いい子

 今はもうあまり言わないのかもしれないが(NHKの教育番組くらいだと使っているかもしれないが)「よい子のみんなは……」という呼びかけ言葉がある。

 よい子のみんな、とはどこまでの範囲を指すかというと、たとえ細かく見ていったら現実に「悪い子」であっても、よい子の範疇に入る。直接その子と関係のないあかの他人からしたら、子どもはみんな「よい子」なのだ。

 ちょっと無責任だが、そこには子どもというものはみんな「よい子であってほしい」という願いがこもっているからこその呼称であるようにも思う。意地悪く言えば、「よい子ならこんなことはしないよね?」というちょっとした牽制というか、脅しも入っている。国の将来を担う子どもたちには、皆いい子であってもらわないと困るのだ。



 私は、うちの子どもに「いい子、いい子」と言っている。

 今はまだいいが、そのうち嫌がられる日が来るかもしれない。恥ずかしいし、なんだか子ども扱いされているような感じもしてくるだろう。生意気言葉で言うと「ダせぇ」ということだろう。子どもが中学生に上がる頃には、さすがに言い方を考えるかもしれない。

 でも私にはやっぱり「いい子」なのだ。宿題をギリギリまでやらないし、自業自得なことで泣くし、忘れ物は少なくないし、どちらかというとドラえもんの「のび太」的で、いい子というよりは叱る要素が多めである。なのに、私には「いい子」という言葉しか出てこない。



 筆者は、かつてスピリチュアルの世界で言う「非二元」を見た。

 厳密には、「見た」とか「感じた」という言葉を使うのがおかしいのがこの分野である。自他がない、分離がない体験なのになぜ「見た」とか「感じた」とか対象化できるというのか。できないのだが、この世界に戻ってきてその体験を言葉にするには「破綻しているがそうとしか言いようがない」から仕方なく対象化して言っている。そんな申し訳なさもなく自信たっぷりに「私はワンネスを体験した」とか「ワンネスからのメッセージ」とか口にする人間を信用しない。いちなるものでしかない世界なのに、なぜそこからメッセージなんか来るのだ。論理が破綻している。

 その「あちら」の流儀では、相対性がない。陰陽がない。だから善悪がないし、良いとか悪いとかいう「評価の違い」もない。そういう感覚の土産をもらって私はこの世界で暮らしているが、それでいくとすべての子どもに価値の差はない。ないが、やはり私もこの世界の住人である。ウチの子は特別なのだ。



 すべてに価値の差などないことに一度は目の開けた人間らしくないが、他人の子は正直それほどかわいくない。もちろん人類愛的なものはあるし、命として価値あると思っているが、ウチの子とは天地の差がある。(笑)

 いやな話をするが、もし海でおぼれてよその子とウチの子どちからかしか助けられないという状況になったら、ウチの子を助ける確率が98%である。残りの2%は、この世界では何が起きるか分からないから、その時にならないと分からない部分もあるという「謙虚さ」を数字にしたものだ。でも多分、うちの子を守るだろう。

 私は、そのことに「すまない」と思いながら暮らしている。だから、何事もない平時において、よその子が遊びにきたら歓迎するし、困っていたら助けるということでゆるしてちょんまげ、と思っている。その代わり、緊急時切羽詰まった時には自分の子どもを優先させていただきますから、と。

 いちいちそんなことを申し訳なく思いながら生きてる私って、かなり変? だから、スピリチュアル的理解で高い境地に行きすぎないほうがいいのである。

 ちなみに、優しいとか人としてできているとかいう側面と、境地の高さとは関係なく、まったく別のカテゴリーであることに注意。マザーテレサ並みに慈愛に満ちた人が精神境地的に高くない場合があり、逆にクセがあって優しくもない人間が高い場合があるのである。私は当然、前者に価値があると思っている。愛と宇宙理解(本質把握)の度合いは、相関関係が薄いのである。

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