122:脱出

 柊也は平伏したまま動かなくなったセレーネを宥めすかし、何とか立ち上がらせると、大きな溜息をついた。


「勘弁してくれ、セレーネ。君にまで畏まられると、俺の居心地が悪くて仕方ない」

「はい、ごめんなさい、トウヤさん」


 柊也の嘆息を見たセレーネは、微笑みを浮かべながら小さな舌を出す。そのナディア譲りの小悪魔的表情から柊也は目を逸らすと、わざとらしい咳払いをした。


「さて、サーリアとの手続きも終わったし、まずはここから脱出するか。シモン、セレーネ、ついて来てくれ」


 そう二人に伝えると、柊也は円筒状の壁際に突き出た、特に広く高い段差へと移動する。右手で梯子を取り出すと壁に立てかけ、二人を下に待たせて上に登って行く。そして、段差の上から床に向かって、まずはウレタンマットを落とし、二人に並べさせた。


「色々出すから、マットからどかしてくれ」


 柊也は段差の上から二人に声をかけると、二人が初めて見る物を次々にマットへと落としていく。それらは、どれも大きく重くてセレーネでは動かせず、シモンが獣人の膂力に任せて動かすのがやっとの物もあった。


 幾重にも折りたたまれた、大きく分厚い、見た事もない材質の布。ひと際重く、太い、金属製の円筒。金属の塊のついた骨枠。籐で編まれた大きな籠。そして、これらを運搬する台車。シモンが次々にこれらをマットから運び出すと、最後に柊也がマットに飛び降り、腰を叩きながらシモンに頼む。


「シモン、悪いがこれを中央まで運んでくれ。俺とセレーネでは持ち運べない」

「わかった、任せてくれ」


 柊也はひと際重い布や籠をシモンに頼むと、自分は円筒を斜めに傾けて転がしながら中央へと運ぶ。非力なセレーネは、金属の骨枠を抱え、引き摺るように運んで行った。


 2往復ほどで全ての荷物を中央に運んだ柊也は、シモンとセレーネに布を広げるよう指示すると、自分は中央で各部品を繋いでいく。布はかなり大きく、中央から広場の壁際まで引き延ばしても足らないほどだった。


「あああああああっ!」


 下を向き、黙々と作業する柊也の耳に、セレーネの叫び声が聞こえる。柊也が顔を上げると、壁際で柊也に背を向けて女の子座りする、全裸のセレーネが見えた。妖精の様に白く美しい、背中からお尻のラインが、柊也から丸見えになっている。


「あ、また忘れてた」

「トウヤさん、ううう…」


 駆け寄る柊也に背を向けたまま、セレーネが振り返って顔を赤らめる。セレーネに服を取り出して渡す柊也に、シモンが情けない声を上げた。


「トウヤぁ、お腹が…」

「すまん、シモン。終わったら好きな物を食べさせるから、もう少し我慢してくれ」


 そう答えると柊也は、もぞもぞと着替えるセレーネに声をかけた。


「こっちはシモンに任せよう。セレーネ、着替え終わったら、俺の方を手伝ってくれ」

「あ、はい!わかりました!」

「トウヤ、そんなぁ…」


 立ち上がって広場の中央へと向かう柊也に、セレーネが嬉しそうについて行く。そんな二人の後姿を、シモンは捨てられた子犬の様な顔付きで眺めていた。




 広場の中央に戻った柊也は、セレーネを招き寄せると、籠に繋がれ横倒しになった骨枠の脇にしゃがみ込む。セレーネは、柊也の後ろで前屈みとなり、柊也の肩越しに前を覗き込んだ。


「セレーネ、この骨枠と、さっきの布の紐をこうやって繋げてくれ」

「あ、はい、わかりました」


 セレーネに繋げ方を説明すると柊也は後ろを向き、至近距離で前屈みのセレーネの顔を認めると、仰け反るように体を反らす。


「トウヤさん?」

「あ、いや、すまん。近すぎて驚いただけだ」


 慌てて立ち上がって自分の尻を叩く柊也を見ながら、セレーネも体を起こす。その、目を逸らす柊也を見たセレーネは、先ほどの柊也の強い否定を思い出し、湧き上がる想いを抑えられなくなった。


「トウヤさん」

「何だ?」


 セレーネに名を呼ばれ、恐る恐る顔を向けた柊也の目を真っすぐに見つめ、セレーネは湧き上がる想いを口に乗せる。


「…私、トウヤさんの事が大好きです」

「へ?」

「だからトウヤさん、お母さんじゃなくて、私を見て下さい」

「え、ちょっと、セレーネ!?」


 突然の告白に、柊也はセレーネを見て顔を赤くする。そんな柊也を見たセレーネは、頬を染めながら、嬉しそうに微笑んだ。


「さ、トウヤさん。これ、さっさと組み立てましょう!」

「え?あ、ああ、そうだな」


 そう締めくくったセレーネは骨組みの前にしゃがみ込み、鼻唄を歌いながら紐を繋いでいく。そんなセレーネの後姿を、柊也は手を止め、暫く眺めていた。




 ***


「…で、トウヤ。これは、一体何だい?」


 組み立てが終わり、横倒しになった籠の脇で、シモンは分厚いステーキを切り分けて口に運びながら柊也に問う。セレーネは海老フライを口にくわえており、海老の尻尾が口先で上下に動いている。一人空腹を覚えていなかった柊也は、二人の食事風景を眺めながら、シモンの質問に答えた。


