化学調味料

 筆者の父親は、典型的な昭和時代のオヤジである。

 仕事をして家にカネをちゃんと入れる分偉いが、家事はまったくしない。父が皿を洗っている場面を見たことがない。ましてや掃除機をかけるなど、多分私が死ぬまで見れないんじゃないか。

 料理に関しては、下手だからしないのか自分はしないというポリシーだからしないのか分からないが、しない。母不在の折、自分で袋インスタントラーメンを作ってるところなら見たことがあるが、果たしてあれは料理と言えるのか……

 そんな父だが、唯一私が子ども時代から作り続けている「スープ」がある。うまいから飲め、とすすめてくる唯一の父親作の料理で、それ以外に父の作った何かを食した記憶はない。

 主には、魚の鯛。他の魚でもいけるのかもしれないが、試したことはない。

 まぁ食卓に出る頻度の少ない代物なので、そうしょっちゅうはムリだが。焼いて身を食べたら、骨やら皮やら、取り切れなかった細かい身なんかがどうしても残るでしょう? そこにテキトーな量の熱湯をぶっかけ、ぐしゃぐしゃに潰す。すると、なにやら魚のダシがでる。

 そこへ、適量(本当にテキトー)の醤油と『味の素』をぶち込んでよく混ぜる。すると、なんということでしょう! 見た目はサイアクだが、骨を避けてそのスープを口に入れると「うまい!」と唸る。

 まったく料理をしない父の、唯一の「何か作ってくれた」思い出である。今は基本父とは離れて暮らしているが、自分でもたまにやってみることがある。



 ホリエモンこと堀江貴文氏が、味の素を代表とする『化学調味料』に対して、体に悪いだとか料理の味付けに使うのは邪道だとか、そういった偏見に対して「物申す」みたいなネット記事があった。それは完全な風評被害であり、そういった偏見には本当に腹が立つ、と言っていた。

 まず、化学調味料というネーミングがちょっとよくない。化学という言葉は、なんだか理科の実験的な「化学的合成」みたいなシーンを連想させ、まるで「遺伝子組み換え」という言葉にも似た破壊力がそこにはある。第一印象だけで「体に悪そう!」という。

 味の素の主成分は「グルタミン酸ナトリウム」である。これは昆布に多量に含まれているもので、ホリエモンに言わせると「それもやばい」という理屈になる。そもそも、味の素はサトウキビを原料として「発酵法」という手法で製造されているだけで、別にフランケンシュタインを生み出すという恐ろしい「化学合成」の話ではない。他にも、発酵法を用いた食品はあるが、それも同列にダメなのか。



 その昔、グルタミン酸ナトリウムというものをまだ知らなかったアメリカにおいて、中華料理店で食事をした人の健康被害の原因として、あやまって医学論文として発表されてしまったことが尾を引いて、未だに「化学調味料はあぶない」という先入観を持つひとが跡を絶たない。

『美味しんぼ』というカリスマ的なグルメ漫画では、化学調味料を酷評している。グルメマンガの先駆者的存在の『包丁人味平』というマンガでも、ラーメン勝負において「化学調味料を使うと失格」という条件が付けられるシーンがあった。

 体に悪い、という以外の化学調味料が被ったいじめの原因のもうひとつは——



●誰が使っても、一定の味が出せる。



 もちろん、絶品はつくれない。でも、料理が下手でも「まぁまぁいける、いう水準には味を調えられる」。それが化学調味料の利点でもあり、逆に料理や味にうるさい人には嫌われる点でもある。

 なんだか、似たような話を聞きませんか? 子どものお弁当に冷凍食品や、レンジでチン! でできるおかずを詰めるお母さんが下に見られるような話。夕食で出すサラダを総菜店のものにしたら「手抜きだ」と旦那に怒られる話とか。

 筆者の小さい頃、石井のミートボールとかマルシンハンバーグとか、熱湯で煮れば終わりとかフライパンにのせて焼くだけ、とかいうものでも好物だった。遠足の時には「あれいれて!」と頼むほどで、何としても母の手作りでないといけないとは思わなかった。

 楽をするのは、そんなにいけないことだろうか。いつも最高・最善を尽くさねばいけないのだろうか。



 筆者も宗教にのめり込んだり、スピリチュアルで高い精神境地を求めるなどしたいわゆる「求道」の時期があった。親鸞聖人などもそうだが、求道の過渡期において真面目な者ほど決定的な間違いをやる。それは——



●世間一般の基準でいう幸せや娯楽・快楽(贅沢な食事や性行為)を、精神的高みを目指す上での敵(足を引っ張るもの、台無しにするもの)とする偏見。それらは人を堕落させると考える。



 そういうもので気持ちよくなって幸せを感じてもそれは「低俗」であり、それは本当の人間の幸せではない、と考える。神人一体(神とひとつになるかのような境地)こそが、真に求めるべきものであると。

 だから過去の聖賢たちは、異性を遠ざけ財産をもとうとせず肉や酒も口にせず、ひっそりと引きこもって隠遁生活をした。人によっては菜食を徹底し(今でいうビーガンのはしり)、着るものも腰みのいっちょうという極端な者までいる。

 私も一時はそういうところに身を置いていたが、それではほとんどの者は救われないと分かった。そして、今思うことは——



●味の素ってうまいやん!



 そりゃぁ、一億人いればたまには「ストイックに自分をいじめ抜いた先に、満足の行く境地にたどり着く」ような人種がひとりふたり出てくるでしょうよ。

 でも、圧倒的その他大勢は、そんな人生を歩まない。美味しいもの(それだって主観というものが圧倒的)を食べる幸せ、異性(異性でなくともとにかく愛する者)と体が触れあう幸せ。子ども生んで家族を持ち、楽しく暮らす幸せ。テレビや映画を見たり、ゲームを楽しむ幸せ。

 人によっては絵を描いたり小説を創作したり、プラモデルに凝っていたりジグソーパズルに命をかけている人もいるだろう。私は、そういったものすべてをバカにしない。それらはすべて、宗教で言う「悟り」の境地や、厳しい教えが示すおカタい「幸せ」に比べても、価値においてひけをとるものではない。



 そろそろ「楽して一定の成果を出すのずるい」という考えをやめる時だ。

 自分より辛い目に遭っていない他人が、簡単に幸せになったり自分よりよいものを得たりすることに悪感情をもつことをやめる時だ。

 化学調味料を使ってもいいのだ。頑張りに見合った幸せとかかたいことを言わないで、インスタントに幸せになっていいのだ。うまい! とか楽しい! で。

 怒る人には、なんならアンタも一度(単純な幸せの感じ方を)使ってみては? とすすめたい。案外、イケるものです。

 一流を極めるコンテスト、とかでは味が似た傾向になることを危惧して化学調味料の使用禁止という縛りをつけるのもありだと思うが、家庭でつくる分で化学調味料使用をいじめるのはやめよう。

 どんな手を使おうが、本当に幸になるというのなら構わない。

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