私は本当のその人を知りません

 女優の松たか子さんが語った、ご家庭でのエピソードがちょっと面白かった。8歳になる娘さんがいらっしゃるのだが、「自分が有名女優であることを隠してどこまでバレないでいけるか」という壮大な実験(?)を試みたのだそうだが、やっぱり周りから聞くなどして思ったより早くにバレてしまったのだそう。

 あの「アナ雪」のエルサもお母さんなの? と聞かれ「まぁそうだね」。じゃあ歌ってみてよ、という話になり、一緒にお風呂に入った時に歌ってみるも、風呂場独特の環境のせいか、声が反響しまくって聴こえ方が変わってしまう。

 お母さんの歌を聴いた娘は一言。「なんかちがう」

「あのね、映画のはお仕事だから、ものすごーく気を張って歌ってるの! 今すぐ気軽に出せる声じゃないの。それにあれからずいぶん時間も経ってるしね……」

 言い訳するも、娘はやっぱり「それでも、やっぱりなんか違う」

 以来、二度と「あれ(ありのーままのー)歌って」と言われることはないそうだ。



 私たちは、二つの世界を生きている。

 ひとつは、リアル。生活の中で、直に生身の人間に会い、会話し触れ合う。

 実際に出会っているため、利害やこちらの主観で見誤りもあるものの、そこまで人物評価において「現実離れ」した見方に陥ることは少ない。

 もうひとつは、実際には触れないが加工された「画像や情報を雨あられのように浴びる」バーチャルな世界。TV・映画・雑誌・ラジオ・ネットの動画など、実際に会ったり関係をもつことはまずないが、当たり前のように見かける。

 キムタクもガッキーも浜辺美波も、一生会って話すなどということはないだろうが、ほとんどの人は毎日と言っていいほど見て知っている。

 私たちは、この「実際に会っている人への評価」と「会ったこともない、一方的に与えられる情報だけを聞いて知っている人への評価」の境目を日常さほど意識していない。現実に会ってさえ、本当のその人が分からない(知られざる部分が多い)というのに、ましてやメディアに「こう見てほしいという意図に溢れた情報のみを見せられて、まさにその術中にはまった」ら、もうそれはキムタクやガッキーを「よく知っている」のではなく、幻影を見せられているのである。



 いくら天下のキムタク(福山正治でもいい)であろうがガッキーであろうが、その辺に石を投げたら大ファンに当たるような人気だろうが、オカンや兄弟、幼いころからの知り合いからしたらただの息子娘、子憎たらしい兄姉(弟妹)、近所の~ちゃんなのである。つまり、等身大のその人を知っているので、幻想に囚われようがない。

 先ほどの松たか子の娘さんもそうで、松さんは娘さんにとってはただの「オカン」である。でもこの「ただの」ということころがとっても大切なのである。

 すごくいい部分だけを拡大して見せられ、国民的アイドルになったような人物が例えば不祥事がスクープされ、売り出されていた今までのイメージとはゼンゼン違うと裏切られた気分になるものだ。でもそれは裏切られたんではなくて「幻想の方をその人そのものと勘違いした」というただの独り相撲で、むこうは昔も今もその人で、その人らしく振舞っただけである。それがたまたま隠せなくなっただけである。

 伊藤健太郎という俳優がいて、「今日から俺は!」などのドラマで好演し、それだけ見てたら「超いい人そう」なんだが、後にひき逃げ事件を起こす。あの時も、「人を車でひいたあと、降りて介抱もせずに逃げるような人だったのか」とファンの間に失望が広がった。裏切られたんではなくそもそもそういう素地が彼にはあったのであり、幻想とは違うところで握りつぶせないものとして出てしまっただけだ。



 もちろん、だからと言って私たちは日々画像でしか見ない有名人に会って実際を観察することはできない。芸能人がオカンとか自分の子どもだとか親戚だとか、そういうこともそうない。だから——



●まぁ、落ち着こう。

 私は、本当のあの人を知りません。そう何度かつぶやいてみよう。



 人間関係上のトラブルを生む原因のひとつは、この「幻想を実際と取り違える」ことによる。あと「願望」というものも悪さをする。例えば凶悪犯の親が「私のかわいい息子がそんなことをするわけ(したわけ)ない」と信じるのがそうで、そうであってほしいという強い願いが、相手への見方をゆがませたりする。

 私も一時期、名が売れて本が出たことで、色んな人から会った時に過度に持ち上げられ、賞賛された。もちろん嫌な気はしないが、それでもどこかで「それって等身大の自分じゃないなぁ」と醒めた目で見ていた部分もあった。こうして、幻想というものは作られるんだなぁと。

 松たか子の娘さんにしたら、いくら外部には偉大な女優さんでも彼女には「ママ」なのだ。外部の私たちは、もし松さんが目の前でアナ雪を生で歌ってくれたりしたら泣いて喜ぶ。何だったら、お金を払ってもいいくらい。でも、娘さんは「もういい」という程度のもの。

 幻想を抱くことが悪いと言いたいのではない。生きる上での潤いとして、自分がまず触れることのない華やかな世界に対して夢を見るのは必要だ。ただ、その夢の使い方を間違うな、適切に扱えということである。そこで不必要な怒りや憤りなんか持つようになどなるな、ということだ。



 所詮、人は人。「偉大」というのは、過度に増幅され偏った情報にさらされた結果、誰ぞが必要以上に「自分などよりもはるかに価値のある人間」に見せる。

 そこのからくりを知っておけば、その「本当のところは分からないものなんだ」という意識の前提があれば、たいていの感情的事故は防げる。

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