平家でなければ人ではない

 少なくない数の国民の不安の声がある中、インボイス制度が始まろうとしている。やめてほしいという意見がある中、とある実業家がX(元ツイッター)で次のように投稿した。

「それで困るような人は、そもそも需要というか才能がない、ということ。人手不足な業界は介護や飲食含めいくらでもある。夢を追ってるなら仕事じゃなく趣味でやっとけ!」

 


 絵や音楽、小説などのクリエイターを目指すなら、もし本物であるならたとえインボイスなる制度の壁が立ちはだかっても、それを越えることも含めての「才能」なのではないか。その程度で「苦しいです。やめてください」と泣き言を言うくらいなら才能ないんだよ。歯を食いしばって他のバイトしてでも続けるようなヤツが本物だよ、という意味合いのことを吠えている。

 何かで登りつめて、その高みからまだまだ下な人を見下ろす立場に立つと、あることを忘れがちになる。



●大人には誰しも子どもの時代があったように、今売れているその人にも、駆け出しの時期があったということ。そして、気付かないほどたくさんの力に支えてもらったこと。そういうことを忘れ去って、自分の現在の力ばかり見てしまう。



 日本史で、平安時代が終わり鎌倉時代へと移行していく流れの中で、驕り高ぶった平家が『平家にあらずんば人にあらず』という言葉を残したことを学ぶ。

 私は、上記の実業家の言葉にはこれと似たものを感じる。あるいは、昨今よく言われる「自己責任論」にも共通する部分がある。実はどんなに偉い人だって、有形無形含めて色々なモノ・人・状況に助けられてお陰様で生きている。それをさも、自分は自分の力でここまで来ました、それができないで待遇に文句言ってる時点でオレのいる位置まで来る資格ないわ! みたいな発言がその「極めた人」から出たら、悲しくなる。弱者を(見下しではなく)優しい眼差しで見れない一流など、何の価値があるのか。



 インボイスを嘆くは、一流のクリエイターにあらず(その程度の人間)。

 筆者は、その言葉は大嫌いである。手塚治虫氏だって、石ノ森章太郎や藤子不二雄にしたって、売れない駆け出しの時代があった。ある大御所演歌歌手は、デビュー前にオーデションへ行く電車賃がなく、歩いて行こうとしたが見かねた友人が貸してくれた。ある人気お笑い芸人は、デビュー前収入がほぼなく、小学校の校庭の水道で体を洗っていたという。

 もちろん、耐え抜きそれでも夢をあきらめなかったからこそ花開いた、という側面もある。でも、助けてもらうことも実は多い。おごってもらったり、家に泊めてくれたり、何か便宜を図ってもらったり。

 もしあなたが、自分よりも「できていない」と思える人物に対して甘えるな、みたいに腹立たしい感情が出てきたら、人生を振り返ってみることだ。一度でも、あなたが弱っていた時に手を差し伸べられたことはなかったか。優しく、何かで助けてもらった経験は本当にないか。

 ひとつでもそのことを思い出せたら、きっと冷たいことは言えなくなるはずだ。

 人類は優しさを失ったら終わりである。

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