96:サーリア
西誅軍の撤退を見届けたティグリは、自分達の森へと引き返した。
リヒャルト達抑留者については、リコ率いるセルピェン族が預かり、セルピェンの森へと連れて行く事になった。ティグリは直接西誅軍から被害を受けており、リヒャルト達への風当たりが強い。また、ティグリには柊也がいるため、偶然の再会を避ける必要もあった。ラトンには、ミゲルから「ウチは血の気が多いから」という理由で断られ、消去法でリコが預かる事になったのだ。リコは、西誅軍を送り届ける本隊から直率部隊を切り離し、リヒャルト達を連れて一足先にセルピェンへと戻る事になった。モノの森は一旦放棄し、後日七氏族の支援の元で復旧活動を行う事になる。
5日間の行軍の末、一行はティグリの森へと戻ったが、ティグリの被害は予想以上に惨いものだった。多くの家屋が灰となり、家畜の多くが殺されている。辺り一帯に毒殺された兵士達が転がって蠅がたかって腐敗が始まっており、そして多くの甕が割られたり転がされたりして、ジョカの毒が地面へと染み込んでいた。
一行は変わり果てた故郷を見て暗澹たる思いを募らせたが、気持ちを切り替え、グラシアノの主導の下、復興に取り掛かる。人族の魔の手から取り返した故郷を、丹精込めて綺麗にしようと、皆一心不乱に作業に従事した。汚染された井戸にジョカの実の粉を入れて中和し、腐敗が始まった死体を次々と搬出して、土に埋めていく。無事に残った家屋に身を寄せ合いながら、新たな家を建て始める。心許なくなった食料を皆で分け合いながら、地面にジョカの実の粉を溶かした水を撒き、少しでも中和しようと躍起になった。
シモンも、エルフ達に混じって復旧作業に汗を流した。彼女は獣人の膂力に物を言わせて力仕事を買って出て、エルフが2人がかりで運ぶような荷物を、一人で運んでいた。その一方で、柊也はほとんど役立たずに近い状態で、一人で水撒きをしていた。右腕のない彼は力仕事ができず、水撒きもその都度木桶を地面に置いて作業しなければならず、しかも木桶が空になると、井戸から水も汲めなかった。
復旧作業を開始して1週間が経過し、死体等の最も凄惨な部分が全て取り払われた頃、セルピェンに避難していた女子供達がティグリの森へと帰還した。
「あなた!」
「ナディア!」
族長の妻として避難民を指揮していたナディアが馬を降り、グラシアノの胸元へと飛び込む。
「あなた…ご無事で何よりです。ティグリの者達を破滅から救い出し、無事にお戻りになられた事、何よりも嬉しく思いますわ」
「ナディア…お前にも苦労をかけたな。女子供を率いて、よく耐え忍んでくれた。私からもお礼を言わせてくれ。そして、お前と無事に再会できた事を、サーリア様に感謝しよう」
グラシアノとナディアは、そのまま暫くの間、ひしと抱き合っていた。二人の周りでは、同じく女子供が男達の下へと駆け寄り、約4週間ぶりの再会を喜び合っていた。
ひとしきりグラシアノとの再会を喜んだナディアは、グラシアノと離れると続けてセレーネへと近づき、背中に手を回して抱きしめる。
「お帰りなさい、セレーネ。無事に帰って来てくれて、本当に良かった。もうこれ以上、お母さんを心配させないでね」
「お母さん、ただいま。大丈夫だよ、お母さん。お父さんも、トウヤさんも、シモンさんもいるんだから。だから…ふぇぇぇぇぇぇ」
「あらあら、セレーネ、大人にもなって…お母さん、恥ずかしいわ」
思わずナディアに抱きついて泣き始めてしまうセレーネを、ナディアが優しく撫でている。その目は薄っすらと涙で滲んでいた。
やがて、セレーネから身を離したナディアは、その後ろに佇む柊也とシモンへと近づいた。
「…トウヤ様」
そう名を呼び柊也に近づいたナディアは、
「お、おい、ナディア!?」
「お母さん!?」
「!」
三人が目を丸くする中、柊也の左手を取って引き寄せると、そのまま柊也の胸元へと飛び込み、背中に両手を回して抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、ナディアさん!?」
予想外の出来事に慌てふためく柊也。エルフとは思えないほどの起伏を持つナディアの体が柊也を包み込み、むせ返るほどの甘い匂いが柊也の鼻孔をくすぐる。落ち着け自分、相手は人妻だぞ。思わず体の一部が自分の意思に反して起動しかけるのを、柊也は必死に抑え込もうとするが、「人妻」の二文字がパワーワードとなって、落ち着かない場所の成長を促進する。進退窮まって円周率を諳んじ始めた柊也だったが、頭を駆け巡る数字の羅列に、ナディアの艶の帯びた囁きが割り込んできた。
