この世界には普通の人しかいない
大御所歌手の長淵剛が、コンサートで来場者向けに語った言葉が波紋を呼んでいる。「俺、コロナになっちゃったけどね。たいしたことないんですよ。本当におかしいです、今の日本は。騙されんじゃねえよ」。
政治でも、二階元幹事長が安倍元首相の国葬について賛否が激しく二分する中「国葬をやらないなんてバカ」と言い、旧統一教会問題があってもということであろうが「自民党はビクともしない」と発言。
これに多くの国民が反発を見せている。だが悲しいのは、反発は出るけど長渕も二階さんも、今日も明日も身の安泰は変わらないであろう、ということ。元首相のように、どこぞの針の振り切れた人物に襲われない限りは。
私たち庶民にしてみたら、不思議だ。「なぜ、そんなことが言えるのか」と。
ケンカ売ってるのか? とも思えてしまう。コロナの問題などは特に、症状も色々で子どもから高齢者まで様々な健康状態の人がいて、長渕殿がコロナにかかって大したことなかっても「それはあなたの感想でしょ?」ということでしかない。それを、メディアを通じて大勢に報道されてしまうことが分かっている場で言ってしまうのはどうなのだろう。
二階さんの発言にしても、冷静に考えたら「百害あって一利なし」だと分かることだ。リスクのあることでも、何かの得が見込めるならあえてそのリスクのあることをやる意味があるが、この発言で自民党にいいことがあるなど筆者にはどうしたって思いつかない。
人が「この人の考えにはついていけん」と思うのには、わけがある。
●人は、基本的にホンネしか語らない。
世にいる十数億の人類の生まれた環境・育てられた環境、親や教師の資質・知り合いや友人となる人物の質が均等なら、そういった平均化された人間たちが構成する世界は比較的混乱の少ない世界となるだろう。だが残念なことに、働きアリの法則というのがあるように「どんなにしても、ある集団の中では絶対に個性や方向性の異なる個が宿命的に生じる」からさほど意味がないが。
現実の世界は、生まれた場所も文化も、持って生まれた内的・肉体的特徴も環境も人間関係も皆違う。だから、結局心の底からのホンネも皆違う。
世に「ウソをつく」という行為がある。皆さんはウソをつくとは「ホンネと違うことを言うこと、ホンネを偽ること」と思っているでしょう。でも、筆者は違う。
●ウソとは、ホンネである。
私は、そのウソは深堀したらホンネであると考える。
なぜなら、本当にホンネならどうしたって偽れない、絶対に譲れないラインのことだと思うからだ。ホンネとは、私にとって「命を賭して表現するに値するもの」と考えるからだ。
だから、お金や何かの得のために「ウソが言えてしまう」のなら、その程度のホンネなどホンネと呼ぶに値しない、と私は考える。ウソが言えてしまうその軽さこそが、その人の本質なのだ。
長渕剛も、二階元幹事長も悪気はない。ただ、ホンネを言っただけ。そして、ホンネを言う場所と機会を頭の悪さゆえに誤っただけ。
人は皆、ホンネで生きている。よく仮面をつけて生きているとか忖度して、ホンネを隠して生きているなどと言われるが、そんな物事の捉え方は面倒である。私なら、その忖度こそその従わせられているかのような言動こそ、ホンネであると考える。イエス・キリストも言っている。
●彼(悪魔)が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。
【ヨハネによる福音書第8章44節】
そのウソこそホンネ。ウソがつけた瞬間、それはその人物のホンネとなる。
皆さん、そのことをゆめゆめ忘れるでないですぞ!
これまで言ってきたように、人類一人ひとりの世界観・人生観がみな微妙に違い、その個々がホンネを語れば、別の人間は必然的に違和感をそこに感じることになる。そうした違和感が、この社会に議論というものを呼び、行き過ぎると過度な攻撃・バッシングとなる。
今回、長渕や二階の言葉に違和感を感じるのは、まぁ普通である。でも、じゃあ長渕や二階が普通じゃないのか、というと——
●彼らには、それが「普通」なのだ。
そう考えると、この世界には「普通の人」しかいない。
そう。普通の人というのが世の中の主たる部分を構成しているんではなくて、「自分のことを普通と考える人」ばかりで占められているというほうが事実だ。その普通が人により異なるので、ケンカや仲たがいのもととなるのだ。
もう読者の方には耳タコかもしれないが、大事なことだから何度でも言う。
●自分には本当の普通は分かり得ない、と認めてしまうこと。
先日の記事で、性衝動の問題のことを扱った時に、精神性を高めた人間が「自分はも性欲をコントロールできる」と考えてしまうのは愚の骨頂だという話をした。
一番いいのは、「人はそもそも性欲を完全コントロールなどできないのだ。できるなど思い上がりに過ぎない」と考えること。そうした謙虚さが持てたら、逆に大事な場面で誘惑を回避できる可能性も高まる、と。
今回も考え方の骨子は共通していて、本当の普通など私にも、世界の誰にも分からないということをまず認めて、白旗を挙げてしまうこと。その「本当の普通が分からない人たち」が一生懸命生きるがゆえに自分が普通と思うものを表現し、その表現が違う普通を考える者たちによって色々と言われる。
世界とはそうしたものだ、と思ってあきらめることだ。あきらめるとは、もう放っておけとか失言・暴言はなくならないんだということを言いたいのではない。筆者は、価値観の異なる他人の失言・暴言に対しては以下の対応を勧める。
●普通という基準が皆違うのだから一度は寛大な気持ちで受け止めてみて、それでもどうしても「その発言は聞き捨てならない(それがまかり通るなら私の生活を脅かしかねない)」場合にだけ、自分を守るために他人に異を唱えても構わないと思う。
この世界の人間はすべて「自分を普通と思っている異常者」という勢いで考えてもあながち間違いではないほど、この世界はちょっとずつ価値観のズレた者同士のバトルの場となっているのだ。
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