121:マイ・マスター

「…レーネ、セレーネ」

「…ん…」


 ふわふわとした浮遊感の中で微睡んでいたセレーネの意識が、次第に覚醒していく。まるで深海から浮上するかのように視界を覆っていた暗闇が白く輝き始め、セレーネは眩しさを覚えながらゆっくりと瞼を開いた。


「セレーネ、目が覚めたか?」

「…シ、モンさん?」

「ああ」


 仰向けの状態で抱きかかえられたセレーネの目の前は、光り輝く繊細な銀色のカーテンで彩られ、その中央には安堵の色を浮かべたシモンの顔が浮かび、セレーネを見下ろしていた。セレーネはシモンの艶やかな顔を眩しそうに見上げながら、口を開く。


「シモンさん、私、どうして…」

「セレーネ、君はハヌマーンに襲われ、攫われたんだ。危うく殺されるところだったが、間一髪間に合って、本当に良かった」

「え…?そうなん…ですか?」

「そうか…覚えてないか」

「え、ええ…」


 シモンの説明を聞いても、最後に見た光景が「ボクサー」だったセレーネには、ハヌマーンに襲われた事が思い出せない。それでも自分の陥った状況が少しずつ呑み込めてきたセレーネの耳に、柊也の声が聞こえて来る。


「セレーネ、大丈夫か?何処か痛いところはないか?」

「…トウヤさん?」


 セレーネが見上げる先でシモンが顔を上げると、入れ違いに視界の反対側から柊也の顔が現れ、セレーネの顔を覗き込んできた。その柊也の顔に、今まで見せた事のない不安そうな表情を見つけ、セレーネは内心驚く。目を瞬かせながら首を横に振るセレーネの前で、柊也が安堵の溜息をつき、頭を下げる。


「セレーネ、すまなかった。俺の見立てが甘かったばかりに、君を危険に晒してしまった。君が無事で良かった…本当に良かった」


 柊也はそう呟くとセレーネの背中に左手を回し、片腕でセレーネを抱きしめる。初めて柊也に抱きしめられたセレーネは、胸を高鳴らせながらも言葉を紡ぐ。


「トウヤさん、そんなに気を煩わせないで下さい。私には、あなたをサーリア様の御許にお連れする使命があるんです。それが叶うなら、例えこの体にどんな傷がつこうとも、後悔はありません」

「駄目だ!セレーネ」

「…え?」

「…あ…」


 突然、柊也がセレーネから離れ、セレーネの目を見て強く否定する。セレーネは驚き、柊也も自分の発言に驚く。やがて、柊也が目を逸らすと口を尖らせ、ぶっきらぼうな物言いで言葉を続けた。


「…ほら、君は女の子なんだから。君に傷がついたら、グラシアノ殿に申し訳が立たない」

「私はあの時、散々傷物にされたんだけど?」

「シモン!?あれは止むを得ずだなぁ!…いや、悪かったよ、シモン」


 シモンのやっかみを受け、袋小路に陥った柊也が頭を下げる。そんな柊也を見ながら、シモンがくっくと笑う。


「冗談だよ、トウヤ。あの時、あなたが私を傷物にしなければ、今の私はいないんだ。感謝しているよ、トウヤ」

「…」


 シモンの皮肉交じりの感謝を受け、柊也が不貞腐れる。自分の頭の上でやり取りする二人を見ながら、セレーネは先ほどの柊也の強い否定に、淡い期待と体温の上昇を覚え、柊也から逃げる様に下を向いた。


「…え?」


 驚いたセレーネの視線の先では、起き上がった事で毛布が腰まで捲れ、自分の慎ましい丘が露になっていた。そして、その丘の向こうには純白の肌の平原が続き、地平線に生える草むらにまで通じている。


「え?え?ちょちょちょちょっと!?」

「…あー」


 みるみる顔を赤くするセレーネを見て、柊也がそっぽを向き、シモンが説明する。


「セレーネ、君は気を失っている間に、ハヌマーンに服を破かれたんだ」

「ええええええええええええええ!?」


 セレーネは慌てて毛布で胸を押さえ、恐る恐る柊也へと顔を上げる。


「…トウヤさん、…見ました?」

「…すまん…」

「…」


 セレーネの質問に、柊也はそっぽを向いたまま、顔を赤くする。セレーネはそんな柊也の横顔を上目遣いで窺いつつ、いつまでも暴れ回る心臓を必死に押さえつけ、毛布を抱えて丸くなっていった。




 セレーネが右手で取り出した服に着替えると、柊也は二人にカービンを渡して広間の中央へと進んだ。


「入口はパンツァーで塞いだから、大丈夫だとは思うが、念のため警戒しておいてくれ」

「それは構わないんだが、此処からどうやって脱出するんだい?」

「それは後で説明する。まずはサーリアとの接触だ」


 柊也は広場の中央に立つと、入口と反対側の壁に体を向ける。そこには迷路のような溝が走る、広間の半円ほどの長い歪曲したパネルがはめ込まれていた。シモンとセレーネも1歩後ろに下がって、柊也に従う。


