偽善者が吠えて生きづらい社会に

『めざまし8』という朝のワイドショーで、MCの谷原章介の言った言葉が批判の対象となっている。自転車の交通違反に関して内容が「より厳しいものになった」ことが報道された際、彼が「(警察に)捕まらないためには右側通行をしない、赤信号をきちんと守る、一時停止で止まる。あと一個なんでしたっけ?……歩道は徐行をする、ですね。みんなで気を付けましょう」とコメントした。

 交通ルールを守る目的は、あくまで自分の身や周囲の安全を確保するためであって、『捕まらないため』ではないはず。一般人が軽口のノリで口をすべらせたのなら分かるが、番組のMCの発言としてはいただけない、と苦言が寄せられることに。



 このことに限らず、有名人が何か言ったことに対して「正しさ」という切り口からむっちゃ厳しくチェックする風潮が世間にはある。昔の殿様がお城で言ったことは城下の一般庶民に伝わることはなかったが、今じゃ科学テクノロジーとそれに伴う情報化社会になったせいで「なんでもかんでも伝わる世界になってしまった」。

 もちろん、物事には何でも「限度」とか「越えてはいけない一線」というのはあり、発言によっては聞き捨てしてはならないものもあることは認める。しかし、この谷原氏の失言のケースは「過剰反応しすぎ」である。私はあえて、彼を「捕まらないためでなく、安全を守るためと言わないと」と責める人間を偽善者と呼ばせていただくことにする。



●谷原氏を責める一般人の何人が、車を運転する時に「交通安全。周囲の人を守るぞ」と意識して運転しているのか。



 数百人に一人くらい、運転のたびに「個通安全・人々の安全を守るぞ」と意識できる人間がいるかもしれない。でも、ほとんどは何も考えちゃいない。

 それどころか、警察に捕まって切符を切られた苦い経験を持つ人は、免許がゴールドでなくなるデメリットや免許更新時の面倒などを考えたらいやになるので「もう捕まらんぞ」という意識のほうが、「皆の安全を守る」という気持ちの方よりもはるかに強い場合がある。

 実は、そっちが正直な気持ちだろうと思うのである。そういう意味で、谷原氏は情報番組のMCとしてはどうかという視点なら反省すべきところだが、庶民の一般平均的な気持ちが公の電波で出てしまっただけであり、なんら大勢の実際とかけ離れているわけではない。

 これには、警察の横暴もある。国民の安全を守るため、と思ってやっているようには見えない。もちろん中にはTVドラマで描かれるような立派な警察官もいるのだとは思うが、なかなかお目にはかからない。仕事として、ノルマとして多少ムリがあっても「たいていの人はたてつかないし、たてついても最後には負けない」強みがあるので、多少事情を汲むべきケースでも杓子定規に切符を切る。

 向こうが紳士的で、「ああ本当に悪かった」とこちらが思えるような説明と対応をしてくれたらいいが、そういうケースは少ない。だから警察に捕まった人の多くは心から素直に反省するというより嫌な気分になるだけで終わる。「運悪く捕まっちゃった」という言葉を使う人も多い。

 谷原氏ではないがポロッと「捕まらないためには」という言葉が出てしまうのは、嫌われるような警察の在り方、そもそも悪意がなくても状況により違反が成立してしまいやすい現在の「交通のシステム」自体の問題もあるのだ。



 筆者は、こういう建前上の「正しさ」が守れないことを必要以上に責めるこの社会はまずい方向に向かっていると考える。

 これくらいのこと、なぜ聞き流せないのか? 「ああ、ホンネ出ちゃったね」でいいではないか。一体、何を守ろうとして彼をバッシングするのか? 交通安全が大事だ、ということくらい子どもでも分かる。誰でも分かるんだからいいじゃないか。谷原氏が「捕まらないために」と言ったところで、誰も「そうか! 捕まらないために交通法を守るんだな」と洗脳される人はいない。ああ、この人過去に捕まった苦い思い出でもあるのかね、とクスッと笑っとけば済む話。



●『偽善者』とは、善い行いをすることで、うわべだけいかにも善人らしく見せるようにしている人のことを意味します。 優しい人との違いは、自分を中心に考えていること。 偽善者は、相手のためではなく自分が良い人に見られたくて行動するのです。【偽善者とは、というネット検索での説明】



 谷原氏をバッシングした人の多くは、実は谷原氏とホンネにおいてそう変わらない。ただ、バッシング側には谷原氏のように「声に出してないのでとがめられない」立場にあるため、「交通安全が大事だろ」と普段運転時に考えないようなご立派な建前を盾に、自分とそう変わらない者を責める。

 実際の自分は棚に上げて、谷原氏を責めれば「自分は交通安全を大事に考える立派な良識ある人間の一人」という仮面をかぶることができ、自己満足が得られる。

 このように「責めるほうが実は責められる者とそう変わりない」ケースにおいて、筆者は偽善者と呼ぶ。ただ最近の「ゆたぼん」報道のように、明らかに批判されるほうに問題がある(煽っている)ケースでは仕方がない。あれは非難されて当然である。でも、本人なりに全力で「よかれ」と思って精一杯言ってることに対し、いくら問題があるとしても「もう少し寛大な目で見れないものか」と思う。

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