君のことを誤解するよと表明する社会

 人気芸人、EXITの兼近大樹が、広域強盗事件の指示役「ルフィ」との関係を報道されてしまうことで、これからの活動に暗雲がたちこめている。

 親しかったのは昔であり、今は交流はないとされているが、そんなことでこの社会は見逃してくれない。世の中にとって大事なのは今がどう、ではなく「その一点のインパクト」が強烈であるかどうかなのだ。その一点がその人のイメージすべてを覆いつくせるほどのことであれば、本人に現時点での法的責任がなくともそんなこととは関係なく攻撃が襲う。



 たまたまこのタイミングで、彼がTVのトーク番組にて「好きなマンガはワンピース」という言葉を残しており、「それはやばい」と世間の人は反応した。本人はまったくそこに他意はなくとも(本当にワンピースが好きなだけでも)、世間はそうは見てくれない。ああやっぱりな、と考えたくなる。それがただの邪推であるとか証拠がないとか、そんな正論は要らないのだ。面白いストーリー付けが出来たら喜ぶのが、有名人を見る大衆の心理なのだ。

 大衆は、普段は人気者を好んでほめそやし応援して消費するが、ちょっとでもほころびが出たら一転、それまでの好意的態度を変え攻撃に転じる。称賛しながらも心のどこかでは「人生うまくいって恵まれている有名人・日々食べていくだけでも大変な自分」に納得いってなくて、普段見えないそれが不祥事をきっかけに一気に「それはいけませんねぇ」といかにも正義面して、仕事が無くなっても仕方ありませんよねぇとなる。

 私はこれまでに何度も「人は自分が見たいように世界を見る」と言ってきた。これは私に限らずいろんな人が言っていて、自己啓発やスピリチュアルでは一定の市民権のある定番な考え方でもある。

 人間にとって「真理」とか「絶対的な正しさ」というのは、一部の精神的セレブのおもちゃにすぎない。ほとんどの人にとってそれはどうでもよく、「何が自分にとっての都合の良い解釈か」の方が大事で、自分のその解釈が世間の大方のそれとうまく「一致する」ことをもって、他にどんな証拠がなくてもそれは力を得る。



『瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず』という故事成語がある。

 瓜(うり)の畑の中で靴を履き直すと、瓜を盗むと疑われる。また、李(すもも)の木の下で冠を被り直せば、李を盗むと疑われるということから、人などに疑われるような事はするなという戒めを言ったものである。

 裏を返すと、真実がどうかということよりも人はぱっと見の先入観で、しかも自分がそう思いたい(不謹慎だがそう考えたほうが面白いという)考え方を採用するのだから気を付けろということである。そうするやつらにそのダメなことを指摘してもだめだよ、そいつらのほうが強いから負けるよ、と。

 歴史上、それが一番の醜さを見せた事例がイエス・キリストの処刑である。「死刑」という結果に何としても持っていきたい大勢が、あれやこれや今聞けば笑い出すような理由と根拠で正論や真実をねじ伏せた。これにはローマ帝国もあきれて「もう勝手にしたら?」とばかりに匙を投げ、ユダヤの自治によって死刑は行われた。



 この世の「就職活動」で、一部の若者はメンタルをやられると聞いたことがある。何十社も、人によっては百社ほども「不採用」と言われたら、この世から「お前は要らない」「お前には価値がない」と言われているような気になるのだという。

 筆者も、二年間という期限付きの就労支援を受け、就職が決まらなかった。いくつ履歴書を送り、面接を受けたことか。私が賢者テラとして今の境地にいなかったら、心を病んでいたかもしれない。で、就職面接で人を落とすということは「こちらはこちら側の都合であなたがたの価値を勝手に決めるよ」というメッセージだと思った。

 就職しようと志願してくる人は、ほとんどの場合例外なく、その会社で頑張る気である。ちゃんと働く気である。間違いない。

 よほど特殊な職種でもなければ、たいていの人は訓練すればその仕事ができるようになる。百人の中で一人を選りすぐっても、その選に漏れた者がやったらそう変わらない成果をあげられるだろう。

 面接官はどれほど優れた人間なのかは知らないが、彼は基本人を落とすために存在し、一人一人の命としての素晴らしさなどどうでもよい。やる気であってもそんなところを見ない。頭のてっぺんから足のつま先まで厳しくチェックし、その言うことを切り取って、緊張と焦りからその人らしさがでずともそれですべてが決め付けられる。で、残念ですが今回採用を見合わせることとなりました……となる。



●この世で起きる事件、社会の個人への対応に至るまですべて、「こちら側の都合であなたの価値を勝手に決め処遇を決めますが、いいですよね?」というメッセージになっている。



 大事なのは何が真実かよりも「瓜田に履を納れず」で、どう思われてしまうかがすべてだから気を付けなさいよ(あきらめなさいよ)と社会は言っているのである。

 僅か数分の会話と履歴書の文字数の情報だけで、あなたのことをこっちで勝手に解釈して誤解するけどいいよね? と言われているのだ。



 言っていることを聞く限り、EXITの兼近は今回の騒動でそう悪いわけではない。過去には確かにあの犯人と関係があっただろうが、今はまったく交流はないというのはおそらく本当だろう。

 しかしやはり、広く世に知られメディアに頻繁に出て偉そうなことを言い大金を稼ぐ以上、世がイメージ的に「おとがめなしでは済まされない」と解釈したことがすべてだ。これは大衆の性(さが)というもので、自分に都合の良い時は持ち上げ、要らなくなった瞬間パッと手を放す。醜いが、自分よりも圧倒的な強者が崩れていくのを見るのも、人間にとってはうまい蜜のようなものなのだ。

 今回の事件は、人としての集団が作る社会、世界といったものに本当はどうあってほしいか、どうあらねばならないかを考えるよい機会なのではないか。

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