人は神を超える

 韓国ソウルで149人が死亡する将棋倒し事故があったようだ。その情報はこの記事を書いている現時点でのものであり、時間の経過とともに死者数は増える可能性が高い。

 駅前繁華街のホテル付近の坂でそれは起きた。事故の起きる背景としてあるのが、ハロウィンを楽しむために大勢(数万人規模)がつめかけひしめいていたという点。また、某有名人が飲食店に現れ、一目見ようと局所に人が殺到したという点。



 まさか、ここで人生が終わりになるななて、お亡くなりになった人は誰も思っていなかっただろう。死を覚悟して何か人生の一大事に臨んだ上で命を落としたのではなく、まったくの日常の中の、しかもちょっとした楽しみや好奇心があだとなって。

 たまたまその場所に来た有名芸能人に直接の罪はない。人に害を与えようとかましてや殺そうなんて1ミリも思ってはない。だから責められることはないが、俯瞰した立場で(宇宙規模で)見ればその芸能人も「149人の死に関係している」のだ。すべては繋がっている(縁起)という宇宙観からは、その芸能人も人殺しである。本人が望まずとも。そう偉そうに言う筆者だって、日常何気なくやっていることが、めぐりめぐって誰かの不幸・極端な場合は死に関係していることだって絶対にないとは言えない。



 人間は古来より「神様」というものを考えることが好きだ。

 好きすぎて、宗教などというものを無数につくるほどだ。

 愚かなことに人は、自分たちがそう考えるからといって、まったく別次元で別種の存在の神という存在に対して、自分たちと同じように考えるクセがある。意識構造や認識構造・価値観が異なる可能性にはまったく考えが及ばず、「神は愛」「善であり光」「私たちの幸せを願っている」とか言い出す。

 でも、どうやら神はこの宇宙というレゴブロックを子どもである人間に与えたらあとは、すべて子どもたちのやるに任せるらしいことが観察して分かる。

 どんな善人でも、悪人がナイフで刺せば死ぬ。それを止める者は誰もいない。

 どんな善人でも、地震や台風、火災などの災害に巻き込まれて死ぬ。善意で人を助けようと川や海に飛び込んだ人が、逆に自分が死んでしまったりする。とにかく、どんなに人間が見ていて理不尽すぎてイーッとなりそうな出来事があっても、神とやらは絶対に動かない。



●神こそが、一番の自己責任論者である。



 世間である時期から「自己責任」という言葉がよく使われだした。

 正論に聞こえるが、実に人としては寂しい言葉だ。

 でも、いくら自己責任を叫ぶ人間でも、誰しも心というものがある。特殊な環境で育てられたとか遺伝的に問題を抱えているとかいうのでないかぎり、鬼の目にも涙で多少は「かわいそう」とか「助けようか」という気にもなることがある。

 でも、神は徹底して何もしない。そう考えると、比較論で神より人間のほうがやさしい。人間のほうが愛情深い。神はどこまでも、徹底した観察者なのだ。ただ、観察を続けるために宇宙が維持されるためのエネルギー補給だけはする。それでエントロピー増大の法則と生命の進化とが矛盾するわけの説明がつく。

 水槽で魚を飼うようなものだ。死なないように環境は整えるが、それ以上なにもしない。ただ鑑賞するのみである。



 韓国で亡くなった149人の方々には、それぞれの人生があり、決してその時死んでもいいような命だったわけではないだろう。皆が皆、「そんな因果になって当然の報い」だという後ろめたいことのある人間だとは思えない。

 だったら、「なぜ死ななければならなかったのか」を考えてもさほど意味はない。色々な巡り合わせが重なった結果、生命活動をストップさせられる状況に至ったというそれ以上でもそれ以下でもない。宗教やスピリチュアルはそこに根拠のない(でも感情的にはとびつきたくなる)理由をこさえる。時にそれは人を救うこともあるが、悪く作用すれば根拠のない考えが一生その人を束縛することがある。



 149人の方々が亡くならなければならなかった、誰もが納得できる理由は存在しない。神は究極の自己責任論者なので、結果は結果でそこに何の感想も持たないし、何を見ても「おっとっと」と助けることはない。

 でも、人間は違う。非力だが、できるかぎりその「おっとっと」をやろうとする。それは本当に命を大事に思っているからであり、愛があるからである。であれば、人間は愛において神よりも優れているということになる。



●自己責任という考え方まで神と同じになる必要はない。我々の方が神の上を行く存在になればいいのだ。人こそ神だ。なぜなら愛することができるから。



 神を信じている人は絶対気に入らないだろうが、筆者に言わせると「神には愛する力がない」。そもそも愛を知らない。知らないからこそ、観察しているのだが。

 究極の自己責任論には、愛が入り込む余地がない。愛がなくても成立できるのが自己責任だからである。思いやりがなくていいというシステムだからだ。

 だったら、我らは神を越えるのだ。人こそが神だ。失敗はするし頼りないし多くのケースで愚かだが、完璧な神にはない「慈悲」の心がある。ないように見える人もいるが、呼び覚まされないだけだ。そういえば、慈悲を説く仏教の仏様観音様菩薩様はみな純粋な神ではなく元人間だ。そこの一致は興味深い。

 149人が亡くなった理由は分からなくても、その死を「悼む」ことはできる。

 そのことこそが、人を愛することに並んで、人が成し得るもっとも美しい行為のひとつである。今はただ、なぜなにやああだこうだは置いておいて、ただその早すぎた死を悼もう。 

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