「トウヤ様。あなたは私の愛する娘だけでなく、ティグリの森の全てを救ってくれました。あなたには、私の一生をかけても返せないほどの御恩ができました。私にできる事があれば、何でも申し付けて下さい。精一杯務めさせていただきます」
「何でも」の三文字が円周率の防御陣を突き破り、柊也の脳みそに突き刺さる。柊也は顔を真っ赤にしながら、しどろもどろで言い繕った。
「あ、いや、ナディアさん、大丈夫です!私は、ナディアさんをはじめ、ティグリのエルフの皆さんの在り様が好きなんです。だから、同じ人族とは言え、あなたを害しようとする彼らが赦せなかった。ですから、少しでもあなたの助けができ、結果こうやってお互いの無事を喜び合えた事で、私は十分に報われました!」
何が大丈夫なのかは、この際置いておく。実のところ柊也の体は、大丈夫ではなかった。また、ナディアの名が筆頭に来ている事も、「あなた方」ではなく「あなた」になっている事も、この際置いておこう。柊也がナディアに伝えた言葉は、本心だった。エルフ達の良くも悪くも裏表のない一本気な性格が、柊也は好きだった。
柊也のいっぱいいっぱいの返事を聞いたナディアは、柊也の体から離れながら至近距離で致死性の微笑みを浮かべた。
「…無欲な方ですのね、あなたは。気が変わられたら、いつでもお申し付け下さい。私でよろしければ、あなたが望む事に全て応えましょう」
意図してなのか天然なのか、柊也の心臓に爆弾を仕込めるだけ仕込んだナディアは、立て続けに誘爆を引き起こす柊也を捨て置き、その柊也を繰り返し尻尾で引っぱたくシモンへと近寄る。
「シモン様」
「え、え、何ですか!?ナディア殿?」
思わず腰が引け、挙動不審に陥るシモンを、ナディアは同じく抱きしめる。
「ナ、ナディア殿!?」
「シモン様。あなたは私の娘を救っただけでなく、あの娘のかけがえのない家族にもなってくれました。それが、あの娘にどれだけの喜びを与えてくれた事か。あの娘の愛らしい妹。そして私の新たな愛娘。シモン様、母の温もりを望む事があれば、いつでも私の許においで下さい。私はあの娘と変わらない全ての愛を、あなたに捧げましょう」
「…ナディア殿、ありがとう」
ナディアの腕越しに、慈しみの篭った溢れる愛を背中に感じたシモンは、長く顔を会わせていない母を想い、思わずナディアを抱きしめる。その姿はまさしく母娘のものであった。
シモンがあの洞窟からずっと抱えていた悲しみが、ナディアによって溶かされていくのを垣間見た柊也は、二人の姿を優しく見守っていたが、いきなり踵を蹴飛ばされる。後ろを向くと、セレーネが横を向いて口をとがらせたまま、横目で柊也を睨んでいた。
「トウヤさん、お母さんにばかりデレデレしちゃってさ…。私のお母さん、そんなに好みなの?」
セレーネに追及され、柊也は慌てて左手を振って否定する。
「い、いや、そんな事ないぞ。いきなりの事で、驚いただけだ」
「どうだか」
反対側を向いて柊也から顔を背けるセレーネの姿を、グラシアノは何とも言えない表情で眺めていた。
***
「トウヤ殿、族長会議に出席してもらいたい。同行して貰えるか?」
「族長会議?」
ナディア達が帰還して数日が経過したある日、グラシアノが柊也に依頼した。
「ああ。族長会議は、八氏族の族長が一堂に会し、エルフ全体の決め事をする会議だ。今回の不幸に関し、モノの復興と王太子達の処遇について話し合う必要があるからな。是非あなたの意見を聞きたいのだ」
「なるほど。了解した、グラシアノ殿」
柊也の了承を得たグラシアノは、ナディアとセレーネの方を向き、口を開く。
「ナディア、セレーネ。お前達も準備してくれ。セレーネの奏上をしなければならないからな」
「はい、あなた」
「はい」
グラシアノの言葉にセレーネは頷き、柊也の視線に気づくと説明を始める。
「サーリア様に誓いを立てた者は、後日サーリア様の社に赴き、奏上する事になっているんですよ。族長会議が行われる会場の傍に、社があるんです」
翌日、留守中の森をヘルマンに託したグラシアノ一行は、合議場へと出発する。グラシアノ一家の他に、柊也、シモン、それと数名のエルフを伴った一行は、馬に揺られながら5日間かけて合議場へと足を運ぶ。荷馬車1台を含め全員が自分で馬を操る中、柊也だけは、ひたすらシモンの後ろにしがみ付いていた。
「へぇ…、これがサーリア様の社か…」
「そうです。すごく立派でしょ?」
「此処がサーリア様の…、素晴らしいな」
飾り気のない、しかし重厚で厳かな雰囲気の漂う建物を、柊也、セレーネ、シモンの三人が見上げている。大草原の中に、小島のように数十本の木々が疎らに立ち並ぶ林の中、合議場とサーリアの社の2棟の建物が静かに佇んでいた。
