世界平和ってなんだろう

 2025年開催予定の大阪万博に関して、あと2年を切った状態で『参加する国や地域が独自に建てるパビリオン建設で必要な申請が、大阪市に対して1件も提出されていない』ことが報じられた。言い換えると(言い換えないでいいが言いたい)申請はゼロ!だということだ。

 なぜそんなことになるのか、という考察をしだしたらたいへんな文章量になるので割愛する。そういうことを論じたネット記事はたくさんあるので(そこに付くコメントにも、的を射ていて舌を巻くようなクオリティのものもあるので参考になります)、興味のある方はそれを探して参照されるとよい。

 だからここでは、大雑把にたった一言で片づけることとする。「時代は変わった」のだ、と。時代は変わったのに、そのことをよく分かってない(分かってないというか、自分のことしか考えていない)年寄りの権力者連中が、若い頃の前の「大阪万博」の成功体験が忘れられず「やろう」ってなっただけで、他はその力に踊らされて進んだだけだろう。で、いざ進めてみると「力で周囲を無理に躍らせたが、皆力尽きて踊り切れない」となっただけだ。



●今の世界平和(大枠で、ということ。局所での地域紛争やロシアのことをのけて)は、本当の平和ではない。



 核の抑止力に頼った平和に、意味はない。ただ、現実に今日も同じ日常を送れる分かりやすい有難さがあるため、皆さん特に疑問にも思わずその恩恵をご享受なされているが。

 先進国を含め、世界の各国は基本的に「自分の国のことしか考えていない」。今世界が平和なのは、ケンカしたり侵略したりするよりも、おとなしくして仲良くしていた方がいいと判断しているから。この判断に万が一変化する要因が生じたら、そこに遠慮はないだろう。

 世界各国がたまたま「今は戦わないほうが利益になる」という腹なだけで、そういう危ういバランスの上に今の平和は成り立っている。ニュースなどで来日した他国の大使や大統領と首相がにこやかに握手したり笑顔で報道陣に写真など撮られるが、皆さん見た目の通り「友好的だ」「これぞ世界が平和な証し」だと微笑ましく見ているんですか? あれは超絶腹黒パフォーマンスです。



 昔の大阪万博の時は、太平洋戦争の傷もまだ癒えぬ中、国民が皆「向上したい」というエネルギーのもと、本当に盛り上がった。

 世界各国もまだ、まだ「万博の意義」に完全なタテマエではなく同調できる事情と背景があり、色んな思惑はあったろうが総じて「人類の進歩と調和」というテーマのもとある程度各国が同調し、成功を生んだ。

 だが今は、過去の大戦の傷跡はほとんどなくなり、世代交代によって戦前戦中を知る者も減り、携帯電話やインターネットの普及など、社会を取り巻く状況がまるっきり変わった。万博というのは、各国が『産業・貿易・学術・技芸などの振興・促進のために、種々の産物・文化財などを集めて展示し、広く一般に公開する催しのこと』【出典:goo辞書】である。

 今は、他国への優位性をもつために「有益な独自の技術は秘密にしておきたい」のだ。どこの国がホイホイと手の内を明かすか。たとえ出しても、出して構わないようなレベルのものなはずで、そんなものばかりが並ぶ博覧会など茶番もいいところである。本当の先端技術は公の眼には触れないと考える方が自然で、我々が「これが今の最高」だと思っていることは、世界のトップ(開発成功を秘密にしている他国の科学者)からしたら別にそうでもないのだ。



 昭和の時代は、多くの国々が勝ったにせよ負けたにせよ、戦争に関わってそこには多かれ少なかれ反省というものがあった。そして、敗戦国ならず勝った側だって損害を出し、無傷ではなかった。そういったその時代独特の原動力が、一時とはいえ世界をひとつにした。心をオープンにさせた。

 でも、今はもうその時とは違う。わざわざ莫大なカネを払って海を越えた他国にパビリオンを建てる積極的な意味合いがない。一応万博の開催実績と歴史という名の惰性が、「まぁ参加しないとやろな」と国々に思わせるので、皆参加は表明する。でも現実は「市への建設申請がひとつもない」という有様である。

 しかも、日本の建設業界の構造も「中抜き」「ピンはね」「下請けいじめ」のありそうな代物だ。自国の理屈が通らない異国での、そんな怪しいところへ建設を丸投げなんて、いくら金がかかるか分かったもんじゃないという怖さもあるだろう。



 昨日の記事で、「時計仕掛けのオレンジ」という洋画をネタにした。そこで私が言ったのは、「人間を悪いことができないように改造しても、それは改善ではない。できないようではなく、心からしないという風に自発的なものにならない限り、人類の向上はない」というメッセージをした。

 結局世界平和というものも、世界の皆が心からそれを願うことでしか成り立たない。もちろん、力のない庶民たちばかりが願っても意味はなく、法律や戦力を動かせる権力者たちが世界平和を願わないと意味がない。

 核保有国の核兵器放棄ということが早道だが、「捨てたと見せかけて実は捨ててない、という国があったら、最後そこに負ける。そんなことはイヤなので(一斉にせーので皆正直に放棄)などということは起きるはずがないと、人の醜さを皆が信じているので、怖くて捨てられない。

 だって何々ちゃんが(核兵器を)持っているから! (ボクちんもほすぃ) 捨てろって、だって~ちゃんは捨てないかもしれないじゃないか、そんなのずるい! ……ってほんまに人類はまだこどもやな。



●そんな恐怖が維持している平和なんて、平和でしょうか。



 実は、いま世界は平和などではない。

 あなたが今日も明日も明後日も無事で、普通に日常が送れることを「平和」だと呼びたいのならそれもよい。だがそれは、一体何が支えているのかをちゃんと考えたら、まさに『TOMORROW NEVER KNOWS』なのである。

 今のかりそめの平和は、それぞれの国が自分のことしか考えていない実態がたまたま「仲良くしておく(何も悪さをしないこと)が自国に最良」というサイコロの出目になっているという偶然に支えられてのこと。

 間違っても、人類の意識レベルがあがったとかではない。どんだけ過大評価しとんねや! とにかく、今回の万博の問題は、いい機会なのではないか。二年後、ゼンゼン本番に間に合っていない会場を公開して「これが今の世界の問題を象徴的に表しています」とやれば、それもある意味現状の「万国博覧会」だと言える。

 まるで落語のような面白いオチだが、万博の成功が生活とは無縁ではない事情の人からしたら、笑えない大問題だろう。

 直近の東京オリンピックの時もそうだったが、「よさげなイメージのものをそれだけで安易にやろうとするな」という教訓をまだ学べてない。またカネを権力を持っている連中が昔の成功体験(うまい汁吸い体験)が忘れられずにしがみつくのにもまた、「時代はおじいちゃんの時とは違うんだよ」と教えたい。

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