「サーリア、俺だ。柊也だ。要請通り、此処まで来た。管理者就任手続きを進めてくれ」


 柊也の声が広間に木霊した途端、前方のパネルの溝に、無数の光の点が浮かび上がった。光の点は溝に沿って上下左右に無作為に動き回り、円筒状の広間の壁にも無数の光の帯が浮かび上がる。そして、パネルの光の点は、やがて小魚の群れの様に群がり、パネルから発する女性の声に連動するように形を変えていく。


『改めて、初めましてシュウヤ様。システム・サーリア、メインシステムに、ようこそいらっしゃいました。これより、管理者就任手続きを開始します』


 女性の声に続き、柊也の目の前に、演説台の様な太い柱が床からせり上がる。柱は柊也の胸元までせり上がると動きを止め、柊也側に傾斜した上部の一部が淡く輝いた。


『シュウヤ様、お手を点灯部分に翳して下さい』


 柊也が言われるままに柱の上に手を翳すと、光が淡く点滅する。


『シュウヤ様の遺伝子情報、声紋、網膜パターンをメインシステムへと登録。続けて、各種権限付与手続きに入ります』




 ***


 警戒を忘れ呆然と見上げたままのセレーネの前で、サーリアが光り輝き、天上からサーリアの声が降り注ぐ。


『…メインシステムのモード変更権限付与…完了…各ユーザへの認可権限付与…完了…ナノシステムの全操作権限付与…完了…ナノシステム使用時の代償支払義務免除…完了…』


 サーリアは、セレーネの理解できない言葉を次々に発し、その一言々々毎に、まるで柊也を祝福するかの様に円筒状の壁がひと際明るく瞬く。その光の中心で、柊也はセレーネに背を向け、左手を台に置いたまま、微動だにせず立ち続ける。


「…サーリア様…」


 光の点が縦横無尽に走り回る前方のパネルを見ながら、セレーネが小さく呟く。その高速で移動する光の点は、まるで飼い主の前を無邪気に走り回る子犬の群れを思わせる。それはまさしく、サーリアが悠久の眠りから覚め、真の主人にまみえた事に対する歓喜の姿に他ならない。セレーネは、そう確信する。


 やがてサーリアは、そんなセレーネの確信を裏付けるかのように、言葉を発した。


『…お待たせしました、シュウヤ様。管理者就任手続きが、完了いたしました。シュウヤ様には、システム・サーリアに対する全権限が付与されました。今後は、ガイドコンソール・シルフを通じ、システム・サーリアに何なりとお申し付け下さい、マイ・マスター』

「マイ・マスター…」


 サーリアの言葉を口ずさんだセレーネの体の芯に、痺れるような感覚が走る。身を震わせたセレーネの前で、パネルの光の点が柊也に一礼するかの如く一斉に下へと移動し、やがて少しずつ暗くなっていった。




 ***


 床へと静かに沈降する柱から左手を離した柊也は、手首を回しながら、呆然としたままの二人へと振り返った。


「シモン、セレーネ、お待たせ。…どうした、二人とも?ぼーっとして」

「…え?ああ、すまない、トウヤ。まさか、自分がサーリア様のご降臨に立ち会うだなんて、未だに信じられなくてな」

「まあ、気持ちはわかるよ。中原はもちろん、長命なエルフの伝承にも一度も現れていない、初めての出来事だからなぁ」


 柊也は、未だに目を瞬くシモンに答えると、達成感に浸るように大きく息をつく。そんな柊也に、セレーネが声をかけた。


「トウヤさん」

「どうした?セレーネ」


 柊也が顔を向けると、セレーネは柊也の顔を一心に見つめている。そのエメラルドを湛える瞳に、あまりにも真摯な輝きを見た柊也が動揺する中、妖精の様に形の整った美しい唇が開く。


「…こんな言い方、トウヤさんは嫌がるかも知れないけど、どうか今だけは我慢して下さい」


 そう前置きすると、セレーネは3歩下がり、柊也の前で両膝をつく。そして両手を床に添えると、柊也の目を真っすぐに見つめ、口を開いた。


「トウヤ様。この度は、サーリア様の管理者就任、誠におめでとうございます。サーリア様がトウヤ様を奉戴し、新たな時代を迎えられました事、このグラシアノの娘 セレーネ、心よりお慶び申し上げます。これより我らエルフ八氏族はことごとくトウヤ様につき従い、トウヤ様とサーリア様の御心のままに獅子奮迅の働きをいたします事、全エルフを代表してサーリア様に、いえ、トウヤ様に誓います」


 そう一気に奏上すると、セレーネは両手をついたまま頭を下げ、そのまま動かなくなった。




 そして、目前の床を見据えたまま、狼狽する柊也の影を視界の隅に認めつつ、セレーネは声にならない誓いを立てた。




 ――― 私の人生は、あなたとともに。マイ・マスター。

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