一行が合議場に到着すると、グラシアノは柊也とシモンを伴い、すでに到着していた氏族の族長達へと紹介していった。合議場には、ガトー、イレオン、カバロ、コネロの四氏族が到着しており、ラトンとセルピェンは、まだ到着していなかった。なお、モノは族長をはじめ氏族の男のほとんどが死亡しており、ラトンへ身を寄せた生き残りの代表を、ラトンが連れてくる予定である。
ガトー、イレオン、カバロ、コネロの四氏族の族長は、柊也とシモンを紹介されると、いずれも二人に対して深い感謝の気持ちを表し、固い握手を交わす。どの族長もグラシアノと同じ、一本気で気持ちの良い男達だった。
挨拶が終わると、ラトンとセルピェンが到着するまで一旦散会となった。二氏族の到着にはまだ2~3日かかる模様で、この時間の緩さも、エルフらしいと言えた。
「さて、族長会議までは、まだ時間がある。まずは奏上を先にしてしまおう」
そうグラシアノが宣言し、三人はサーリアの社を見上げていた次第であった。
「セレーネ、奏上に行ってきなさい。我々は、此処で待っている」
「わかりました、お父さん」
グラシアノに促され、セレーネが一人で社へと向かう。その背中にナディアが声をかけた。
「あら、セレーネ。トウヤ様は連れて行かなくていいの?」
「だから違うって!お母さん!」
顔を赤くして否定するセレーネを見た柊也は、グラシアノに顔を向ける。それに対しグラシアノは、柊也と視線を合わせず、前を向いたまま説明する。
「…サーリア様への奏上は、誓いを立てた者が一人で入って行うが、夫婦の契りを結ぶ時だけは、二人で入るんだ」
「…ああ、そういう事ですか…」
柊也はグラシアノの説明を聞き、お尻を何かで叩かれながら納得した。
暫くすると社の扉が開き、セレーネがグラシアノ達の許へ戻ってくる。ナディアが進み出て、セレーネを優しく迎え入れた。
「お帰りなさい、セレーネ。サーリア様はお変わりなかった?」
「うん、お母さん。今日も安らかにお休みになられてたよ」
セレーネの答えにナディアは頷き、グラシアノと視線を交わす。
「よし。我々もご挨拶に参ろうか。トウヤ殿、シモン殿、お二方もどうぞ」
「はい」
「え、私もですか?」
グラシアノに誘われ、シモンは頷くが、柊也は些か驚く。獣人はエルフほど敬虔ではないが、サーリアを信奉しているので、問題はない。一方、柊也は異世界人であり、サーリアとの関係はなかった。元の世界で一部の宗教の厳粛なこだわりを知っていた柊也は、波風を立てないよう遠慮するつもりだった。そんな柊也に対し、グラシアノは頬を緩める。
「サーリア様は、寛大な御方だ。異邦の方でも、敬う心があれば分け隔てなく門戸を開かれる。それにあなたは、我々エルフにとって大恩ある方だ。むしろ、是非ともサーリア様にお目通りいただきたいのだ」
「それであれば、有難く参拝させていただきます」
グラシアノの提案に柊也は頷き、五人は次々に社の中へと入っていった。
社の中は窓がなく、金属質の壁で囲われていた。所々、壁の隙間から薄く光が射し込み、部屋の中を淡く照らし上げている。部屋の中は外に比べて温度が低く、肌寒く感じられるほどだった。
一行はやけに平らで硬い床を歩き、グラシアノを先頭に一列に並ぶ。勝手のわからない柊也は最後尾に並び、柊也の脇に参拝を済ませたセレーネが付いた。セレーネが柊也に顔を向けて背伸びをし、片手で口に衝立を立てて小声で耳打ちする。
「トウヤさん、前に御神柱がありますので、御神柱の上に手を翳して下さい。そうすると、サーリア様の鼓動が感じられます」
「わかった」
柊也はセレーネに頷き、列の横から顔を覗かせる。ちょうど先頭のグラシアノが頭を下げ、御神柱に手を翳しているところだった。黒い、腰までの高さの四角い柱が床から伸びており、グラシアノの翳した手の下で、一瞬青い光を放っていた。
グラシアノの参拝が終わると、続けてナディア、シモンの順で参拝が行われる。シモンは生まれて初めての参拝という事で、些か緊張気味だった。おっかなびっくりの様子で御神柱に手を翳し、サーリアの鼓動を感じている。
やがて、シモンの参拝もつつがなく終わり、柊也の番が回ってくる。柊也は先の三人に従って御神柱の前に進み出ると、神妙に頭を下げ、御神柱の上に左手を翳す。柊也の左手の下で、御神柱から発した一本の青い光が横切る。
『――― 遺伝子情報適合。有資格者を確認。初めまして、システム・サーリアにようこそ。ユーザ登録を開始します』
そして、悠久の時を超え、サーリアが目覚めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます