開拓者の邪魔をしないこと

 伝説の未完名作漫画(はやく完結してくれ!)『ガラスの仮面』。

 主人公の北島マヤという少女が、とある劇団の座長から採用試験のようなものを受ける場面がある。その女座長は、そのへんにあったイスを突然横倒しにする。



●この椅子に座ってごらんなさい



 まるで一休さんに出すとんち問題のようである。

 原作未読の方、このエピソードを御存じない方はちょっと考えてもらいたい。あなたなら、どんな解答をひねり出すだろうか?

 一番ダメな答えは、「横倒しになったままの椅子の上に何とか座ってみる」。だって、座れと言ったんでしょ? だから頑張って座ってみました! ってやつ。

 では、北島マヤが実際にやった行為がこちら。



●倒れた椅子から少し離れた場所に、横向けに寝転んだ。



 では、一体なぜ? マヤ本人の言い分。

「もしこの椅子に座っていたなら、椅子が倒れて投げ出されて、私はこうやって倒れているだろうなぁ、って……」

 それを見た座長さん、この子の舞台度胸は大したものだ、と評価する。

 さて、この話の中で人というものは二つのタイプに分けられる。



①座れと言われた椅子が倒れているので、どうやってこれに座れと言うんだ? と普通に困るタイプ。



②「座る」という単語に固執しない。

 椅子が倒れている→ これに座っていたなら体が投げ出されているだろう → 自然な状況として寝転ぶ、を選択する。



 ②で重要なのは、「座れと言われたのに座るという行為をしていない」ということ。日本人の短所は、上から言われたことはきちんとやる、と徹底して教わるところ。だから、座りなさいと命じられたらどうしても「座る」をしないと気が済まなくなる。でも、肝心の椅子はコケているので、座りにくい。でも、その倒れた椅子の上にムリに座ることが正解じゃないだろうと察せるくらいの脳味噌はあるので、どうしたらいいかまごつく。それが大多数の者の残念な思考だろう。

 天才とは、才能という言い方よりも「ひらめき」という言葉のほうが的確に言い表せるような気がする。凡人は、言葉の内容や表層を撫でようとしかしない。常識という、決められた枠組みの中でしか駒を動かせないので、イノベーションが起きにくい。でも天才的な「ひらめき」は、必ずしもお題の枠に囚われることなく自由に羽ばたき、驚くような別手段をもって課題をクリアしてしまうのである。



 今の世の中を覆っている閉塞感は、決められた社会の枠組みであり、凝り固まった「良識・常識」と言われるものである。

 問題なのは、それらを守っていたらとりあえずは問題なく生きてはいけるからだ。発展はしないし現状維持だが、自分の目の黒いうちはまともに稼げ仲間はずれにもされず生きていけはする。(ただ孫が大人になる代のことは知らん)

 ただ、世の大勢がその流儀に従う限り、その時代は変わらない。ただ歴史時間軸にも我慢の限界のようなものがあって、一定時間をすぎてもまだしがみつくようなら、状況をチェンジさせる強制イベントを発生させる。

 たとえば、長く続いた江戸幕府時代は、黒船の来航を機に大きく動いた。それまで徳川が築いた日本の支配体制(武家諸法度・参勤交代)があまりにも強固で、何も起きないともっとダラダラ続いたので天のシステムは全体の状況におかまいなく場面転換した。

 アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に出てくる使徒という存在も、人類が「本当に幸せに生きる気があるのか。そんな既存のシステムに縛られて何となく生きている気なら、こちらで一度リセットしようか? そのほうがあなたがたのためだ」と人類に質問に来たのだ。



 多くの人が、既存の枠の中でしか考えない。

 犯罪を犯した人や絶望した人に「だからって倫理・道徳にもとることをせず頑張れ」と言う。でも、皆この社会が命を懸けた「椅子取りゲーム」であることを都合よく忘れている。運よく座れた者が、その座れたことを運ではなく実力と勘違いし、座れなかった人間は運が悪かったのではなく「実力がなかった」「努力が足りなかった」とし、退場していっても同情も引き留めもしない。

 そんな人(無敵の人)が、精神的に追い詰められ病的になり「うまくやってるやつを道連れにしてやる」と社会に牙をむいても、それは自分たちにも遠因があるとは考えずに「だからって悪いことはしちゃいかんだろう」と、法に沿った基準や命の重さがどうという宗教的・道徳的価値観を盾に一方的におかしいやつ扱い。

 生活保護も、なまけるな働け、仕事を選ばなければなんだってある、と実に他人事。ほんの一部のけしからん例だけを盾に、生活保護全体を攻撃する懐の狭さ。

 格差社会であることが浮き彫りとなり、少子化も明らかなのに未だ国に深刻さは見られず、税金問題や年金問題、教師の質の低下問題(雇用の問題もある)。エッセンシャルワーカーと呼ばれる人々の待遇が仕事内容に見合っておらず、一方でスポーツ選手・芸能人・政治家の給料が多すぎるがほとんどの人がこれを当然と受け止めているという驚くべき感覚の問題。

 これらすべてで、北島マヤのような発想で「え、その手があった?」と驚くような案を提示してくれる開拓者(パイオニア)が現れることが望まれている。早くしないと、制限時間は無限ではない。



 筆者を含め、ほとんどの者は残念ながら「凡夫」であろう。そしてそれは演劇上で振られた役割のようなもので、決して本人に問題があるのではない。

 ただ、天才のようにイノベーションを起こせないなら、起こせないなりにやれることというのはある。



●天才を応援せよ。

 それが難しいなら、せめて邪魔をするな。



 ガリレオやコペルニクスが地球がまるくて動いているという「地動説」を唱えた時、中世当時のキリスト教的世界観の常識では「地球は平面」だった。だから、この二人のほうがおかしいとされた。

 アメリカでも、リンカーンによる奴隷解放やキング牧師による黒人の権利回復などの運動があった。今の世の中なら、肌の色が違っても人としての命の価値は同じ・皆尊いと自然に考えられるだろう。でも昔は、黒人を奴隷のように扱って本当に心痛まない人たちがいたのだ。動物を見るのと一緒で、パフェは別腹的なことで自分の家族を愛しながら黒人奴隷には残酷な仕打ちをするということが両立出来てしまっていた。キング牧師の生きた時代も、黒人の乗れないバスや利用できない施設などがあった。その風穴を開けるのは、新しい時代には正しいことであってもそれまでを良いとする大勢の攻撃に遭った。

 私たちは既存の考えから冒険できず、斬新で目新しい提案が出てきても、やれ無理だの現実的でないだの、とかく「既存の枠を壊さず考える」ことが習い性になっている。だからせめて自分たちはそのような傾向があると認めて、天才がこの世界を変える旗手を担ってくれるのをせめて邪魔せず、温かく見守ろうではないか。

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