【1-10】ひとつの願い
キリエの所持品など無いに等しく、衣服も王都で新しいものを用意してくれるとのことで、旅立ち準備はすぐに整った。教会の皆、そして周辺農家の人々が見送りに来てくれているが、かなり遠くから見られているに過ぎない。キリエが彼らへ視線を向けると頭を下げてしまうので、なるべく見ないようにして馬車へ乗り込む。最後にもう一度、見納めのために教会へ目を向けると、エステルが小さく手を振っていた。
「キリエ様、すぐに出発してもよろしいですか?」
「少しだけ待っていただけますか? 最後に、この場所で祈りを捧げておきたいのです」
「承知いたしました」
リアムは馬車の脇に立ち、周りの景色をぼんやりと眺め始める。その祈りはキリエの心の切り替えや整理のために必要な物だと考え、邪魔をしないようにと気遣ってくれたのだろう。実際、凝視や観察をされていては、祈りに集中するのは難しい。
キリエは両手を組み、頭を垂れて、心の中で神へ呼び掛けた。マルティヌス教会の皆の暮らしがもっと恵まれるように、ここから始まる旅路が平穏無事なものであるように、自分がこれから挑もうとしている道行きに幸いがあるように、この国がもっと良いものになっていくように。いくつかの願いの最後に、今日も生きることを許されている感謝を加え、キリエはそっと瞼を上げた。
「お待たせしました。……もう、大丈夫です」
「かしこまりました。少々、お待ちください」
リアムは御者台に座っている者に出発の意を伝え、失礼いたしますという言葉と共にキリエの隣へ座る。ちなみに、御者は騎士ではないようだが、この道を長く勤めてきたと思われる初老の男だ。馬車の扉が閉められると、御者は馬へ鞭を当てて発進する。
「……さようなら」
こっそりと振り返り、生まれ育った場所が遠ざかるのを眺める。そんなキリエを気遣わしげに見つめ、リアムが遠慮がちに話しかけてきた。
「突然のことでキリエ様も驚かれていると思いますが、王家での混乱も大きく、王都に到着してからは慌ただしい日々になるかと思われます。諸事情から最短で王都を目指さなくてはなりませんので、途中で宿に泊まったりはせず、馬と御者の休憩時以外は走り続けることになります。御体に負担を強いてしまい申し訳ございませんが、どうかご容赦ください。車中になってしまいますが、キリエ様はお好きなようにお休みになっていただいて構いませんので」
リアムがそこまで語り終える頃には、教会がだいぶ小さく見えるだけになってしまい、人々の姿は完全に認識できなくなっていた。キリエは座り直し、リアムときちんと向き合うように視線を合わせる。
「リアムさん、おそらく今から色々と大事なお話をしますよね?」
「御意にございます」
「じゃあ、その前に、僕からひとつお願いをしてもいいですか?」
騎士は一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、すぐに首肯した。
「どうぞ、なんなりとお申し付けください」
「ありがとうございます。──僕の友人になってくれませんか?」
「……、……えっ? 申し訳ありません、正しい御言葉を聞き逃してしまったようで、」
「リアムさん、僕と友達になってください」
真剣に、そしてはっきりとした口調でキリエは言う。リアムは戸惑ったように瞬きを繰り返し、絶句してしまった。あまりにも予想外の要求を受けて、思考がついていかないのだろう。
「リアムさんは覚えていないかもしれないのですが、あなたは十年前にこう言ってくれたんです。──誇りに思える事実だけを堂々と掲げていればいいのだ、と」
「……記憶しております。貴方との出会いはとても印象的でした。あの夜のことは、よく覚えております」
「覚えていてもらって、とても嬉しいです。……あのときのリアムさんの言葉は、僕にとって救いであり、支えでもありました。どんなに辛く悲しいことがあろうと、僕はあの教会での暮らしを、家族と思っていた皆のことを誇りに思ってきました。……でも、それが今日、突然に全て否定されてしまったのです」
「キリエ様……」
騎士は苦しげに声を詰まらせ、何を言うべきか思い悩んでいる。決して彼を責めたいわけではないキリエは、話を進めるべく言葉を続けた。
「もちろん、これからも僕の胸の内で彼らやあの場所を誇りに思い続けるでしょう。でも、それを全面に出してはいけないのだと、僕が大切に思っていることをひけらかすことによって彼らに危険が迫るかもしれないのだと、そういう立場になってしまったのだと理解もしています」
「──仰る通りです」
「つまり、僕は掲げられる誇りを失ってしまった。僕が僕らしく己を貫ける礎を、失くしてしまったのです。……だから、リアムさん。今度はその繋がりをあなたと結びたい」
「申し訳ございません。御言葉の真意を、測りかねております」
困惑しているリアムは、キリエの言葉を否定も肯定もしない。心情を推し量ろうとしてくる藍紫の瞳をまっすぐ見つめ返し、キリエは更に言葉を重ねた。
「僕にとって、あなたは英雄なんです。王国で一番強くて、正義感に溢れた騎士で、優しい英雄。ずっと尊敬していたあなたと友人になれたなら、それは僕にとって強い支えになります。たとえ僕が次期国王候補の一人だったとしても、リアムさんと友人関係であるという事実は堂々と誇れることだと思うのです」
「いえ、それは……」
「いいえ、今言ったことも嘘ではないのですが……、もっと正直なことを言ってしまえば、なんだか悲しくて。憧れの人に、こうやって敬られるということが。素のあなたの言葉を聞きたいのです。……僕の我儘であることは分かっていますので、この願いを無理に叶えてほしいとは言いません。ただ、もしよければ、友人として気安く接していただけませんか?」
王都に到着したあとは、リアムは傍を離れてしまうのかもしれない。しかし、王国騎士団に所属しているのだから、王都内にはいるはずだ。近くに友人がいてくれたなら、そしてそれが夜霧の騎士であるのなら、こんなにも心強くて嬉しいことはない。
キリエの言葉を噛みしめるように沈黙を続けているリアムは、その眼差しに様々な迷いを滲ませていた。迷い悩んでいた騎士は、しばらく経ってから重い口を開く。
「キリエ様の御要望へ返答させていただく前に、いくつか申し上げたいことがございます。よろしいですか?」
「はい、もちろんです」
「まず、──現在、私の立場は決して誇れるようなものではありません。夜霧の騎士と称されてはおりますが、王国内一と言われている騎士は他の人物です」
「リアムさんより強い騎士がいらっしゃる、と?」
夜霧の騎士は王国一ではなくなってしまったという噂話は、やはり本当だったのだろうか。しょんぼりしながら問い掛けると、リアムはますます複雑そうな表情になる。
「いえ……、剣の腕だけならば、今のところ私は誰にも負けておりません」
「えっ。それなら、リアムさんが王国一の騎士でしょう? あ、立場的な意味では騎士団長などの役職持ちの人の方が強いとか、そういったことはぼんやりと知っていますけども」
「……純粋な力量だけではどうにもならない、不純な世界。王国騎士団内もそうだったという、それだけの話です」
キリエとしては納得がいかない話ではあったのだが、それ以上を踏み込めそうな空気ではなかったため追及はしなかった。すると、リアムは輪をかけて苦々しい声音でぼそりと呟く。
「それに、サリバン家の末裔である私は王都での嗤い者です。こんな私を護衛につけたというのも、王家の方々から貴方への嫌がらせのようなものでしょう」
「そ、そうなのですか……?」
どう反応するべきか迷っているキリエへ、騎士は深々と頷いた。
「サリバン家は罪を犯して没落したのですから」
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