「これは熱気球と言って、空を飛ぶための乗り物だ」

「へ?空?」


 シモンは肉の刺さったフォークを口で咥えながら、上を見上げる。セレーネも一緒に上を向き、海老フライの尻尾が浮きの様に逆立ちした。


「…トウヤの世界では、人が空を飛んでいるのか?」

「ああ。遠くに行く時は、飛行機と言って、これとはちょっと違う乗り物だが、空を飛んで移動するんだ。ちょうど、大草原から此処までの距離になると、飛行機だな。この距離なら半日もかからないよ」

「は、半日…」


 呆然と呟いたセレーネの口から、海老フライの尻尾がこぼれ落ちる。柊也は頷き、説明を続ける。


「まあ、飛行機は流石に俺には取り出せないし、操縦もできない。ただ、熱気球は飛行機よりは容易だし、何より垂直に上昇できるのが、ここからの脱出にピッタリなんだ」


 操縦するのは、初めてだけど。二人を心配させないよう、肝心な事を口の中に押し留めると、シルフに問い掛ける。


「シルフ、この後の天候と風速を教えてくれ」

『はい、マスター。本日は、一日中晴天が続きます。現在の風速は1m未満。ただし、上空にはやや強い北西の風が吹いております。この後も夜半までは、穏やかな天気となるでしょう』

「お、ちょうどいい天気だ。それと、この辺に空を飛ぶ大きな魔物は、いるのか?」

『いいえ、マスター。サーリアの管轄地には、マスターを害するほどの大型の鳥類や飛行型の爬虫類は、おりません』

「ありがとう、シルフ」


 柊也は安堵の息を吐いて、シルフに礼を言う。そして、二人が食べ終わるのを見届けると、立ち上がって声をかけた。


「さて、天気が良いうちに、此処から脱出しよう」




 柊也は、二人に球皮と呼ばれるバルーンの口を広げさせると、横倒しのままバーナーに点火し、中に熱風を送り込む。球皮は次第に膨らんで大きくなり、やがて自立して宙に浮くと、三人は次々とバスケットに乗り込んだ。そしてそのまま火入れを続け、ついにバスケットが地面から離れると、熱気球は円筒の広場の中をゆっくりと上昇していく。


「わ、わ、本当に飛んでる!すごーい!」

「ちょ、ちょっと、セレーネ!揺らさないで!」


 セレーネがはしゃぎながらバスケットの縁に噛り付いて周りを見下ろし、シモンはバスケットの中央で柊也に噛り付いたまま、セレーネを注意する。その間にも熱気球は高度を上げ、やがて広場の高い壁を乗り越え、ついに空中へと飛び出した。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ…」


 セレーネが四方を見渡しながら、感嘆の声を上げる。今まで自分達がいた、サーリアの巨大な円形の建物は眼下から少しずつ移動しながら、ぐんぐん小さくなる。建物の周りでは、何頭かのハヌマーン達がこちらを見上げているようだが、次第に米粒の様に小さくなっていった。


 そして、視線を上げると、そこは四方全てが地平の彼方まで望め、そこには様々な色が大地のキャンパスを彩っている。鬱蒼とした森は濃い緑に、草原は黄緑に、そして赤茶けた大地や湖の青が彩を添え、多彩なモザイク画が描かれていた。


「凄ぉぉぉぉぃ!トウヤさん!凄い綺麗です!素敵!」

「ああああああああ、セ、セレーネ、お願い、動かないで、動かないでったらぁ…」


 セレーネが興奮しながら、四方の絶景を眺めようと狭いバスケットの中を動き回り、シモンが震えながら柊也にしがみ付いてしゃがみ込む。柊也もバーナーを慎重に操作しながら、初めて見る風景に目を奪われる。元の世界とは異なり、人の手が全く入っていない大自然を、食い入るように見つめていた。




 熱気球は高く舞い上がると、やがて上空を流れる北西から吹く風に乗り、ゆっくりと南東方向へと移動し始めた。柊也とセレーネの二人は、刻々と移り行く風景を飽きもせず眺め続ける。熱気球はやがて、鬱蒼とした森の上を飛び、眼下は一面、何処までも濃い緑に覆われる様になった。


「…パパぁ」

「シモン?」


 周りに目を奪われていた柊也は、下から聞こえる情けない声と自分の足が揺さぶられる感触に気づく。下を向くと、そこにはバスケットにへたり込んだまま、涙目のシモンが、柊也を見上げていた。恐怖のあまり幼児化してしまったシモンに気づいた柊也は、慌ててしゃがみ込んで、シモンに声をかける。


「大丈夫か、シモン?もう少し我慢してくれ。着陸できそうな所が見つかったら、すぐに降りるから」

「パパぁ…抱っこしてぇ」

「ああ、ちょっとだけ待ってくれ。セレーネ、熱気球の操作方法を教えるから、代わってくれ」

「あ、はい。わかりました」


 柊也はバーナーと排気弁の操作を手早くセレーネに伝えると腰を屈め、両手を伸ばすシモンに頭を預ける。シモンは柊也の首に両手を回すと、バスケット内に腰を下ろした柊也の上に跨り、柊也を抱き締めたままプルプルと震え出した。一人佇むセレーネは、時折バーナーを調節しながら、周囲に広がる壮大な景色を食い入るように眺めている。


 そのまま三人を乗せた熱気球は、穏やかな空の下で空中散歩を楽しんでいた。

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