【1-9】最後の約束

 リアムに付き従われながら礼拝堂を出ると、遠巻きに様子を窺っていたらしい皆の気配がさっと遠ざかる。神父か、あるいは若騎士二人組から、キリエについての話を聞いたのかもしれない。


「……私のようにお近くに居るように命じられている者なら話は別ですが、一般的な民が王家の方々のお近くに寄ることは難しいのです」


 明らかに気落ちしているキリエを慰めるように、リアムが穏やかな声で言う。それに対し、キリエは頷き返した。


「はい、分かっています。僕だって、それは恐ろしいことだと感じていますから」


 王家に名を連ねる人物が視察に訪れた際、その土地の人々の多くは息を潜めるようにして身を隠したり、あるいは遠巻きに見守るだけというのが殆どだ。領主や役人は直接的な関わりを持たざるをえないが、平民はなるべく遠ざかる。もしも何かの間違いで王族の機嫌を損ねてしまえば、庶民など即座に首を刎ねられてしまう。真実がどうであれ、大半の者はそう信じていた。

 キリエが次期国王候補の一人となったということは、つまり、多くの者にとっては近寄りがたい存在になったということだ。つい先ほどまで無邪気な子どもたちを抱きしめていた両腕は、きっともう同じ温もりを感じることは出来ない。


「あの……さ、ちょっと、いいか?」


 立ちすくんでいるキリエへ、不意に声が掛けられる。──エステルだ。棚の影に隠れていたらしい彼女が前に進み出て来ると、それを遮るようにリアムが立つ。驚き、わずかに顔を強張らせるエステル。そんな彼女を見て、キリエは思わずリアムの袖を引いた。


「リアムさん、この子は、」

「エステル、ですね。十年前、貴方と共に森から連れ出した少女。把握しております」

「そうです。いつも僕を気遣ってくれる、大切な家族です。だから、そんな風に威嚇するのは、」

「申し訳ありません、キリエ様。お気持ちはお察しいたしますが、貴方は先ほど次期国王候補であると証明された御方。あえて酷なことを申し上げますが、貴方のご家族は彼女たちではありません」

「そんな……っ」

「私は今、貴方の騎士です。貴方へ近づこうとする平民を容易く通すわけにはまいりません。キリエ様の御立場を、今一度ご理解ください」


 おそらくリアムは、あえて突き放すような言い方をしている。己の出自をまだ現実的なものと捉えられていないキリエのために、あえて進言してくれているのだ。ここでキリエが立腹し、リアムへ自害を命じたとしたら、彼はきっと、それで主が立場を自覚するのであればとその通りにするのだろう。──無論、キリエはそんなことをしたりはしないのだが。

 重たい沈黙がしばし続いた後、何かを覚悟したような眼のエステルが両手でスカートを軽く持ち上げ、ぎこちなく一礼した。淑女らしい所作と無縁な彼女が精一杯に表してきた敬意に、キリエの胸が締め付けられる。


「キリエ様に、聞いてほし……いや、お聞きいただきたい話があり、その、ございますわ?」

「エステル……」


 エステルは、相手の心情を汲み取る気遣いが出来る少女だ。キリエやリアムの立場や気持ちを考えたうえで、へりくだる姿勢を見せながらもキリエへ声を掛けることを選んだのだろう。


「キリエ様。こちらの少女がお耳に入れたいお話があると申しておりますが、いかがいたしますか?」

「聞かせてください。……出来れば、もっと傍で」

「承知いたしました。エステル、こちらへ」


 リアムはキリエへ一礼し、身をずらす。そして、今しがたまで彼が立っていた場所へ来るよう、エステルを促した。

 少女は普段の大股歩きではなく、頑張って小さめの歩幅で寄ってくる。なんとも不自然な動作は、可愛らしさと痛々しさを共存させていた。キリエの正面に立った彼女は緊張した顔で、どこかの雑兵じみた敬礼をして見せる。ありったけの礼儀知識を総動員しようとして、色々と混ざっているのだろう。


「キリエ様は、王様になるのか、ですか?」

「……僕は、王様にはなれませんし、なるつもりもありません」

「えっ? でもさぁ、あっ、いや、えぇと、次期国王候補の一人になったって、さっき神父様から聞いたぜ、ですわ」


 驚いた拍子に素の喋り方へ戻りかけたエステルだが、傍に立つリアムを気にしてか、すぐに謎の敬語口調へ戻る。

 ちなみに、リアムはエステルを睨むでも咎めるでもなく、2人の会話の流れを穏やかに見守っていた。やはり、先の牽制は今後のことを考えてキリエに現実を見せるためであり、エステルに対して悪意を持っているわけでも警戒しているわけでもないのだろう。


