どっちもどっちなら認め合おう

 発達障がいという言葉が言われるようになって、もうずいぶん経つ。

 ずいぶん経つが、その割に何かこの問題に関して大きな進展があったかというと、ない。治すというものでもなく、ムリに強制しようとすればそれはらしくないことを無理にするストレスとなり、決して完治だとか適応だとかいう解決は望めない。



 今朝のネット記事で、アスペルガー症候群の疑いのある(ってか十中八九そうだろうという)人のインタビュー記事が載っていた。今、なぜ疑いという言葉を使ったかというと、この方(仮に名前をAさんとしよう)は、医者から「アスペルガーだと思うけど社会適応できているから、あえて診断は下さないでおく」と言われたそう。

 Aさんは定型発達(普通)の人と散々衝突し、その経験から「この時にはこうすると怒られない」ということを徹底的に分析し、非常な努力の末「パターン」を覚えて、社会でそれなりに活躍できるようになったそう。

 要するに、適応したんじゃなくて気持ちもこもらないし納得もまったくしていない『パターン学習』を習得しただけなのだ。

 そのAさんに言わせると定型発達、いわゆる普通の人こそ『変わった人』に見えるのだと主張する。親から「出ていけ!」と言われその通りにしたら「なんで家出なんかするんだ!」と怒られた。バイトでは店長から「やる気がないなら帰れ!」と言われ帰り支度をしたら「こら違うだろ、それくらいの気持ちで働け、っていう意味なの!」とさらにキレられた。

 


 Aさんは、そういうやりとりをイヤというほど繰り返して思ったこと。

『定型発達の人の言葉を額面通りに受け取ってはいけない』

『定型発達の人はなぜウソをつくのか。本気じゃないなら言わなければいいのに』

 Aさんに取材した方が「親が叱ったのはウソと捉えるより、心配や愛情の表現のひとつだと捉えられないか」と聞いてみると、Aさんは「すいません、そういう見方はできないです」。

 正味の記事の内容はもっと長く、紹介したい部分も多いのだがそれだと記事が長くなりすぎ、私も何が言いたかったか忘れてしまいそうなのでこのへんで。(笑)

 インタビューが終わって、取材者(定型発達)は、Aさんに二点指摘した。「定型発達の人はウソをつく」という表現では、定型発達の人がみんなウソつきだというふうにも聞こえてしまうので、「そういう人もいる」くらいのニュアンスにすればよかったのではないか、という点。もうひとつは「英語も堪能」「外資系でも働いていた」など、話の間に自慢とも取れる話が散見されたので、初対面の人にはそういう話題自体を減らすか、それかもっと表現を柔らかくするかしたほうがよいと告げた。

 取材者は、帰る道すがらさっきした自分の指摘を思い出して、自分で思ったのだそうだ。さっきの指摘って、結局他人の顔色を忖度しろって言ってるのと同じだな、と。自分を含め普通人は、いったいいつからこういうことが「当たり前」になってしまったのだろうか、と。



●これ、どっちもどっちです!



 これを書いている私は、発達障害側である。でもだからといって、定型発達のほうこそヘンだよとは思わない。逆にこちらのほうが普通と違っておかしいのだ、皆に合わせないといけないのだとも思わない。

 文化の違う外国人に、日本の考え方や所作の流儀をちゃんと覚えて完璧にやれ、なんて誰も思わないし強制もしないだろう。郷に入らば郷に従え、ということはあるがそれも程度問題で、してくれればありがたいが強要するものでもない。(まぁ、家に靴を履いたまま上がるとかはさすがに止めないとだが)

 日本人が海外に住んでそこで何年暮らしたって、その人は根源的意味でやっぱり日本人でしかない。結局、どっちかが「あるべき基準」で反対側は「間違っているので正しい方に合わせてください」「しんどくてもこれが普通なんで頑張ってください」というのは幻想なのだ。

 お互いがお互いの悪いところを見ていたら、いつまでも両者はうまくやっていけない。ならば、その相手の「ヘン」を開き直って認めるしかない。間違っていけないのは、認める=好きになる、あるいはそのすべてを許容する、ということではない。腹が立てば怒ればいいし、おかしいと思えば指摘してよい。

 ただしその時に、「私の発想だとこうなるから言うんだけど、あなたはどう考えてる?」と相手のホンネというか、認識を聞き出すことだ。



 片方に寄らせようとするのは限界がある。

 お互いが「宇宙人」だと割り切って、よほどシャレにならない振舞いだけは指摘し合って、たいがいのことでは「そういうものよね」でいくしかない。

 普通の人の言い分として「発達障がいの人と組んで仕事するの、どえらく大変よ? あなたお互いそういうものって認め合え、ってきれいごと言うけど、実際にストレスのたまるこっちの身にもなってみてよ!」と言いたい人もいるだろう。

 ならば、認め合っていたら仕事にならない、その社会の前提というかシステム自体に問題があるということなのだ。一度、世界中でデモでも起こし一斉蜂起して、社会の在り方でもかえてみんかい?

 互いが違いを認め合って、なお生活が維持されるやり方を模索してもいい頃だ。 

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