執念と熱狂

 皆さんは、自分の胸に手を当ててみて「過去にものすごく没頭したり熱心に取り組んだことで、気が付いたらやらなくなっていたこと」はあるだろうか。

 もちろん、何かの趣味であったりその時の流行事であったり、長続きせずにやめても別に問題ないことは多い。しかし、ものによっては「あなたの内面の未熟さ」を知ることのできる材料となる。



 スピリチュアルの世界で言うと、ある指導者(先生)の追いかけだ。

 その指導者に惚れ込み、著書を愛読し講演会(お話会)があれば追いかける。中には「自分が先生をお呼びして主催したい」という猛者も出るくらいだ。

 しかし、何かのきっかに(あるいは気付けばいつの間にか)足が遠のき、その先生がどうでもよくなる(あるいははっきりキライになる)ことも少なくない。

 胸に手を当てて考えてみれば「そんな感じで過去何人もの指導者をはしごしたが、未だに誰か探し続けている」という人もいるはずだ。



 その体験自体は悪くない。

 ただ、それを何度も繰り返すようであれば「自分に何か問題がある」と考えるべきである。そういう人の大概は「先生に問題があるから離れた」のだと、相手側に責任を帰する。熱が冷めたり幻滅する何かがあったから自分はファンをやめたので、自分には何も非はないというホンネがある。

 でも、その考え方が改まらないかぎり、あなた自身は成長しないですよ。

 あなたは『熱狂』に囚われていただけなのだ。筆者は、何かの対象に強いエネルギーを継続的に向けたくなる場合に、二つの姿勢があると考える。それが「熱狂」と「執念」である。



●熱狂


 ・熱しやすく、冷めやすい

 ・恋に似ていて、一時的な熱病に似ている。

 ・自分の期待を裏切られるようなことが一度でもあれば、簡単に離れられる。



●執念


 ・外的要因のせいでその対象に対する関りをやめることはまずない

 ・好きだというより自分の「命」「存在意義」に直結しているため、離れると考えること自体があり得ない

 ・誰が何を言おうがその人物の姿勢を変えることはできない



 スピリチュアル難民(長続きせず、惚れ込むスピリチュアル指導者が何度も変わる人)がしているのは熱狂である。当人は「その先生のおかげで本質を掴んだ」とか「本当の真理が見えた」とか思っても、それは勘違いである。そう言うと本人は怒るだろうが、アイドルへのファンの熱狂とそう大差ない。

 執念という言葉は、この世界ではそれほどいい意味では使われないが、筆者の言う執念とは、いつまでも変わることのない熱量のエネルギーを注ぎ続けられる姿勢を取れること、その姿勢の取り方を知れることである。



 たとえば、筆者が日々こうしてメッセージを発信し続けるのは、「執念」である。外野がどやこや言おうが人に見てもらえているいないに関係なく、私はこれをし続けていられる。人生に本当に必要なのはこういう力だ。

 熱狂では、これが身に付かない。結局その人は根無し草・浮き草のごときである。外に何かあったくらいのことで、自分がこれまでよりどころにしていたものを変えられるくらいなら、最初からあなたは確かなものなど何もつかんでいなかった、ということである。



 勘違いを避けるために言っておくが、結局私が言いたいのは「一人の先生に飽きずに師事し続けろ」ということではない。私が言ったような「執念」が持てるに足る対象として、人間はふさわしくない。人間なんで、あなたが幻滅するような言動を取ることも失敗することもあるからだ。

 一時期、指導者という人間に惚れ込んでもいい。人間に子ども時代があるように、そういった時期を通過することは大事だ。合理的に、間をすっ飛ばして即正解に行きたいなど、ムシの良すぎる話で、そんなものは世にない。

 でも、一通り体験して、結局どんなに素晴らしいことを言う人間でも所詮人間なんだ、ということを嫌というほど体験したら、「人(自分よりすごい人)依存のスピリチュアルを卒業する時」だ。



●執念を維持できるのは、エネルギーを向ける先が人ではなく、概念や信念、あるいは自分の使命といった「目に見えないもの」に向かう場合だ。



 筆者の場合は、「自分にとって書くこと、話すことが命」だということに対してだ。人からどう思われるかとか、どう評価されるかなど関係ないから、無敵だ。

 だから、一番いいのは「人を熱狂的に崇拝する時期をはやく終わらせて、自分なりの普遍なる執念の対象を掴む」ことである。

 私はどハマりする指導者をコロコロ変えるなと言いたいのではなく、ただ「何かのすごい人を尊敬のまなざしで見る(指導者が恋愛対象の範囲内の年齢や容姿だと、時には妙な異性感情も入り込むことすらある)ことを卒業して、ただあなたなりに辿りついた信念(信条)という内面のみを頼みとできる人になれ」と勧めている。

 こう言うと、「もしそのたどり着いた信念が間違ったものだとしたら? それを他者に学ばず頑迷に頼り続けたら、目も当てらないことになるのでは?」と心配する人もあろう。

 人を頼る次元を突き抜けて至ったものなら、どんな信念だろうがそれがあなたや他者を害することはあり得ない。もしあるのだとしたら、それはあなたの考えの前提がどこかが間違っているのだ。長い計算式の最初でつまづけば、そのあとどんなに正しく計算できても出てくる答えは間違いである。



●悪なる信念・他者の幸福を脅かす信念は、その精神性が幼い段階でしか持てないものであり、ほぼ例外がない。



 ただし、悟りを得た人間のすることは、その行動原理や依って立つ信念基盤が社会通念上の常識や暗黙の不文律と異なる場合があるため、人によっては「感心しない」ものと見える場合がある。そこだけが唯一の例外だろうか。イエス・キリストが十字架刑に処せられたのも、そのひとつの例であろう。

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