「確かに、僕は次期国王候補なのかもしれません。だからこそ、王都へ向かおうとしています。でも、だからといって国王を目指す器でもありません。僕は君たちと同じように過ごしてきたのですから、国を率いるために必要な素質がまるで足りていないのです」

「だけど、あたしはあんたに、じゃなくて、キリエ様に、王様になってほしい! そうしたら、この国も変わるんじゃないかなって、思えるから……です」


 エステルは真剣な琥珀の瞳で、まっすぐにキリエを射抜いてくる。


「キリエは、あ、キリエ様は、もっと優しい国になってほしいって言ってたし、あたしだって、そう思ってたさ。でも、あたしたちみたいな貧民には、何をどうすることも出来ないじゃんか。同じ境遇の奴同士で苦しい苦しいって言い合うことしか、出来やしない。……でも! あんたは、変えることが出来るかもしれない権利を、手に入れたんだろ!? だったら、だったらさぁ……!」


 確かに、キリエは前々からこの王国の貧富の差を憂いていたし、それをエステルと語り合っていたこともあった。しかし、だからといって、自分が国を率いるなどと大それたことを考えていたわけではない。もしもある程度の富を手に入れることが出来たのなら、もっと孤児を救う活動を広められるのかもしれないという程度の範囲で夢を見ていただけなのだ。だからこそ、次期国王候補の座を辞退してこの教会に残ろうとした。

 しかし、キリエはエステルからの訴えに胸を打たれると同時に、目が覚めたように思えた。──そうだ、ある意味では好機なのだ。生まれ育った場所や家族と思っていた人たちとの繋がりを断たれてしまうことに絶望していたが、失うだけではなく、得られるものもある。富や名声だけでは到達できない、とんでもない代物を手に入れようとしているのだ。キリエはようやく、それを分かりかけてきた。

 国王になるつもりはなくとも、そこを目指すための権利で出来ることはある。


「エステル、僕は国王にはなれません。……でも、ありがとう。君のおかげで、大切なことに気づけました」

「キリエ、様?」

「次期国王候補と認めていただけたなら、僕は次に国王になる人へ庶民の現状を伝えることが出来るはずです。裕福な人たちだけではなく、貧しい人々にとっても温かい国になってほしい、と。僕は、そういう王国を目指すために努力をすると誓いましょう」


 キリエの言葉に、リアムが息を呑む。悲しみに沈むばかりだった青年が急に大きな目標を掲げ始めたので、驚いたのだろう。エステルも大きな瞳に驚愕を乗せていたが、そこにうっすらと涙の膜が張る。


「約束します。もっとたくさんの優しさが満ち溢れる王国になるよう、僕は努力を惜しみません。でも、それは僕が国王を目指すことではありません。そんなことをしても、この国のためにはならないからです。だけど、手に入れた立場を限界めいっぱいまで使います。──約束します」


 キリエは、守れない約束はしない。だから、国王になるとか、貧富の差を完全に無くすとか、そういった身の丈に合わない約束は出来ない。しかし、今までは夢見ることしか出来なかった領域へ足を踏み入れようとしている以上あがけるだけあがくのだと、そう約束することは出来る。

 キリエは、人差し指だけを伸ばした左手を笑顔で差し出した。エステルもまた、くしゃくしゃの泣き笑い顔で人差し指を合わせてくる。リアムに阻まれるかもしれないと思ったが、夜霧の騎士は静かに見ているだけだった。


「約束です、エステル。僕は僕が向かう場所で精一杯に頑張ります」

「うん、……うん、約束だ、です! どんなに遠く離れたって、あたしたちはキリエを忘れたりしない。毎日、毎日、あんたのことを祈るよ。だから、忘れないでくれ。あたしたちのこと、忘れないで……っ」

「忘れません、絶対に。君たちと共に過ごした時間があってこその僕です。そのことを、絶対に忘れません」


 キリエとエステルは、互いに半泣きのまま強がりの笑顔を見せて、人差し指を押し付け合う。

 別れを惜しむ二人の姿を、リアムは急かすこともなく穏やかに見守り続けるのだった。

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