長大な剣を軽々と振り回しておりました」

「今、ハーデンブルグを支えているのは、その兵士達の誰よりも小さく、華奢で、剣の振り回し方も知らない、一人の少女なのです。我々ハーデンブルグの者達は、誰もが、自らの不甲斐なさと無力感に身を苛まされながら、たった一人の少女に守られているのです」


 マティアスは次第に激情に駆られながら、クリストフに懇願する。


「殿下、私どもハーデンブルグの者達の力の無さを、いくらでも蔑んでいただいて結構です。ですから、その私どもをたった一人で支え、ハヌマーンに立ち向かおうとする少女のためだけに、兵をお送り下さい。今や彼女が支えているのは、辺境の一都市ではございませぬ。彼女にとって何の縁もないはずの我が国を、中原の安寧を、たった一人で支えているのです!」

「…」


 マティアスの悲鳴にも似た陳情の声が部屋の中を木霊し、やがて静寂に包まれる。誰もが口を閉ざし、時だけが過ぎていく中、クリストフが静かに口を開いた。


「マティアス。ハーデンブルグを取り巻く状況は、良く分かりました。我が国がかつてない苦境に陥る中、ミカ殿が『ロザリア様の御使い』の名に恥じぬ活躍をされている事に、ただただ感謝するばかりです」


 そう言葉を紡いだクリストフは、凍てついた瞳で真っ直ぐにマティアスを見据え、無感動に言い切る。


「ですが、私は王家に連なる者として、この国の全てを見渡し、国全体での最善手を選ばなければなりません。狭い地域の美談に心を動かし偏った支援を行っていては、国全体を傾ける事になります。今、我が国が最も力を入れなければならないのは、西。カラディナやセント=ヌーヴェルへと通ずる、西の大動脈。これをガリエルに断たれたら、我が国は窒息死します。西誅の失敗によって我が国の兵力は激減し、今や一兵の余裕もありません。限りある兵で最大の成果を挙げるために、今、他に兵を割くわけにはいかないのです」

「殿下!到底納得できません!ラディナ湖西部には10,000もの兵が健在で、未だガリエルとの戦いは聞こえておりません!翻ってハーデンブルグはすでに二度もハヌマーンの攻撃を受け、それに立ち向かう兵は僅か2,000です!ハーデンブルグの5倍の兵力を持ちながら、敵の姿を見る前から救援を求めるとは、ラディナ湖西部の兵達は、いつから軟弱者になったのですか!?」

「マティアス、ラディナ湖の兵達を侮辱するつもりか!」


 次第にヒートアップし、引き下がろうとしないマティアスに対し、グレゴールが恫喝する。そのグレゴールに対し、コルネリウスが言葉の刃を突き込んだ。


「侮辱するつもりなど毛頭ないぞ、グレゴール。ただ、私が暫く見ない間に、我が国は随分と兵を甘やかすようになったものだな。暴漢に襲われる寸前の市井の少女を捨て置き、武器を持った屈強な兵士達を真っ先に救いに行くとは、お主も仁義に厚くなったのう」

「…コルネリウス、それ以上減らず口を叩くと、承知せぬぞ」


 グレゴールが太い眉を逆立て、底冷えするほどの低い声を上げる。その途端、コルネリウスが目を剥き、周囲を圧するほどの大音声を上げた。


「グレゴール!軍が守るべきは民の安寧であり、国体の維持はこれ全て民の生活のためである!民は為政者の貴さや煌びやかさに従うのではなく、為政者が民に向ける誠意と慈しみの姿勢に従うのだ!為政者が民から目を背けた時!…それが、国の終わりだ」


 コルネリウスはそう言い放つと、グレゴールの返事を待たずしてクリストフに向き直る。


「殿下、ゆめゆめお忘れなきよう。民の目は、節穴ではありませぬ。殿下がどちらを向いているか、民は常に殿下を見張っております。それを踏まえた上で、今一度、お聞かせ願いたい」

「…コルネリウス。あなたの言葉の重みは、他の者と桁が違いますね。私も色々考えさせられます」


 コルネリウスの重い視線を受け、クリストフが目を伏せて溜息をつく。だが、クリストフが再び目を開くと、コルネリウスの視線は、クリストフの瞳が放つ分厚い氷の壁に阻まれた。


「だが、それでも私が出す結論は、西です。ハーデンブルグは地の利を抑え、我が国で最も強固な街壁に囲まれています。ハーデンブルグに立て籠もれば、万を超えるハヌマーンにも耐えられます。マティアス、御使い殿とともにハーデンブルグを死守しなさい。西が落ち着きを取り戻したら、すぐにでも援軍を送ります。それまでの辛抱です」




 ***


「マティアス様…」


 館に戻ったマティアスを出迎えたデボラは、夫の姿に胸を締め付けられた。


 日頃、民を愛し、配下の者達と苦楽を共にしながら人々の希望が失われないよう努めて明るく振る舞う夫が、無力感と悔しさに苛まされ、苦悩の表情を浮かべていた。デボラは夫の正面に立って右手を取ると、静かに自分の豊かな胸に引き寄せ、両手で覆う。マティアスは下を向いて唇を噛みながら、激情を右手に籠め、デボラの柔らかく温かい肉に指を食い込ませた。


「…ん!」

「…まだだ。まだ、時間はある…。諦めるな。何としてでも、兵を連れて戻るんだ…」


 デボラは苦痛に顔を曇らせながら夫に身を委ね、マティアスは妻の胸を歪ませたまま、自らの決意を繰り返し呟いていた。

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