79:彷徨う娘

 目を開くと、白い雲と森の緑に二分された空が広がっていた。白は等速度でゆっくりと移動して濃淡に変化をつけ、時折水色が目の前を通り過ぎる。緑は、白を追いかけようとしてその都度連れ戻され、いつまでも無駄な前後運動を繰り返していた。緑の動きに合わせて枝のそよぐ音が聞こえ、川のせせらぎと入り混じって、安らかな楽曲を奏でている。


 …ここは、何処だ?


 目の前の情景に記憶が結び付かず、シモンはぼんやりと空を眺めながら考える。穏やかな空気に抱かれていながら、しかし、彼女の全身には痛みが走り、体を動かそうとする彼女の意思に全力で抵抗している。その抵抗を無理矢理ねじ伏せて、彼女は身を起こし、辺りを見渡した。


 そこは、清らかな水を湛える、川の畔だった。川は狭く、浅く、穏やかに流れ、透き通った川面には、水色に染め上げた川底が顔を覗かせている。川のせせらぎの音が優しく彼女を包み、一片の風が彼女に爽快感を齎す。小鳥の囀りが、彼女の耳に安らぎを運んでくる。周りには、誰もいない。柊也も、セレーネも、いなかった。彼女は独りぼっちだった。景色は、そんな彼女を優しく包み込む。彼女の全身の痛みと内心の不安を無視し、嘲笑い、まるで彼女に見せつけるかのように、何処までも穏やかに優しく彼女を包み込んでいた。


「くっ…」


 左腕にひときわ激しい痛みを感じ、シモンは左腕を目の前に上げる。そして、彼女はその腕を見ると目を見開き、震え出した。


「…ぁ、やぁ…」


 左腕は、あちらこちらの皮膚が破れ、血塗れになっていた。ハインリヒが放った「エアジャベリン」は、瞬時に展開したシモンの「防壁」を突き破り、粉砕して、彼女の左腕を切り刻んでいた。そして、その血塗れの腕の上には、まるでパンに塗ったバターの様に、べったりと泥が貼り付いていた。


「や…、やぁ、やだぁぁぁぁぁ!」


 彼女は狼狽し、日頃の彼女からは想像もできないほどもたついた足取りで川岸へと辿り着くと、一心不乱に左腕を洗い始める。彼女は涙を浮かべながら両腕についた泥を洗い流し、さらには体のあちこちを見回して、皮膚に泥が付いていないか神経質に調べまわした。彼女はあの洞窟で、柊也から破傷風について説明を受けていた。そして、破傷風の感染経路について説明を受け、傷口に泥や汚れが付いた時は速やかに洗浄するように教えられていた。


 彼女は「父」の言いつけを守り、一心不乱に泥を洗い流す。洗い流すうちに、彼女の殻が次第に剥がれ、黄身が露になってくる。シモン・ルクレールが消え、幼子が目を覚ます。


 突然、彼女の耳に聞き覚えのある鈍い音が聞こえ、彼女は上空へと目を向ける。白い雲に覆われた空の下に、別の白い帯が、川下へと伸びていた。


 彼女は慌てて腰をまさぐり、覚束ない手つきで信号弾を取り出す。峠を越えた後もただ一つ所持していた、向こうの世界の物だった。彼女は震えながら「父」に教えられた通りに信号弾を構え、川下へと撃ち上げる。すぐに上の方から、もう一発、信号弾が撃ち上がった。


 彼女は信号拳銃に次弾を込めようとするが、幼子には上手く開ける事ができない。彼女は泣きながら拳銃を開けようとするが、突然、手の平にあったはずの信号拳銃が目の前から消え去った。


「あ…」


 彼女は愕然として、暫らくの間、何も持っていない両手を見つめていた。そんな彼女の背中に、悪魔が纏わりつく。それは、向こうの世界の服を着ていた時に常にシモンの身に纏わりついていた、羞恥と背徳感と快感のないまぜになった不安とは、違っていた。そこにあるのは、ただの恐怖だけだった。彼女は、全身が次第に恐怖に包まれていくのを感じ、怯える。


 彼女はゆっくりと立ち上がると、川下へと伸びる、消えかけた白い帯を追いかけるように駆け出して行く。


「…パパ、…パパぁ、パパぁ!」


「娘」は泣きじゃくり、たどたどしい足取りで、「父」を探しまわった。




 ***


「…何だい、ありゃぁ」


 ヴェイヨが山の方から上がる白い煙を見て、呟いた。


「新型の狼煙…ですかね?」


 そう答えるスヴェンの前で再び白い煙が上がり、直後に3本目が上がる。山側から2本、川上から1本。山側には、ハインリヒがいる。


「…おい、川上に向かうぞ」

「わかりました」


 ヴェイヨ達5人は、川上へと走り始めた。




 ***


「トウヤさん、前方左手、約80メルド先に8人」

「汝に命ずる。我の耳と音の袂を分かち、我の周りを静謐で満たせ」


 セレーネの報告を聞いた柊也は、小声で「サイレンス」を唱え、自身の周りから音を奪う。そして、セレーネの指し示す方向へと走り始める。一歩遅れて矢をつがえたまま、セレーネが後を追う。


 やがて、藪の向こうにハンターの集団を見つけた柊也は、無音のまま「サイレンス」を発動させ、ハンター達から音を奪うと同時にM4カービンを構え、フルオートで発砲する。


 ハンター達は、突然音を奪われた事に驚き、立ち直る間もなく全身を引き千切られる痛みに身を捩る。無音の舞踊が30秒ほどで終わると、柊也は倒れ伏したハンター達へと近寄り、止めを刺して回る。そして「サイレンス」を解除すると、すぐさま麓へと走り始めた。


