閑話 茨姫
「えらい事になっちまった。ちくしょう。伊賀古夜。俺はお前を愛してる。離れたくなんかねぇ。だけど、行かなくっちゃあならねぇようだ。すまねぇ。勢夜陀多良を頼む。ああ、そうだ。いいか。勢夜陀多良の周りに、武器なんか置いちゃあならねぇぞ。近づかねえように気をつけてくれ。特に矢だ。矢には気をつけてくれ。くれぐれも頼んだぜ」
と、言い残して出て行ったっきり帰って来ない。
伊賀古夜は、ぽかんとしてその言葉を聞いたそうだが、1年経ち、2年経ち、自分の夫が、何か、どうしてもやり遂げなければならない事が出来たのだ。と。そして多分それは、勢夜陀多良に関係している事なのだ。と、思う様になっていた。
勢夜陀多良は、物心ついてから集落の外にはあまり出た事は無い。
集落の中でも槍や弓等の武器を保管している高床式倉庫にも、近づかない様に、強く母に言い含められて育った。
だから、“矢”という物が、一体、どんな物なのかも知らずに年頃の娘になった。
彼女は、遠い遠い東の地にて、天から降ってきた天神に見初められたという
彼女にアプローチを試みようとする男達も大勢いたが、いつまでも若々しい、姉の様な姿を留める母親を始めとする、祖父の跡を継いだ伯父の配偶者といった、おば様軍団のガードが固く、誰一人、声をかける事すらできずにいた。
そうは言っても、鬼も十八、番茶も出花。
本当なら彼女の父親が帰ってくる迄、武器を持つ可能性のある男達から隔離しておくべきなのだろうが、このままでは行き遅れてしまう。どうするべきか、伊賀古夜が頭を悩ませ始めた頃だった。
この頃、俗にいうトイレは、川の上に設えられていた。
足した物が、川の水の流れによって綺麗にされていくのである。
勢夜陀多良が集落の環濠の外に出るのは、この用を足す時だけであった。
その日、勢夜陀多良が用を足し終えたのを見計らう様に、川の中から現れた物が、彼女の秘所を突いた。
それは、とても美しい赤い丹塗りの矢だった。
「まぁ、なんて綺麗なのかしら」
勢夜陀多良は、それをこっそりと持ち帰ると、母親に見つからない様に、自分の部屋に隠した。
勢夜陀多良には、それが“矢”である事は解らなかったが、なんとなく、秘密にしなければならない様な、そんな気がしたのである。
夕方。
就寝の支度を整えた勢夜陀多良は、自らの秘所を突いた、赤い丹塗りの矢を枕元に置いて、小首をかしげながら、しげしげと眺めていた。
「これは、一体、何かしら?」
誰に言うでもなく独り言ちた時、矢は、鼓動を打ちながらグングンと膨らみはじめたかと思うと、あっという間に人型を取った。
それは、真っ白な衣を着た、赤い瞳、緑がかった白髪の青年だった。
細面の凛々しい眦の青年は、人型を取ると、勢夜陀多良を見留めると、唇の端を上げて微笑むと、
「余の名は
と告げて、勢夜陀多良の首に、自らの指を回した。
その瞬間、勢夜陀多良の意識は途切れた。
次に勢夜陀多良が目覚めた時、彼女の唇は大物主と名乗った青年に奪われていた。
そして、そのまま二人は、契りを結んだのである。
真夜中。
環濠の辺から生えた茨は、一夜の内にするすると板壁や杭に巻き付き、蔓同士を絡みつかせながら、蛇がとぐろを巻く様に、ぐるぐるとドーム状に集落を覆い隠してしまった。
注:
この物語は、決して、女性の部屋に無断で入り込み、女性の同意を得ずに猥褻行為を行う事を容認・推奨するものではありません。
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