人と人の間の距離

 大手予備校・河合塾のある教室で、暑いのに冷房がついておらず、ある塾生がツィッターに「暑くて死ぬ。誰か気付いて」と投稿。

 その10分後、塾側が気付いて「今つけました。暑かったですよね、授業頑張ってください」とリプライしたことが話題となった。

 投稿した塾生は「まさか気付いてもらえるとは」と感激。「これは神対応」「10分で気付くのすごい」など、河合塾の対応を称賛する声が多数挙がっている。



 ただ、褒める人間は比率的に若い人が多い。

 オヤジ世代(中高年より上)の人間になると、こういうニュースを聞いてもある感想しか出てこない。ちなみに筆者もそうだ。



●直接言えよ。



 別に、AIが先生ってわけでもないんでしょ。生身の人間が少なくとも教室に一人いるわけでしょ。どうして「先生、暑いんですけど」と言えないのか。その状況が、予備校なんか通ったことのない私には分からない。

 授業の流れの腰を折りたくなかったのか? 私としては、今どきの若い子がそんな超絶「気を遣う」ような動機で言えないとは思いにくい。もっと別の理由のはずだ。

 いくらなんでも、先生の話を「暑いのでエアコン入れてください」と言って瞬間遮っても、別に鬼滅の刃の上弦の鬼と化して襲ってくるわけではない。そんなの当然のコミュニケーションであり、取って食われるなんてないのに。

 なんで、生身の人間に言いに行かないで機械に向かって「投稿」し、それを間接的に気付き対応するのが「素晴らしいこと」になるのか。



●科学や機械文明は進化しているが、人間自体は停滞・あるいは退化している。

 


 生身の人間同士の触れあい、ぶつかり合いが何か「タイヘン」「面倒」なものになってきている。あっても、できるだけ表面的なもの、形式的なものにしようとしてしまう。なぜなら、傷つかないためだ。

 今どきの、ネット社会における匿名性を笠に着た「過剰なバッシング」も、そうして生まれてきた。相手の顔が見えない、相手もこちらの顔が見えないのをいいことに、リアルな人間関係では絶対に口にすることのない種類の言葉を吐ける。

 裏を返せば「もし相手があなたの目の前にいたら、とてもではないが言えない」ということでもある。なぜなら、相手が近くにいる以上、言って瞬時にサイボーグ009のように消える(加速装置?)ということができないため、相手の反応を見ることになる。相手の返答を聞くことになる。

 そういった責任を取りたくないのが、責任を負わなくて済む言いっぱなしの批判者の情けない姿である。



 筆者も、これまで色々書いてきた中で、何か特定の考え方や人物に対して批判してきた。私はそういうものを書く時、ネットで誰の目にも見れるように発表するという時に、ひとつの基準を設けている。その基準をクリアできないなら、批判はしない。



●万が一批判したその相手(あるいは組織)が、こちらとの対談なりを申し込んできたら、堂々と受ける。



 誰もが閲覧可能な場所で批判を展開するからには、こちらにも覚悟がある。

 もしそれで、相手がこちらと連絡を取ってきて「面と向かって話し合おう」と言ってきた時に困ってしまって「えーそこまでのことは……そんなつもりでは……」と難色を示すのは、超絶格好悪い。言っておいて向こうから詰め寄られて弱腰に転じるなど、卑怯の極み。

 私は逆にチャンスだと思っている。普通なら理解し合えなかった相手と、仲良くなれるチャンスだ。そういうことでもなければ、恐らく一生交わることのない人たちだろうから。

 今どきの若い人は、そういうの「濃ゆすぎ」「ウザっ」とか言うのかもしれない。すみませんね、昭和のアナログ世代オヤジで。

 でもそういう年寄りの言うこともちょっとは聞くものですよ。きっと、いいことがありますよ。一定年月死なずに生き続けるということは、そこにある種の知恵もあるものなんです。ただその出し方がヘタで嫌われることも多いですが。(笑)

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