 二人は、ここに来るまでの間に、8グループを手にかけていた。ハンター達は突然襲い掛かる静寂に驚き、そのまま望まぬ舞踊を演じて、次々と息絶えて行く。柊也は、目の前で繰り広げられる惨劇と自身に纏わりつく血の匂いに見向きもせず、一心不乱に山を下る。


 柊也の頭の中では取捨選択がすでに行われ、彼はそれに基づき、厳密に行動していた。守るべきものはシモンの無事、そして自分とセレーネの無事。失うものは、それ以外の全て。この先のハンター生活など、どうでもいい。セント=ヌーヴェルの事も、どうでもいい。カラディナやエーデルシュタインとの関係も、美香の事も、どうでもいい。そして、…自分の心でさえも、どうでもいい。


 柊也はそれまで、一度も人間を殺めた事がなかった。この世界に召喚され、柊也は様々な苦難に見舞われている。その中で彼は何度も命の危機に直面し、自らの命と引き換えに自分の手を汚して生き延びてきた。


 しかし、その相手は全て魔物であり、人間ではなかった。言葉を交わし、感情を表す人間ではなかった。もしかしたら、いつか何処かで別の形で会い、肩を叩き合って一緒に酒を飲めたかも知れない、人間ではなかった。それは、自らの手を血で汚した柊也にとって、日本に戻った時のために残しておいた最後の矜持であった。


 その最後の矜持を、柊也は捨てた。それさえも、シモンを救うためなら、どうでも良かった。今や山を下るのは、柊也ではない。近づく者全てから音を奪い、命を刈り取って立ち去る、殺人鬼だった。




 それまで柊也の後ろを追いかけていたセレーネが、突然柊也を追い越し、右方向へと走り出す。柊也はそれに異議を唱えず、ただ黙ってセレーネの後を追う。川のせせらぎの音が、だんだんと近づいてきた。




 ***


「…こりゃぁ、素晴らしい…」


 目の前に現れた女を見たヴェイヨは、思わず感嘆の声を上げた。


 ヴェイヨの目の前に現れたのは、銀髪の獣人の女だった。その姿は涙と血にまみれ、泥で汚れていたが、それがむしろヴェイヨの劣情を掻き立てるほどの彩を添え、美しく輝いていた。


 女は、完成していた。生きていれば、これからより一層輝きを増したであろう「アラセナの宝石」の、完成した姿があった。体は起伏に富み、その曲線の全てが男を魅了してやまない。そんな完全な女が涙を流し、怯えて頼りない姿で、立ちすくんでいた。


「あ…」


 ヴェイヨ達を目の前にした女は一瞬立ちすくむと、慌てて身を翻して、元来た川上へと駆け出そうとする。その動きは完成した姿態とは不釣り合いなほどたどたどしく、まるで歩き始めたばかりの幼子の様だった。


「おっと」


 あまりの美貌に棒立ちして見惚れていたヴェイヨは、女が身を翻すと慌てて追いかける。女はすぐに子供の様に転び、追い付いたヴェイヨは女の肩を掴んで仰向けに転がすと、女に馬乗りになった。


「やぁ、やぁ、やだぁぁぁぁぁ!」

「痛て、痛ててててててて!おい、お前ら、手足を抑えろ!」


 女は泣き叫び、子供の様に手足を振り回して抵抗する。その動きはまるで子供だったが、獣人の膂力は凄まじく、ヴェイヨはホセの石弾にも相当する痛みを覚える。慌ててヴェイヨはハンター達に応援を頼み、駆け寄った4人のハンターは、女の四肢を一本ずつ押さえつける。たちまち女は、両手足を大の字に押さえつけられ、身動きが取れなくなった。


 ヴェイヨは馬乗りになったまま、女に優しく声をかけた。


「お嬢ちゃん、大丈夫かい?危ないだろう、こんなトコを走っちゃぁ」

「やぁ!やぁ!」


 ヴェイヨの掛け声に女は答えず、首を振って喚き声を上げる。その挙動の全てが男達を魅了し、滾らせる。女のあまりの魅力に、ヴェイヨは思わず忍び笑いを漏らした。


「やぁ!やだぁ!助けて!助けて、パパぁ!」

「…パパぁ?」


 泣き叫ぶ女の声に、ヴェイヨは興奮のあまり息を荒げ、体の一部を熱くする。ヴェイヨにとって、これ以上ない最高のシチュエーションだった。完成された女が自分の下で怯え、子供のように泣き喚く。嗜虐性を掻き立てられたヴェイヨは笑みを浮かべ、女に甘く囁いた。


「可哀想になぁ、お嬢ちゃん。パパに捨てられたのかい?でも、もう大丈夫だ。これからは俺達が君のパパになってやるからな」

「やぁ!やだぁぁぁぁぁぁぁぁ!パパぁ!」


 そう囁いたヴェイヨは、なおも泣き喚く女に構わず、豊満な胸に右手を伸ばす。そして、ゆっくりと顔を近づけ、


「…おおおっ!」


 慌てて顔を上げたヴェイヨの目の前を、一本の線が横切って行った。




「嘘ぉ!?アレを躱すのぉ!?」


 聞き慣れない若い女の声が聞こえ、ヴェイヨは馬乗りになったまま、声のした方に顔を向ける。


 そこには一人の若いエルフの女が、矢を放った姿のまま呆然としていた。その後ろから、若い人族の男が藪を掻き分けて川べりへと下りてくる。男には右腕がなく、隻腕だった。


「何だぁ?お前ら」


 訝し気に相手を見やるヴェイヨの下で、女が泣き叫んだ。


「…パパぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

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