姿なき加害者

 Amazonで、USBケーブルを注文したら届いたのは砂だった——

 そんなネットニュースの見出しがあった。筆者もAmazonはよく利用するので、興味をもってどういうことかと読んでみた。

 そんなことが本当に起きてしまう原因は、商品の返品があった際、返品する側の悪意あるお客が、箱の中身と同等の重さの何かを代わりに詰め、中身は何食わぬ顔でいただいてしまう、ということが考えられるそう。

 そうやって返品されたものを、大したチェックもせずまた売り物にしてしまい、次回注文があった時にその返品商品を「ちゃんとした新品」として客に出してしまうのだ。そうして、悪意あるお客が砂に「変装」させて返品したものが、何の罪もない良客に届いてしまう。

 Amazon側に改善してほしいところだが、できるだけ安価で提供している場合、コスト的にそれ(返品の精査)ができないということも考えられる。多少値段が上がってもそれをやってくれるならよしとするか、だが。でも、一度もそういう被害に遭ったことのない人からすれば文句が出るだろう。実感の湧かないものにお金を取られ余分に払うのだから。



 この人間社会では、生きていれば「不幸」とカテゴライズされる出来事にしばしば見舞われる。そしてそれは、目に見えて明らかに犯人が分かって責任が問える、ということばかりでもない。

 上記の例のように、どこぞの見知らぬ誰かが悪意をもってやったことや、悪意でなくとも「自分くらいいいだろ」とやってしまった小さな小さなズルや迷惑行為が、めぐりめぐって誰かを陥れることがある。いやらしいのは、そうした行為を行う人間は被害に遭う誰かを恨んでいるわけでも、迷惑かけたいわけでもないという点。被害に遭う側はただの運命のいたずら、因果のいたずらで白羽の矢が立つのでたまったものではない。

 深い山中で、左右に分かれる道に標識が立っていて左側の道に「こちら危険」と書かれた看板がおいてあったのを、若者のグループがふざけ半分で右側の道に置いて去った。あとから来た登山客がそれを見て素直に従った結果遭難し、命を落とした。

 防犯カメラもなかったし、当人達以外人もいず目撃者ゼロ。この若者たちは生涯罪に問われることはなかった。それどころか死者が出たことも知らず、その行為は「若い頃のただのいたずら」「酒の席でウケるために語る武勇伝」として死ぬまで認識していた。



 このように、被害に遭っているのに、迷惑を被っているのにその責任を問える明確な対象がいない、また分からないし探せない場合があり、筆者はそれを『姿なき加害者』と呼ぶ。

 そういった現象が起きるのは、いくつかの条件が揃った時である。



①明確な殺意や悪意などなく、ただ「自分が利する行為」「それをすることによって誰かにしわ寄せがいく可能性が考えられる行為」が行われる。

 ただ、そのしわ寄せが「そう大したことはないだろう」という推測の元で実行される。ひどいのになると、自分(と自分の大事な関係者)に影響はないからやってしまおう、として行う「他人に甚大な被害を及ぼす行為」もある。



②そうした行為を見とがめてストップさせたり、止めたりする第三者の不在。

 面倒に巻き込まれたくない、自分じゃないからいいといった思いが動機となり、①の行為が現実に猛威を振るうのを見過ごす。見て見ぬふりというのはこのことであり、せっかくここで食い止められたはずのものでも現実となるのをゆるす。



③性善説に基づいてものを考える一般人が被害を受ける。

 冒頭に挙げた例のように、被害者にまったく非がない場合もある(粗悪品が勝手に送り付けられてきた)が、時として被害者側の落ち度も、悲劇を引き起こす要素となり得ることもある。

 もう少し「用心」さえしていたら。もう少し「疑うこと」ができていたら。もうすこし慎重さが心にあれば防げていたような事件もある。たとえば「詐欺」などもそのひとつ。騙すほうが悪いのは当然だが、騙されるほうにもう少し知恵があれば、と思ってしまうものもある。



 このように、悪意(大きなものでなく、ちょっとの)ある者の行為 → それを目にしたのに見送る第三者 → ついに現実にそれを食らってしまう誰か という三段構えになっている。最後の砦である被害者側に知恵があれば回避可能なものもあるが、そこも突破されてしまうケースが悲しいけれど少なくない。

 あと、この三段階構造の悲劇が起きるのを後押しするもうひとつの要因にも注目すべきだ。



●相手の顔が見えない、という点。



 ネットのバッシングは、相手の顔が見えない(特に被害者側から加害者が見えない)からこそ起きやすい。

 これからするズルや良くない行為の結果、誰が泣くことになるのかハッキリ分かるなら、思いとどまる人は少なくないだろう。しかし、幸か不幸か人間にそのような見通す能力はない。(見通す力があればあったで別の意味で生きずらい世界になる)

 政治家があれほど国民をなめきったことができるのも、国民というひとくくりの単語でしか考えておらず、町の灯りの中に住む個々人の顔や事情など想像できないからである。

 先日のネットニュースでのコメントで、「もう旧統一教会の報道飽きた」「これってそんなに重要な話題ですか? 増税とかロシアの戦争とか少子化とか、もっと力を入れて考えるべきことはたくさんあると思うのですけど」といったものがあった。

 筆者は、実際に旧統一教会に関わった人間なので、そこに関わった者がどれだけ人生大変か知っている。だから、解決を見るまでは戦わないと、と思うほうである。

 でも、身内にそんなことに巻き込まれた人がいない側にしたら、「飽きた」「もっと大事なことあるでしょ」となるのだろう。これなども、自分の便利と快適さばかり見て「世の中の別の事情を抱えた人たちの顔が見えない」から言えてしまう心無い言葉だろう。



 人の間、と書いて『人間』。そこには美しいドラマも生まれるが、人と人との「間」には、埋めがたい溝もまた存在する。それが、事情の違う他人を思いやりにくい、という距離である。その距離が、人と人の「間」なので、宿命的にすれ違いが起きること前提の生き物である。

 この世界では、よほどのエネルギーを費やして頑張らないと、他人の顔など分からない。ましてやその気持ちなどもっと分からない。分かったとしてもそれは「自分なりに想像がついた」という程度のものでしかない。

 筆者は個人的に、以下のことを気を付けて生きようと思っている。



①自分くらい構わないだろう、という考えが出てきたと自覚できた時点で立ち止まる。本当にそれをするのかしないのか。



②よそで自分が何かの悲劇が起きる可能性を見た時、面倒だから、あるいは自分に関係ないからいいや、と見過ごさないように心がける。(もちろん私は神でも超人でもないので完璧は不可能だが、自覚し得る範囲で)



③性善説は確かに人の在り方としては美しいが、知恵もまた大事。

 別に疑うとか人を信じないとかではなく「あらゆる可能性を想定できる」発想力と推察力を養っておく。それには普段からの情報収集と「考える力」が重要である。

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